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農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 8

8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。

昨日、キトウェに到着した一行は、ザンビア合同教会大学との会合を行いましたが、今回は同じ敷地内にあるミンドロ・エキュメニカル財団(MEF)の話です。
一片の皮からじゃがいもを量産…?
1,000ヘクタールの農地って一体…?
自分たちの土地に不法滞在していた人々に無償で土地を与え、生き延びる術を教える…?
MEFでの農場見学は、驚きにあふれていました!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!

【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 9日目】

ミンドロ・エキュメニカル財団(MEF)
休暇中だというのに、今朝のチャペルでの賛美礼拝には、それなりの数の学生たちが来ていた。リマインドするが、この敷地内にはザンビア合同教会大学と、ミンドロ・エキュメニカル財団という二つの教育機関がある。昨日我々は大学の人々と過ごし、今日は財団の人々と過ごしている。今日行われる最終試験のために来ている学生もいた。予想通り、礼拝は歌にあふれ、その歌声は本当に素晴らしかった。ゲストとして合唱団も来ていた。牧師であり、教授であり、博士でもあるホイス氏が説教をし、我々のことを紹介してくれた。彼女は、カイがアジア学院に入学する可否を決める権限を持つ採用担当であることから、彼のことを”ビック・ポテト”と呼んだ。

きっちりと議題が印刷された公式の会合に向かう途中、ハンスが、MEFはここ数年で大きく衰退してしまったが、理事長のマダム・ホイスが懸命に再建に取り組んでいることを話してくれた。ちなみにハンスは、Bread for the Worldという団体のドイツ支部から派遣されているボランティアだ。3年余りある任期のうちの、8カ月を終えたところで、有機農業の技術者として長年エクアドルでの開発事業に携わってきた。

会議の参加者は、2020年から専務理事をしているマダム・ホイス、ハンス、牧師、設備管理責任者 (なぜ彼がいたのかは不明だが、とても自然な感じで)、そしてもちろんカイと私だ。最初に要求された仕事は、大きなハードカバーのゲストブックにサインすることだった。そしてマダム・ホイスが、修士課程の「平和と紛争解決」に代表される、いくつかの教育プログラムについて説明した。また、ザンビアでも指折りの、大規模な図書館を有しているという。どうやら、農業プログラムは一度停滞したが、2021年に再開し、現在は農業科があり、57名の学生がアグロエコジーについて学んでいる。

MEFは日本政府といった、協働するパートナーを増やすことに力を注いでいる。日本大使館に提出した計画の例として、農場へのソーラーパネルの導入がある。干ばつによる停電が続いており、電力供給は継続的な課題だからだ。加えて、次年度にはJOCVボランティアの派遣にも期待を寄せている。
我々の訪問も、構築、または再構築されたパートナーシップの一つだ。私は、旅の数カ月前からMEFと連絡を取り始め、80-90年代にかけて彼らがアジア学院に派遣した4名の卒業生の消息を聞いていた。結果は、2名は逝去、1名は消息不明、残る1名はすでに退職し、ナコンデ在住とのことで、彼女とはワッツアップで会話することができた!MEFは、関係を再構築する良い機会だと捉え、私の要求に迅速に対応してくれた。すぐにズームでの会合をリクエストし、今回のザンビア旅行中に立ち寄ることも快諾してくれたのだ。会合では、2名のアジア学院の学生候補も紹介してもらい、のちに二人と直接話す機会も得た。

農業に関しては、MEFは驚くことに1,000ヘクタールの農地を有しており、ほとんどは手つかずだという。元々、政府から譲渡された土地は、2,800ヘクタールあったが、約2/3は売却した。キャンパスからミンドロ研修農場へは軽いドライブが必要で、農場長のジェイコブ、副農場長のイーブリンがMEFの他の職員と同行し、我々を案内してくれた。

現時点で、5頭の牛、47頭のヤギ、56頭の豚、そして約100羽の地元品種の鶏がいる。ここの牛は、ホルスタインと地元のンゴニという血統の交雑種だ。一番大きい牛は、マウンテンと呼ばれていた。糞尿は堆肥の重要な材料として集められており、堆肥づくりも研修の一環だという。水源は深掘りの井戸だが、必要量は満たしておらず、より深い穴を掘りたいと考えている。小さな畑ではナスとアマランサスといった混作を行っている。アマランサスは栄養に富み、ミエリーミールと混ぜたりして食べられている。また、トウモロコシと緑豆の混作も行われている。このトウモロコシは大きくて赤い粒を持つ、この地域特有の品種で、干ばつに強いと言われている。ジェイコブは間引きしたニンジンを植えなおす実験を行っており、全く問題なく育っていることを誇らしげに報告した。

ある区画には袋で育てられたジャガイモが並んでいた。芽のついている、ぶ厚い皮の一片を植えれば、ジャガイモを収穫できるのだ。袋で育てれば、保水もできるし、場所もあまり取らない。ジェイコブが嬉々として取り入れている数々の新しい方法は、20年の歴史を持つドン・トラスト・ファームという、ンドラにある農場での研修で得た、先駆的な有機農業の技術だという。

原住民の人々のための、在来種の木々
ジェイコブは、マラウイで行われているという、”ファミリー・プロット”という観念を紹介してくれた。それは、60×39メートルほどの小さな土地で、世帯ごとに自分たちで消費するトウモロコシを育てるというものだった。52列の畝にトウモロコシを植えるというのがそのアイディアだが、畝は、5人家族が一週間食べるのに十分な長さにする必要がある。52列あれば、年間を通して食べ物に困らない。小さい畑なので、家の近くに作ることができ、手作業で水やりをするにしても、家族単位で管理しやすい。この仕組みは、従来の、販売を目的とした大規模なトウモロコシ栽培のやり方とは対照的である。広大な土地は一般的に住居から離れており、雨水任せだ。ジュディが言うには、ザンビア人はトウモロコシにひどく依存しており、それが「自分たちの首を絞めている。」「私たちはヤムイモやヒエ、アワ、タカキビなどもっと多様に育てて食べるべき。」

MEFは、年間1,100本を目指して、2020年から植林を始めた。すぐに彼らは、地元の人が苗を移植した土地を燃やしてしまうという問題に直面した。焼き畑は、農業用の土地を切り開くために、よく行われている方法だ。しかしながら、農業を行わない土地も燃やしてしまう。その煙が雨をもたらす雲を発生させると信じているのだ。彼らは10年前にやった時と同じように、また雨が降ってくれることを切に望んでおり、森林が減少すれば、もっと雨が降らなくなるということを知らない。だから、MEFの職員は、森林と植林の重要性、そして、それを燃やしてはならないことを人々に教えている。

ジェイコブは、マスクツリーや、スンゴレツリーといった、土着の木を育てる努力をしているが、それらを発芽させるのは容易ではない。彼は果物の木や、アカシアの木(マメ科で、窒素固定をしてくれる)も植えている。苗は、雨期の始めに移植しているので、恐らく11月頃になると思われるが、近年は予測が難しい。

新しい村が作られた
MEFがこの土地を手に入れた時、その一部には、不法に滞在している人々がいた。MEFは彼らを追い出すどころか、各家族に3ヘクタールずつの土地を与えた。人々はチログウェと呼ばれる小さなコミュニティを形成し、MEFは、発展のための小さなプロジェクトと研修を行っている。彼らは土地を手に入れたが、充分な収量を得ることができていない。政府から肥料の配給があった時にだけ、作物を植えるからだ。それは不定期で、量も不十分なので、一日に1,2回しか食事が摂れない。そのため、MEFが彼らを助けるために最初に行ったことは、土壌改善だった。前述したように、焼き畑をするのではなく、葉や低木を堆肥にするやり方を教えた。
また、”路地状の農場”も試みており、そこでは、幅3メートルにわたって自生する森林が、風除け、木陰、保水などの機能を果たしている。その森林の間に、8メートル幅の農地が挟まれ、ストライプのようになっているというわけだ。そのコミュニティは、我々がいるところからはかなり離れたところにあるので、訪ねることはできなかったが、MEFが家屋を数軒と、3ヘクタールのコミュニティ農場を作る計画を立てている地域は通った。
二人の人が井戸掘りをしており、フィリという名の男性が、深くて狭い穴の底で、バケツに泥を入れ、上にいる男性がそれを引き上げて、中身を空にしていた。この泥は、新しく作られる家々のレンガの材料となる。その場所には、すでに2つの教会が建てられており、本当に村は遠いのだろうかと不思議に思った。将来的には学校とクリニックが建設される予定だ。より良いコミュニティを考える時、健康と教育は決して欠かせない!

ジュディは、先に述べられた、チログウェ・コミュニティの人々が1日に1、2回しか食事が摂れず、政府から配られる(不規則な)化学肥料に依存していることを繰り返した。この情報は、彼女がコミュニティを訪問し、人々と会話する中で得たものだった。MEFは村人たちが3食食べられるようになることを目指している。彼らは、“贈り物の譲渡” ヤギプロジェクトを開始したいと考えており、鶏も配布する予定だ。鶏が産む卵を食べるか、MEFに託してヒナにかえすか、自由に選ぶことができる。この特定の地域では、人々は焼き畑を行わなくなり、土地を耕すのに全ての木を燃やす必要がないことを知った――これは前述の路地耕作のことを指していると思われる。また、トウモロコシとキャッサバだけではなく、タカキビ、ヒエ、アワ、大豆など多様な作物を育てるように指導を受けている。ある家族が、新しい農法で成功しているのを見れば、近所の人たちも真似をするようになる。

我々が見学したコミュニティのプロジェクトはドイツの教会の支援を受けているという。教会がコンクリートなどの材料を提供し、コミュニティは労働や、レンガのための泥といった地域資源を提供している。

文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)

シリーズ記事はこちら

Vol.0 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 序章】

Vol.1 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 1-2日目】 

Vol.2 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 3日目】

Vol.3 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 4日目】

Vol.4 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】

Vol.5 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 6日目】

Vol.6 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 7日目】

Vol.7 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 8日目】

Vol.8 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 9日目】<== 今ここ!

Vol.9 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 10日目】



農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol.7

8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。

様々な困難があっても、人々はたくましく生きています。
「これがアフリカさ!」と言いたくなる場面が盛り沢山の8日目です。
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!

【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 8日目】

北部の旅の続き
朝6時に出発したが、すぐに重量測定所の前でトラックの渋滞に出くわした。幸い、私たちはそれを迂回し、先へ進むことができた。前述したように、トラックは銅を積んでいるので重い。暑い季節はアスファルトが軟らかくなり、轍に溜まるので、運転するのが危険な状態になる。ジョンは終始、スピードを落として走行した。

コンゴ共和国との国境に近づいていたため、向こう側で売るための家畜や農産物を積んだトラックがたくさんいた。ジュディによれば、数時間で売り切って、高収入を得ることができるそうだ。コンゴの人たちは”働くのが嫌い”で、歌やダンス、ビールが大好き。鉱山のおかげでお金にも困らないそうだ。
のちに私はアジア学院で、コンゴ共和国から来た勤勉そうな学生にその真偽について聞いてみた。彼はこう答えた。「そうだね、そういう人もいるよ。特にダンスや歌が上手い人は!」
あるトラックが家畜を3段に積んで、私たちの横を通り過ぎていった。ブレーメンの音楽隊のように、一番下には豚、2段目にはヤギ、一番上には鶏が乗っていた。

起業家たち
通過する各地域の道端では、それぞれ独自の商品が売られていた。ある区間には、水を入れるためのひょうたんの容器が何百と並んでいた。とても素敵だったが、本気で買いたいと思った時には、もう見つけることができなかった。ジュディは、ミュンブを見つけると喜んで立ち寄った。キャッサバに似ているが、生で食べられる。生のジャガイモのような味で、信じられないかもしれないが私は好きだ!水を入れる容器で売られている地場産のハチミツも人気のようだった。だが、ガソリンと間違えないように注意してほしい。こちらも同様の容器に入れられて、道の反対側で売られている。
時折、少年たちがトラックを停め、タンクから直接燃料を取り出して売ってもらう。要するに、トラック運転手は会社の燃料をこっそり盗んで利益を得て、少年たちはそれを高値で旅行者に売る。ジォフリーなら、また「これがアフリカさ!」と言うかもしれない。木炭は全行程の至るところで目にした。重大な森林破壊を招いているが、農産物が不作になり、多くの人にとっての唯一の収入源になっていると言うから、どうすることもできない。

中国人がこの道路と並行して2本目の道路を建設しているので、4車線に分断された高速道路ができるというわけだ。中国人はアフリカのほぼ全ての道路を建設している。中国人労働者のための巨大な複合施設があちこちに見られ、住居、店舗、バスケットボールコートなどが完備されている。
ある時、中国人が道路の向こう側にいる地元の労働者に大声で怒鳴り散らしているのを見た。彼らはどうやってコミュニケーションをとっているのだろうかと不思議に思った。ザンビア人のなかには、中国に留学して言葉を学び、通訳の役割を果たす者もいる。地元の労働者を雇用することは経済にとって素晴らしい一歩であり、喜ばしいことだが、中国人のエンジニアたちが頭を抱えて帰宅する夜もあるに違いない!

「どこに連れて行かれようと、私たちは楽園を作ってみせる!」
9時頃、我々はよく整備された、ヌドラの町に到着した。ゲトルード(2013年アジア学院卒)に電話をして、彼女の教会まで案内してもらった。彼女は、2年前にこの地域に赴任し、チフフ(我々が訪ねたところ)とチフルクスというところにある2つの教会で奉仕をしている。教会員は250名いる。ゲトルードは中央アフリカ長老教会の、9名いる女性牧師のうちの一人だ。男性牧師が71名いるというから、男女50:50の比率になるには、まだまだほど遠い。

彼女は、教会の敷地内にある畑を簡単に案内してくれた。鶏糞を肥料として使い、浅井戸の水をまいている。井戸は乾期になると枯れてしまうので、深い穴を掘りたいと切に願っているのだが、それにはお金がかかる。彼女が先頭に立って始めた畑だったが、のちに4名の女性が加わった。この小さなグループはウェシワチュタと呼ばれ、神の恵み、という意味だという。生産物の一部は家庭に持ち帰り、その他は近くの道端で売るのだが、いつも午前10時には売り切れてしまう。10㎞離れた彼女の故郷ルワンシャには10ヘクタールの農場があり、家族でジャガイモやホワイトコーン、ポップコーンを育てている。

アジア学院に来た時、彼女はルンダジというところにある教会で働いており、良い農業プログラムを行っていた。しかし彼女の上司が、そのプログラムに使われるはずだったお金を不正に処理し、彼女を異動させた。「若い牧師が先輩牧師を差し置いて成功することは許されないの。」と彼女は説明した。彼らは嫉妬したのだ。この手の教会における指導者の集中攻撃は、アフリカではよくある話で、どこでも起こりうる。
教会にこのような農業プログラムがあるのは稀なので、彼女は異動させられるたびに一から新しく始めなければならなかった。しかし彼女はそれを冷静に受け止めてこう言う。「どこに連れて行かれようと、私たちは楽園を作ってみせる!」

それからゲトルードは、遅い朝食と、家族に会わせるために、我々を彼女の家に連れて行った。彼女の夫も同じく牧師をしている。
ヌドラで、我々はジュディの姉に会うため、大きなカトリック教会に立ち寄った。彼女は77歳だが、今も現役で教育部門の奉仕を続けている。

謙虚な牧師の偉大な足跡
キトウェに向かう車中で、ジョンは、1980年代に北西地区で、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のアンゴラ難民にかかわる仕事をしていた時のことを話してくれた。ザンビア全土の我々が訪れた先々で、ジョンは自分が仕事をしたり、牧師として奉仕したりしていた場所を挙げた。ジョンが足を運んで人々に仕えてきた、その長い経歴に関わらない場所を見つける方が難しいのではないかと思うくらいだった。アジア学院について話す時、彼はいつも自分が初めてのザンビア人であったことを誇りに思っているようだった。

我々は、アフリカの教会の厳しい階層構造についても話をした。アジア学院が下位の指導者の育成を目指している事実は、アフリカの教会制度に挑戦状を叩きつけている。ジュディは、学生に、母国で直面している課題を理解させる必要があると言った。また、卒業生は送り出し団体を説得することから始めるのではなく、新しいアイデアをどんどん実践すべきだと話した。「まずは始めて、送り出し団体に見せたら良いのよ。とはいえ、さっき話したような階層構造の中で、それがどう働くかは分からないけどね!」

キトウェに到着
午後の2時頃にキトウェに着き、すぐに我々は、これから数日間滞在するミンドロ・エキュメニカル財団(MEF)に向かった。広大な敷地を持っており、その一部を他団体に貸し出している。
ポール・サンバ(2004年アジア学院卒)が我々を待っていた!ポールは現在、ザンビア合同教会大学の学長を務めており、この大学もMEFの敷地内にある。アジア学院に来た時、彼はまだチペンビ農業大学(同じザンビア合同教会の傘下 Vol.6参照)の校長をしていた。

学校はすでに休みに入り、約40名の学生がザンビア中の教会で働くために外に出ていたが、キャンパス内には少ないながらも、まだ学生が残っていた。ポールは我々を礼拝堂に案内した。扉や窓越しに歌声が聞こえてきた。これは公式の歓迎の場であり、中に入り、歌ったのち、ポールや他の学長たちが我々に短く挨拶を述べ、我々も学生たちを前に簡単な挨拶をした。

すみません、美味しいものの話はやめられない!
その後すぐに、地元のレストランで豪華な食事をごちそうになった。ザ・ハットという伝統的な藁葺き屋根のレストランだ。メニューには、色々な種類の動物の巨大な肉が並んでいた。私はポークリブ、カイは子羊のリブを選んだ。忘れられないごちそうだった!
料理を待つ約1時間の間、店内のあちこちに設置されたテレビの画面は、オリンピック女子のウェイトリフティングで埋め尽くされていたが、やがて、男子400mで銅メダルを獲得したザンビアの選手や、男子10000mでオリンピック記録を樹立したウガンダの選手のインタビューへと変わった。

ザンビア合同教会大学との公式会合
施設に戻ると、我々は会議室に案内された。ザンビア合同教会大学との運営会議があり、とても仰々しい形で、きちんとタイプされた議題が用意されていた。
副学長は、神学部と宗教学部があり、宣教、社会参加、初等・中等学校の教職のための研修を行なっていることを説明した。別の場所には看護大学もあり、前述のチペンビ農業大学では農業教育を行っている。需要が高いため、公衆衛生・環境衛生学部を復活させる計画があり、そのための施設を新しくする予定だという。

ポールは、大学が学位を取りたい学生に対する教育だけでなく、“若者が生き抜く術を身に着けることを後押しする”、短期的な技術研修も行っていることを強調した。運転、レストランでの調理、仕立て、IT、大工、溶接などの職業訓練を受けるために、7年生、9年生、12年生から編入することもできるという。「若者には居場所が必要なんだ。」「彼らは社会に出て優秀に働いている。」とポールは話した。
ジュディが、自身の組織であるEDFとアジア学院についての説明を加えた。ジョンは自分がザンビア初の卒業生であることを話した。
「聖職に就く者は、人々に仕えるしもべです。私は今日に至るまで、農村の人々のために働き続けています。アジア学院は、人々をサーバント・リーダーとして働くことができるように訓練し、変容させます。」

キッチンに立つアフリカの男性?
MEFは、親切にも我々に泊まる場所と食事を無料で提供してくれた。その日の晩にいただいたビーフシチューは素晴らしかった。
アジア学院のキッチンでは男性も調理に加わると話したら、夕食の話題は、男性が料理をすることについての話になった。アフリカの文化では、女性は夫を台所に入れない、という返答があった。同席していた男性は、ルバレという部族の出身だが、男が調理することは禁止されているそうだ。彼らは男性が調理をすると結婚が遅くなると信じている。
また、伝統的な仮面をつけて踊る、男子のための儀式があり、林に入っていって割礼を行うのだが、調理をしたことがあるかと尋ねられ、該当する経験があれば、はい、と答えなくてはならず、恥をかくという。
話題は変わり、大学の男子学生たちは料理ができないという話になった。だから彼らはロールパンと卵しか食べない。エネルギー補給のために、コップ半分の砂糖に水を入れ、かき混ぜながら飲むのが流行っていて、これをジゴロと呼ぶそうだ!
おやすみなさい。

文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)


シリーズ記事はこちら

Vol.0 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 序章】

Vol.1 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 1-2日目】 

Vol.2 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 3日目】

Vol.3 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 4日目】

Vol.4 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】

Vol.5 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 6日目】

Vol.6 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 7日目】

Vol.7 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 8日目】<== 今ここ!

Vol.8 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 9日目】



農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 6

8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
7日目からは、ザンビア北部キトウェに向かいます。
途中寄った、卒業生が活躍する農業大学では、電気がなくても創意工夫して教育 / 学びを続ける人々との出会いがありました。
胃袋をつかまれる、スティーブンお決まりの食レポもお見逃しなく!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!

【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 7日目】

キトウェを目指して北へ
本日、我々はカッパーベルト州のキトウェに向けて出発した。キトウェの卒業生はもちろん、その道すがらでも、卒業生を訪ねる予定だ。
なぜカッパーベルト(銅山地帯)と呼ばれるか、お分かりだろうか。分からなくても大丈夫。のちにまた説明する。
長いドライブが待っていたので、午前5時に出発する計画を立て、5:30には無事に走り始めていた。

チペンビ農業大学
この北部地域への旅で最初に訪れたのは、チペンビ農業学校だった。9:30頃にマンゴーの木が立ち並ぶ入口に到着。リディア・チブウェ(2015年アジア学院卒)が我々を待っていた。リディアはこの学校の副校長で、正確な年数は聞かなかったが、すでに幾年か働いている。
別のアジア学院の卒業生、ポール・サンバも長年ここで働いており、初めは講師だったが、校長まで勤め上げた。ポールとは、のちにキトウェで会うことになっている。

看板にあるように、正式名はチペンビ農業大学で、ザンビア合同教会によって創設された。初年度の1964年の学生はわずか6名だったが、今では161名の学生がおり、女性が80名で、男性が81名、そのうち5名はハンディキャップを持つ。学校の包括的な方針によれば、その5名の学生も通常の全カリキュラムに参加している。学生たちは学費を払い、コースを修了すれば一般農業の学位がもらえる。全ての学生が敷地内の住居に住み、食事の準備も自分たちで行うが、大抵はトウモロコシ粉の一種であるミエリーミール (Vol.4に登場) が食べられている。

我々は10ヘクタールの農場で朝の散策を行い、リディアと農場長のナマスモと話をした。
大学というと畜産学や園芸の研修を学んでいると思われるだろうが、最初に立ち寄ったのはパン工房だった。通常ならば、オーブンからは素晴らしい香りが漂い、食パンやロールパンがずらりとトレーに並べられているはずだが…またもや、電気の問題だ。いつ電源が落ちるか分からないので、パンを焼くこともできない。この影響はカリキュラムだけに留まらず、パンの売り上げという学校の収益機能にも及んでいる。
次に我々は作業場を訪ね、あちこち行って何でも直してしまう男性に出会った。どんな学校もこのような人材なしでは、おそらく成り立たないだろう。彼は小型機械修理の授業も受け持っている。

次は、産卵鶏とブロイラー(肉用鶏)を育てる鶏舎に向かった。ヒナの育成期間は、担当する学生たちが10日間、昼夜を問わずヒナを見守る。一室に敷かれたマットレスがその証拠だ。
豚舎に行く途中、我々はユーカリの並木道を通った。葉を摘み取って薬にするようで、特に咳に効くらしい。
アフリカ豚熱(ASF)の流行で、豚はほんの数頭しかいなかった。興味深いことに、数頭は生き残ったという。ほとんどの場合、ASFが検出されると、他の豚舎や外部農場への蔓延を防ぐために、その豚舎の豚は迅速に全頭処分される。一部の豚が自力で生き延びたという話を聞いて、私は現在のやり方は、豚が病気に対する自然な抵抗力を獲得するのを妨げているのではないかと感じた。

牛も同じ病気にかかり、70頭から20頭に減少した。アジア学院では、家畜の病気に対する予防措置は日常業務の一部であり、学生もそれを学んでいる。しかし、完璧なシステムは存在せず、家畜が病気にかかるリスクは、農家にとってつねに大きな課題である。この学校のウサギだけは絶好調で、ウサギらしくどんどん増殖している!家畜の飼料はすべて、ヒマワリと大豆かす、トウモロコシのふすまを使って自家生産されている。

太陽の下での干し草作り
干し草のブロックを作っている学生たちに出くわした。みんな試験を終えたばかりで、明るい雰囲気だった。彼らのローテクな方法は独創的だった。まず、鎌で草を刈る。そして、四角い穴を掘り、底に麻ひもを張り、麻ひもが穴の外まで伸びていることを確認する。次に草を投げ入れ、固く踏み固め、コンパクトな立方体の干し草を作る。そして麻ひもを引っ張って干し草を持ち上げ、しっかりと縛る。ほら!これで機械や電気がなくても、干し草のブロックを作ることが出来る。だけど、最初に麻ひもを張るのを忘れると、ブロックを引っ張り上げることができなくて悲惨なことになる。

私は、ここでの堆肥作りと菜園の教育方法に感銘を受けた。
堆肥は山に分けられ、5-10名の生徒がそれぞれの山を管理し、栄養価の高い土に変えるために必要な手順を踏む。これらの山はアジア学院で使っているようなボカシではなかったが、リディアによると、ボカシの作り方も教えているとのこと。
学生菜園のやり方は少し違う。グループで作業するのではなく、それぞれの生徒に1つずつ畝(うね)が与えられ、その畝にトマト、ナス、ニンジンなど様々な作物を植える。生徒たちは土作りから収穫まで、全て自分たちで行わなければならず、作物の間隔、成長率、植物の健康状態など、その出来栄えで評価される。生徒たちは互いに比較し、競い合う。作物を見るだけで、誰がうまくやっていて、誰が苦戦しているかが分かる。ナマスモ農場長は、ある女子生徒の畝を指さして、彼女が一番だと言った!

カイと私は、庭に木製のスタンドが並んでいるのを見て不思議に思った。ナマスモが、バケツに水を入れたものがそこに設置される予定で、ホースでつないで簡単なドリップ灌漑システムを作るのだと説明してくれた。そのすぐ先には、先週、生徒たちが掘ったばかりの新しい池を含む、いくつかの養魚池があった。池にはビニールが敷かれ、魚のえさは市販品に野菜くずを加えている。

農場はオーガニックではないが、リディアはそれを目指している。タマネギとニンジンは無農薬で栽培され、他の野菜も試みているところだという。会議室で飲み物とクッキーをごちそうになり、訪問は終了した。3時間の滞在は短すぎたが、私たちは先に進まなければならない。キトウェはまだ先だ。

北へと続く、”イカした”道
午後1時、我々はチペンビを後にした。予定よりだいぶ遅れての出発だったが、そもそもの予定自体があまり現実的ではなかった。
再び、偉大なるノース・ロード、あるいはグルーヴィー*・ロードを走り出した。というのも、大型トラックが長い区間にわたって車輪の轍を刻んでいくからだ。これにハンドルを取られると本当に危ない。ジョンがうっかり狭い車線からはみ出したことは一度や二度ではなかった。
トラックはザンビア全土、さらにはタンザニアやコンゴ民主共和国に至るまで、あらゆる物資を運んでいく。しかし、この地域で最も盛んに行われているのが、広大な鉱山からの銅の運搬である。これが、この地域が銅山帯と呼ばれるゆえんである。途中何度か、料金所や警察の検問に出くわす。道路があまりにひどいので、ある時ジュディは、このお金が一体どこに使われているのかと尋ねた。係員はこの手の苦情をいつも受けているのだろう。彼は、新しい道路が現在の道路と並行して建設中であると言った。きっとそれは本当だ。私たちが走ってきた全行程で、様々な開発段階にある道路を目にした。まもなく、狭い2車線の道路は4車線の高速道路になるようだ。
検問所の一つで、ジョンは前に停車している車を数台追い抜いた。何らかの理由で車が停まっていることはよくあることで、そこが検問所だと気が付かなかったのだ。警官の姿を見て、彼はこっそり列に戻ったが、警官の心には響かなかったようで、怒り心頭で彼を”走り屋“だと非難した。ジョンはその物腰の柔らかさと謙虚な性格ですぐに事態を収拾した。

昼食は、フリンギラという指折りの素晴らしい店に立ち寄った。肉は全て、ジューシーで大きな塊で売られており、周辺の農場で育てているので、とても新鮮で美味しい。ここは確かに肉の国だ!カイと私は自家製ソーセージ、ニョンド一家はビーフシチューを食べた。けれども、この店の名物はミートパイで、彼らの言うミートパイは、本当にしっかりした肉のパイだった!今でもその味を思い出すことができる。
レストランの創業者は、ジョンがこの地域で牧師をしていた時の教会員で、昔からの知り合いだった。残念ながら、彼は昨年亡くなった。

グルーヴィーな道をさらに数時間走った後、ムポシ・カピリにあるMa22というこざっぱりとした快適なロッジで夜を明かした。良いロッジはセキュリティに手厚く、全体が塀で囲まれているため、車やトラック、バイクなど、どんな乗り物でも24時間体制で警護してくれる。

*グルーヴィー(groovy)は英語で「すてきな」「かっこいい」などの意味(ただし、60-70年代のレトロな言い方…)と同時に「溝のような」という意味もある。


文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)

シリーズ記事はこちら

Vol.0 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 序章】

Vol.1 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 1-2日目】 

Vol.2 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 3日目】

Vol.3 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 4日目】

Vol.4 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】

Vol.5 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 6日目】

Vol.6 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 7日目】<== 今ここ!

Vol.7 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 8日目】


農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 5

8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。

6日目はルサカにて、アジア学院の農村指導者研修に見合う人材探しに大忙し!
ザンビアの日本大使館にもお邪魔しますよ。
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!

【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 6日目】

EDF農場 ミニ見学ツアー
今朝は、ジォフリーが農場を案内してくれた。まずは堆肥場から。ここは最もスタート地点にふさわしい。良い農業は健康な土から始まる。発酵途中のボカシの山が二つあった。彼の父、ジョンは長年ボカシを使ってきたが、現在は作り方を変えたとのこと。…どう違うのかは聞かなかったが。

豚小屋には一頭の若い雄豚を含む数頭しかいなく、静かだった。飼料の価格が高騰したので、最近、200頭売ったばかりだという。これもまた干ばつの影響の一つだ。通常、家畜のえさになるトウモロコシのふすまを人間が食べている。いつもは自分たちで飼料を挽いていたが電気もトウモロコシもないので、売ってしまう以外に方法はなかったのだ。だから、彼らは売り払い、また一から始めることにしたわけで、経済的に賢い決断だと感じた。
肥育用の部屋がいくつもあり、分娩舎には生まれたばかりの子豚が踏み潰されないように避難するために、角には小さなスペースが設けられていた。全てが順調にいっていた時には、豚の飼料のほとんどを農場でまかなうことができていたが、前述した問題に加えて、トウモロコシの脱穀機は修理が必要な状態にある。トウモロコシの脱穀が済んだら、人間の食べるシマを作るために粉に挽かれ、ふすまはブタと鶏のエサになるのだった。
鶏舎にはブロイラーと地元の品種の鶏がおり、孵卵器も設置されていた。ここは、村人たちに開放されているので、いつでも卵を持ってきて、ヒナにかえすことができる。
また搾油も、良い収入源となっている(干ばつと停電がなければ)。通常ならば、ひまわり油と大豆油、そしてピーナッツ油だって作れる。様々なところから人がやってきて、この機械を使っている。
加えて、彼らはヤギを飼い、栄養価の高いアマランサスの葉といった植物を育てる農場を有している。ジュディは特に、彼女の育てるオレンジ畑を自慢に思っている。「なぜってオレンジが好きだからね。」オレンジの横には、ジョンのバナナの木々が植わっている。

ルサカの賑わい
今日はルサカで何人かの個人や団体と会う、人材採用のための大事な日だ。これは今回の旅の重要な目的の一つであり、たくさんの人に会ってアジア学院のことを伝えられるのはとても嬉しいことだ。
カナカンタパの舗装されていない道路を進んでいる時、ジュディからいくつかの小話を聞いた。
この居住区は1988年に日本のODAによって計画、創設され、カナカンタパという名前は、ここを流れるカナカンタパ川にちなんで付けられたという。これは、ザンビア政府が都市部における若者の失業問題を緩和するために行った「故郷に帰ろう」構想の一環だった。移住者には土地と農機具が与えられ、農業研修が行われた。彼らは軍事訓練も受けていたので、自分たちで警備も行うことができ、犯罪率は低かった。元々の移住者も残っているが、多くは自分の区画を売り払ってしまった。それでも人口は増加し続け、今では2万人に達した。日本人はもはやここにはいないが、彼らの事務所は残っていて、地域の人々が使っている。その隣は診療所で、その数年後に建てられた。学校はまだない。
川を渡るとき、ジョンが、日本人が広大な農地を灌漑するために建設したポンプ場を指さした。けれども、本質的には失敗した、というよくある話が続いた。うまく稼働していた時があったのかは不明だが、今は稼働しておらず、ポンプは盗まれた。その泥棒集団は、学校からコンピューターを盗み、教会から音響機器を盗んだ挙句、逮捕された。今は刑務所に入っており、ポンプも直ったが、誰も稼働させようとする人はいない。皆がこれは政府の仕事だと考えているのだ。それから話は政府の話題に移った。政府は汚職まみれで、“口だけ達者で実行には移さない!”

ザンビアを横断する長旅に耐えるため、車を整備しなければならなかったので、ジョンとベルビンが整備工場に向かい、カイとジュディと私は町外れで下車した。ジュディが手早くタクシーを手配し、我々は再び走り出した。この辺りでタクシーと言えばミニバンで、運転手と口笛を吹いて、お客を呼び込む助手が同乗している。
我々はウォーターフォールズ・モールに降り立った。そこはとても高級で清潔感があり、まるで「豊かな」国に来たようだった。おそらくザンビアの全国民が望む、発展と消費主義のモデルなのだろう。短い買い物の後、この日最初の約束のため、別のタクシーで大使館通りにあるレストランに向かった。
そこで、トマト栽培で成功をおさめ、友人たちからミスター・トマトと呼ばれる人物に話を聞いた。彼は農家と仕事をするとき、収益性を重視し、より商業的な農業技術を奨励している。彼がアジア学院を面白いと思うのか、あるいはそうでもないのか分からなかったが、農家がきちんと生計を立てられるようにすべきだという彼の意見には強く賛同する。

日本大使との懇談
午後の2時からは日本大使との面会を控えていた。ジュディは大使館、殊に日本大使館は遅刻を許さないと考え、間違いなく時間通りに行きたがった。セキュリティチェックを済ませた我々を、森氏とザンビア人の女性が出迎えてくださった。会議室に案内され、いくつかの質問を受けた後、竹内一之大使と面会した。彼は大ベテランだったが、アジア学院について日本語で説明するカイに、優しく耳を傾けてくれた。私に話しかける時には英語で話してくれたので、とてもありがたかった。
彼の質問はすべてザンビアの開発に関するものだったが、アジア学院の草の根へのアプローチを問うものもあった。それは、ザンビアでは人口の70%が農業に従事しているが、GDPに占める農業の割合はわずか10%であり、どうすればこの国が発展できるかという質問だった。口下手ながら私はこう答えた。人々が飢えに苦しまず、必要を満たす基本的な食べ物が手に入れば、次のステップに進むことができると。
その午後、我々が何か世界の問題を解決できたわけではなかったが、つながりを構築する良い機会となった。アジア学院は学生たちのビザを取得するために、世界中の日本大使館と連携しており、このような対面での関係構築は、それらを円滑に進める上で大いに役立つ。
我々はまた、ジュディのEDFへの助成金の要請を後押しした。日本大使館は地元の取り組みに少額の資金を提供しており、EDFは研修生用の住居を建設するという提案で第2段階まで進んだ。ジュディは、2、3週間の研修といった、複数日にわたるワークショップをやりたいと考えており、そのために宿泊施設が必要であることを説明した。
彼らの研修は地域のニーズに沿っていて、有機農業や畜産飼育、衛生や健康、洋裁、食品加工、機械や車両の整備など多岐にわたる。

さらなるアジア学院の人材探し…
大使館の後は、ザンビアのメソジスト教会の代表と話し合いの時を持ち、良い関係性を築けそうなスタートを切ることができた。
最後の会合は、ある教会の女性親睦会のグループと行う予定だったが、教会の総会議長に、その機会を奪われてしまった。
彼とその秘書は、私たちにありとあらゆる儀礼的、官僚的な質問を浴びせかけた。アジア学院に対する興味はほとんどないようだった。それと同時に、女性たちに発言の機会が与えられなかったため、彼女たちの活動に関する情報は一切得られなかった。彼女たちは文字通り黙って座っていた。女性が意思決定の場に加えられないという話を、よくアジア学院で耳にするが、これほど露骨にそれが行われているのを目の当たりにして衝撃を受けた。ジュディは、彼女たちがとても活動的でエネルギーに満ちあふれているので、アジア学院の研修に参加すれば多くの恩恵を受けるだろうと言い、私達に会わせたいと願っていた。彼女は会議の様子を見て、何が起きているのかを正確に理解し、あとで私たちに、あの男が女性たちを抑えつけているのだと言った。
アジア学院では毎年、学生の50%を女性にすることを目標としているが、今日のようなメンタリティとの闘いが、採用担当者にとっての大きな課題だ。実際、目標とするその比率を達成したのは今までたったの一度しかない。あと一歩のところまでは何度も行ったが、我々は常に50/50…あるいはそれ以上を目指している!

ザンビアの人々の優しさ
やれやれ!今日予定していたすべての計画を終え、我々はウォーターフォールズ・モールに戻るバスに乗るために、徒歩でバス停に向かった。そこにはたくさんの人が待っていたが、バスは一台も見当たらなかった。そして、ジュディはどこへ行ってしまったのだろうか…と思ったら、古いBMWに乗っている誰かと話している彼女を発見した。おや、彼女が手を振り、こっちに来いと合図している。その人が乗せてくれるというのだ!これがルサカ式のウーバーなのか?それとも、ジュディが物事を進める天才という例の一つというべきか。
スーザンというしんせつな運転手は、我々をモールまで送ってくれた。そこで、ジョンとベルビンと再会し、直したてのランドローバーを受け取って帰宅した。今日は本当に実験味にあふれた移動を体験した一日だった!

帰ると家は真っ暗で、水も出なかった。計画停電と、誰かが農場の蛇口を閉め忘れてタンクの水が空っぽになったせいだった。
けれども、ルルは炭ストーブで、地元の人がクワレと呼ぶ、“ブッシュ・チキン”(その名の通り、野生の鳥)を美味しく調理してくれた。炭を使用しないことが、いかに難しいかお分かりだろう。もし家に電気も通っていなかったら、と想像してみてほしい。あなたならどうやって調理するだろうか?
二つのバッテリーランプの明かりのもと、我々は食事を楽しんだ。ジョンとジュディはアジア学院のように、EDFでも毎年、収穫感謝祭を行っていることを話してくれた。地域のすべての人を招き、食事を分かち合い、皆で踊ったり歌ったりするという!
水がないので食器も洗えない。だから、朝までそのままにしておくことにした。それまでには電気が復旧することを願って。
おやすみなさい!


文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)

シリーズ記事はこちら

Vol.0 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 序章】

Vol.1 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 1-2日目】 

Vol.2 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 3日目】

Vol.3 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 4日目】

Vol.4 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】

Vol.5 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 6日目】<== 今ここ!

Vol.6 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 7日目】



有意義な旅: 西日本スタディツアー 5日目/6日目 大阪YMCAにて

西日本スタディーツアーは続きます!
5日目は大阪YMCAを訪れ、3つのグループに分かれてフィールドトリップを行いました。

釜ヶ崎グループは、ホームレス問題に焦点を当てました。学生たちは毎年、この問題を自国の状況と比較して考えるため、その複雑さを十分に理解するのが難しいと感じています。

しかし、釜ヶ崎の状況を日本の他の地域と比較することで、なぜこの問題が重要なのかを理解することができました。
コリアンタウングループは、差別問題について学びました。学生たちは、在日コリアンがいまだに体系的にアイデンティティや人権を否定されている現状を知り、衝撃を受けました。たとえば、コリアンスクールは政府の補助金を受けられず、COVID-19の際に「すべての」学校に配布されたマスクさえも除外されました。大阪YMCAの多くのボランティアも、大阪に住んでいながら初めてこれらの課題を知ったと話していました。

沖縄文庫グループは、講師が共有した深い知恵について振り返りました。ある学生は、「戦争の理由は人々が平和を保ちたいと思うからだ」という深遠な言葉に感銘を受け、誰が平和を望んでいるのかをより包括的に考える必要があることを感じました。

夜には、学生たちはホストファミリーと過ごし、個人的なつながりや振り返りの時間を持ちました。

翌日、学生たちはホストファミリーと自由な時間を楽しみました。午前中には、1人の学生が阿倍野教会で証を共有し、もう1人が希望が丘教会で証を語りました。午後には、大阪YMCAとホストファミリーに短いながらも感動的なお別れの挨拶をしました。多くの参加者や家族が涙を流し、一緒に過ごした時間を大切にしていました。

その後、ARIスタッフが無事に合流し、ARIからのクッキーと心のこもったメッセージを届けてくれました。学生たちは大喜びでした!

全員フェリーに乗り込み、門司へ向けて出発しました。

愛農高校での文化交流と学び:WJST 3日目・4日目

アジア学院の学生たちにとって浜松聖隷学園と三重愛農高校での体験は、文化交流と地域連携の貴重な学びになりました。

3日目は浜松からスタート。親・子・孫の3世代にわたってアジア学院のサポーターをしてくださっているご家族から温かく迎えられ、大量のオレンジをいただきました!
学生たちはとても喜んでいました。

その後、愛野高校へ到着。
アジア学院元ボラの愛農高校の先生がキャンパスを案内してくれました。
今年はアジア学院日本人卒業生も夕方のセッションに参加し、全員で文化や伝統を分かち合う和やかな雰囲気の中で交流しました。
歌を歌ったり、物語を共有したりしながら、お互いについてさらに学ぶことができました。
また、愛野高校の生徒たちはドキュメンタリー映画『Ancient Futures』を鑑賞し、発展や文化についての考えを共有しました。
この交流の時間は、誰にとっても実り多く、楽しいひとときとなりました。

翌日は、学生の一人による心のこもった朝の集会で始まりました。この集会は、愛野高校のコミュニティにも深く感謝されました。
その後、アフリカのダンスや歌、愛野高校の生徒によるベートーヴェンのクラシック演奏など、活気あふれる交流の時間が続きました。

午後には、学生が進行役を務めた小グループでのディスカッションが行われました。
このセッションでは、「本当の幸せとは何か」や、「いわゆる『発展途上国』と『先進国』の違い」といったテーマについて深く話し合い、有意義な時間を共有しました。アジア学院の元ボラが通訳としてサポートしてくれたおかげで、全員が充実した議論に参加できました。

訪問は短い閉会式で締めくくられ、愛野高校の校長先生から感謝の言葉をいただき、アジア学院の学生たちが閉会の歌を披露しました。またお会いできる日を楽しみにしています!

旅の始まり:西日本研修ツアーのスタート

アジア学院の学生にとって、西日本研修ツアー(WJST)は、地域との交流や文化体験を通じて貴重な学びを得る機会です。

初日には、農村伝道神学校(能登伝)を訪問し、スタッフの温かい歓迎を受けました。特別なおもてなしとして、手作りのカレーが振る舞われ、普段の弁当とは異なる嬉しいサプライズとなりました。また、キャンパスを簡単に案内していただき、静かな環境の中で短い座禅瞑想を体験する機会もあり、心を落ち着けるひとときを過ごしました。


2日目には、聖隷クリストファー学園で様々な年齢の生徒たちと交流する充実した活動が行われました。中学生は太鼓の演奏を披露し、ゲームや書道の活動を企画してくれ、学生の名前を日本語で書く体験もさせてくれました。小学生たちは、折り紙やクイズなどの「体験コーナー」を設け、熱意と工夫に満ちた活動を進行してくれました。特に印象的だったのは、幼稚園での訪問で、子どもたちが歌を歌ったり、踊ったり、「農作業で一番大変なことは何ですか?」といった深い質問をしたりする場面でした。この質問は学生に大きな気づきを与え、子どもたちの好奇心と関心に感銘を受けました。


午後には、高齢者福祉施設を訪問し、日本の高齢者ケアの取り組みについて学びました。また、聖隷の歴史資料館を見学し、組織の起源や使命に関する歴史的背景を知り、奉仕の精神について深い洞察を得ることができました。その後、聖隷の設立精神に触れ、他者を無私の心で支える価値観に触れる機会がありました。参加者たちは、この奉仕のリーダーシップの生きた実例を目の当たりにして大いに刺激を受けたと語っています。最後に、伝統的なお茶会が行われ、季節の和菓子を楽しみながら、このツアーの経験を振り返る時間が設けられました。

このツアーを通じて、参加者たちは日本の地域文化に触れ、その学びと経験を自身のコミュニティで共有することを楽しみにしています。

農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 4

8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。

最初のホームスティ先は、卒業生一家が運営する団体の農場。いよいよ卒業生たちの暮らす農村コミュニティにやってきました!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!

【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】

エキュメニカル開発基金(EDF)農場の朝
ジョンが言っていた通り、美しい鳥の音と時折交じる調子はずれな雄鶏の鳴き声で、早朝に目が覚めた。茅葺き屋根の家から一歩出ると、彼はすでに庭の草むしりをし、ヤギたちに食べさせる葉を集めていた。ついに私は、アジア学院の本領を感じた ― 卒業生と共に農村で生活をしている。

ヤギ小屋は、雨不足で立ち枯れた茎が散乱する、殺風景なトウモロコシ畑のすぐ反対側にあった。
周囲を歩きながら、私は干ばつをこの目で実際に見たのは初めてだと気が付いた。それは本当に心の痛む光景だった。重労働と収穫への希望は、ただ乾燥してあちこちに散らばった葉となり、足元で乾いた音を立てている。
「農家たちが嘆く理由がやっと分かった」とジョンに言うと、「本当に泣きそうだ」と彼は答えた。

EDFの農場は、有機的で活気に溢れている。ざっと目にしただけでも、ヤギ、鶏、裏庭、そして、たくさんの果物の木やバナナがあった。果物は本当にたくさんあり、木の下に手を差し伸べればマンゴーが落ちて来るんじゃないかと思うほどだった!
我々は、大きな金属の粉砕機を持ったジォフリーを見つけた。鶏舎のカギが壊れてしまったので、エサをあげるためにはそこを切断して入らなければならなかった。

EDFは1996年にジョン・ニョンド(1996年アジア学院卒)によって設立された。彼は8年間代表を務めた後、アジア学院の指導者研修を受けて帰国した妻のジュディ(2001年卒)にその座を譲った。昨年、息子のジォフリーもアジア学院に来て、両親と共にEDFで働いている。彼らの活動を列挙するのは控え、代わりに、私がここにいて感じたのと同様に、皆さんにも、どのように彼らがコミュニティと関わっているかを感じとってもらいたい。私がEDFを愛し、尊敬してやまない理由の一つは、彼らがコミュニティの一部となり、人々と密接に関わっている点だ。

ジョンもジュディも、そしてジォフリーも、同じような状況下で育った。彼らは皆、ザンビアの農村生活の苦労と喜びを経験してきたのだ。しかし今では、訓練を受けた草の根リーダーとして、自分たちのためではなく、周囲のコミュニティの人々の生活を改善する方法を模索している。彼らがEDFを通じてどのような影響を与えてきたのか…それは、現地で出会った人々の温かさと笑顔が物語っていた。

干ばつと木炭とのつながり
ジュディが用意してくれたバケツのお湯で体を洗った後、私たちは朝食に向かった。庭の野菜と新鮮な卵、それにピーナッツ入りのお粥だった。初めに話題に上ったのはアジア学院の話で、どのように研究科生(TA)がアジア学院と深い関係性を持つのかについてだった。
1993年の研究科生だったジョンは、「私たちは2つの家を持っていると感じている。」と話した。彼は、日本に向かう飛行機で、偶然にもスリランカから来た学生と隣同士になった。彼らは一言も会話しなかったが、日本に着き、どちらもアジア学院に行こうとしていたことが判明した。彼の名前はサルバレージと言い、今でも連絡を取り合う仲だ。

そして、話題は干ばつに移った。近隣には補助価格でミエリーミールと呼ばれるコーンミールを売る店や倉庫がいくつかある。しかし、昨シーズンの農業収入が得られなかったために、低価格でもそれを買うことのできない人々もいる。8-10人家族だと、一週間で一袋消費してしまう。村々では、食料を買うために、13-15歳の娘を金持ちの商売人に嫁がせるという。
「ようやくアフリカが分かっただろう。」カイが初めてアフリカ大陸を訪れていることについての話題を引き合いに出して、ジォフリーが言った。

干ばつをさらに悪化させているのは木々の伐採で、作られた木炭は道端で売られている。けれども、収穫を得られない世帯が手にすることのできる唯一の収入源が木炭なのだ。
さらに、ザンビアは水力発電に頼っているが、河川の水量が十分でないため、毎日長期にわたって停電が発生する。人々はこれを 「ロード・シェディング」と呼んでいる。ここカナカンタパでは、電気が通っている家庭は全体のわずか5~10%であり、このことが木炭の需要を高めている。つまり、雨が降らない→作物が育たない→収入がない→炭を作るために木を切る→森が減る→雨が降らない、というサイクルが出来てしまっている。

道端に並べられた販売用の木炭

カナカンタパの保健ワーカーたち
ここの地域は、カナカンタパ入植地域と呼ばれ、地域内の村にはそれぞれアルファベット文字の名前が付けられている。EDFはE村にある。確か、L村まであると聞いた気がするが、今ではその総人口は2万人に上る。1960年代に日本政府のODAが主導となって開発が進められた。

周辺には保健センターがたった一つしかなく、人々は10-20㎞の道のりを歩かねばならなかった。妊婦はトラックを借りてセンターに行ったが、道すがら子供が生まれてしまうことも多々あったという。そこでEDFは40名の地域保健ワーカーを育成し、家庭での出産を助け、必要時には病院に搬送できるようにした。
彼女たちは薬の配布も行う。地域で結核が流行した時も、彼女たちが毎日家々を訪問し、患者たちに確実に薬を飲ませた。処方通りに薬を飲まないことはよくあることだが、彼女たちの勤勉さが功を奏し、今やカナカンタパの結核患者は一人もいなくなった。

EDFの敷地内では、5歳未満児の診療も行っている。ジュディが地元の診療所のスタッフを手配し、子どもや妊婦を診察し、深刻な問題がある場合は診療所に紹介することで、若い母親や妊婦が長い道のりを歩かずにすむようになった!
ちなみに診療にかかる費用も全てEDFが負担している。

ベルビン・パンバ
朝食後、我々はベルビン(2016年アジア学院卒)に会うために出かけた。彼は今、ここから1,000㎞離れたザンビア北西部、ナコンデで働いているが、ルサカで開催されている全国農業・商業展のために街に来ていた。これは年に一度のイベントで、様々な地域から人々が集まってくる。

ベルビンがカナカンタパで地域活動を始めたのは17年前、JICAの中村氏の援助で女性のためのヤギのプロジェクトを行った。グループの活動はすぐにキャッサバ加工や乳製品に広がりを見せた。ある地域ではJICAの援助を受けたキャッサバ加工施設も建設された。トウモロコシの製粉機を有する施設も隣接しており、自分のトウモロコシを製粉するためにやってくる地域の人々から収益を得ている。我々はちょうどその目的のためにやってきた女性に会うことができた。
別の場所にはMCCと呼ばれる集乳所がある。冷蔵のタンクには最大1,800リットルの容積があり、問題なく貯蔵することができる。地域の農家がめいめい運んできた量に応じて、毎月の支払いが行われている。オフテイカーと呼ばれる買主が3日おきに来て、牛乳を街へ運んでいく。どちらのプロジェクトにおいても、干ばつによるロード・シェディングが問題となっている。

この干ばつは、私が予想もしなかった形で広く社会に影響を及ぼしており、我々がいかに自然環境と密接に結びついているかを思い知らされる。電力が不安定なため、機械を動かすことができず、牛乳を冷蔵しておくこともできないので、人々は大変落ち込んでいる。彼らはソーラーパネルのための資金を得られればと願っているが、それらはとても高額だ。
次に彼らが話してくれた問題は、良い家畜がいないことだった。彼らはホルスタインの交雑種を飼っているが、より乳量の多い牛がほしいと考えている。しかし、ベルビンに伝授されたと思われるアジア学院の流儀を共有し合い、成功していることもあった。トウモロコシ、大豆、ナッツ、ヒマワリなどの栽培時、化学肥料の代わりにたくさんの糞尿を使用しているのだ。

もはや必要ない
チサンゴ・ファームと呼ばれる農場に初めて足を踏み入れたとき、ベルビンは持ち前の笑顔で言った。「ここが僕のスタート地点です。彼らが私の農家、酪農家たちです。私たちは17年間、苦楽を共にしてきました。」
ベルビンが去った後も、先駆的な取り組みが続いていることを、彼は大変誇りに感じているようだった。私は、これこそ真の成功の尺度だと考えている。あなたがいなくても、人々が上手くやれるようになれば、あなたの仕事は完了し、次に移る時が来たということだ。とは言え、ご覧の通り、彼らは友人であることに変わりはないし、きっとベルビンは折に触れて助言もしているのだろう。よくやった、ベルビン。

その日、グループから50名の女性が来て、農業展で自分たちのヤギや生産物を販売していた。彼女たちにとっても年に一度の大きなイベントの一つなのだ。

EDFに戻る道すがら、ベルビンは彼の抱えるいくつかの困難について語ってくれた。例えば、コミュニティがしばしば、自分たちの問題を解決してほしいと彼に期待を寄せること。上記の「ヤギのグループ」のように、人々に自立の意識を持たせることが、彼の絶え間ない挑戦なのだ。また、職場では彼の成功に嫉妬する人や、彼を脅威に感じている上司もいるようだ。ヒエラルキー構造やプライドが、成功する努力を妨げたり、引き裂いたりする原因になっていることは多い。ため息が出る。

ベルビンの次なる目標は、ボカシを製造して販売するビジネスを始めることだ。これは他の卒業生が成功しているのを見たことがあり、彼の率先的な取り組みを嬉しく思っている。大手の肥料会社が化学肥料を売るというのなら、私たちの卒業生が高品質の有機肥料を売ってはいけない理由はないだろう。
彼は、中国企業で見た、少ない労力で大規模なボカシ製造ができるシステムを構築するために6,000ドルを集めようとしており、JICAからの資金提供を願っている。

カナカンタパ・コミュニティ昼食会
この日最大のイベントは、エキュメニカル農業多目的協同組合のメンバーとの昼食会だった。カナカンタパの様々なアルファベットを冠した村々から女性たちが集まった。
ジュディもインタビューで語っていたが、このコミュニティの美しさはその多様性にある。入植地というだけあって、彼女たちはザンビア全土の様々な部族の出身だ。言語も様々で、ショワ語、トンガ語、セン語、レンジェ語、ンゴニ語、チェワ語、ベンバ語、ロジ語、そしてトゥンブカ語を話す人がいる。私は、ぜひともそれぞれの言葉を少しずつ習いたかったが、皆とても空腹で、ご馳走を食べる準備は万端だった。私たちの食事は、ブロイラー・チキン、豚肉、ベイクド・ビーンズ、トウモロコシのお粥、カペンタ(イワシのような小魚)、ルマンダ(ローゼルの葉などを落花生と一緒に煮込んだもの)だった。もちろんシマも欠かせない。

食べ物を分かち合うことは、あらゆる文化に共通する祝いの儀式であり、この活気あるコミュニティとともに現地の食事会に参加するのは、本当に素晴らしかった。その後、ジュディに勧められて、昼寝もさせてもらった!その晩の夕食は必要なかった。

簡単に部族と言語の話に戻ると、ジュディはンゴニ族、ジョンはランビア族だ。ニャンジャ語はこの地方で広く話されている言語で、この地域の“リンガ・フランカ”のようなものだ。


文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)

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Vol.1 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 1-2日目】 

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