8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
最初のホームスティ先は、卒業生一家が運営する団体の農場。いよいよ卒業生たちの暮らす農村コミュニティにやってきました!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】
エキュメニカル開発基金(EDF)農場の朝
ジョンが言っていた通り、美しい鳥の音と時折交じる調子はずれな雄鶏の鳴き声で、早朝に目が覚めた。茅葺き屋根の家から一歩出ると、彼はすでに庭の草むしりをし、ヤギたちに食べさせる葉を集めていた。ついに私は、アジア学院の本領を感じた ― 卒業生と共に農村で生活をしている。
ヤギ小屋は、雨不足で立ち枯れた茎が散乱する、殺風景なトウモロコシ畑のすぐ反対側にあった。
周囲を歩きながら、私は干ばつをこの目で実際に見たのは初めてだと気が付いた。それは本当に心の痛む光景だった。重労働と収穫への希望は、ただ乾燥してあちこちに散らばった葉となり、足元で乾いた音を立てている。
「農家たちが嘆く理由がやっと分かった」とジョンに言うと、「本当に泣きそうだ」と彼は答えた。
EDFの農場は、有機的で活気に溢れている。ざっと目にしただけでも、ヤギ、鶏、裏庭、そして、たくさんの果物の木やバナナがあった。果物は本当にたくさんあり、木の下に手を差し伸べればマンゴーが落ちて来るんじゃないかと思うほどだった!
我々は、大きな金属の粉砕機を持ったジォフリーを見つけた。鶏舎のカギが壊れてしまったので、エサをあげるためにはそこを切断して入らなければならなかった。
EDFは1996年にジョン・ニョンド(1996年アジア学院卒)によって設立された。彼は8年間代表を務めた後、アジア学院の指導者研修を受けて帰国した妻のジュディ(2001年卒)にその座を譲った。昨年、息子のジォフリーもアジア学院に来て、両親と共にEDFで働いている。彼らの活動を列挙するのは控え、代わりに、私がここにいて感じたのと同様に、皆さんにも、どのように彼らがコミュニティと関わっているかを感じとってもらいたい。私がEDFを愛し、尊敬してやまない理由の一つは、彼らがコミュニティの一部となり、人々と密接に関わっている点だ。
ジョンもジュディも、そしてジォフリーも、同じような状況下で育った。彼らは皆、ザンビアの農村生活の苦労と喜びを経験してきたのだ。しかし今では、訓練を受けた草の根リーダーとして、自分たちのためではなく、周囲のコミュニティの人々の生活を改善する方法を模索している。彼らがEDFを通じてどのような影響を与えてきたのか…それは、現地で出会った人々の温かさと笑顔が物語っていた。
干ばつと木炭とのつながり
ジュディが用意してくれたバケツのお湯で体を洗った後、私たちは朝食に向かった。庭の野菜と新鮮な卵、それにピーナッツ入りのお粥だった。初めに話題に上ったのはアジア学院の話で、どのように研究科生(TA)がアジア学院と深い関係性を持つのかについてだった。
1993年の研究科生だったジョンは、「私たちは2つの家を持っていると感じている。」と話した。彼は、日本に向かう飛行機で、偶然にもスリランカから来た学生と隣同士になった。彼らは一言も会話しなかったが、日本に着き、どちらもアジア学院に行こうとしていたことが判明した。彼の名前はサルバレージと言い、今でも連絡を取り合う仲だ。
そして、話題は干ばつに移った。近隣には補助価格でミエリーミールと呼ばれるコーンミールを売る店や倉庫がいくつかある。しかし、昨シーズンの農業収入が得られなかったために、低価格でもそれを買うことのできない人々もいる。8-10人家族だと、一週間で一袋消費してしまう。村々では、食料を買うために、13-15歳の娘を金持ちの商売人に嫁がせるという。
「ようやくアフリカが分かっただろう。」カイが初めてアフリカ大陸を訪れていることについての話題を引き合いに出して、ジォフリーが言った。
干ばつをさらに悪化させているのは木々の伐採で、作られた木炭は道端で売られている。けれども、収穫を得られない世帯が手にすることのできる唯一の収入源が木炭なのだ。
さらに、ザンビアは水力発電に頼っているが、河川の水量が十分でないため、毎日長期にわたって停電が発生する。人々はこれを 「ロード・シェディング」と呼んでいる。ここカナカンタパでは、電気が通っている家庭は全体のわずか5~10%であり、このことが木炭の需要を高めている。つまり、雨が降らない→作物が育たない→収入がない→炭を作るために木を切る→森が減る→雨が降らない、というサイクルが出来てしまっている。
カナカンタパの保健ワーカーたち
ここの地域は、カナカンタパ入植地域と呼ばれ、地域内の村にはそれぞれアルファベット文字の名前が付けられている。EDFはE村にある。確か、L村まであると聞いた気がするが、今ではその総人口は2万人に上る。1960年代に日本政府のODAが主導となって開発が進められた。
周辺には保健センターがたった一つしかなく、人々は10-20㎞の道のりを歩かねばならなかった。妊婦はトラックを借りてセンターに行ったが、道すがら子供が生まれてしまうことも多々あったという。そこでEDFは40名の地域保健ワーカーを育成し、家庭での出産を助け、必要時には病院に搬送できるようにした。
彼女たちは薬の配布も行う。地域で結核が流行した時も、彼女たちが毎日家々を訪問し、患者たちに確実に薬を飲ませた。処方通りに薬を飲まないことはよくあることだが、彼女たちの勤勉さが功を奏し、今やカナカンタパの結核患者は一人もいなくなった。
EDFの敷地内では、5歳未満児の診療も行っている。ジュディが地元の診療所のスタッフを手配し、子どもや妊婦を診察し、深刻な問題がある場合は診療所に紹介することで、若い母親や妊婦が長い道のりを歩かずにすむようになった!
ちなみに診療にかかる費用も全てEDFが負担している。
ベルビン・パンバ
朝食後、我々はベルビン(2016年アジア学院卒)に会うために出かけた。彼は今、ここから1,000㎞離れたザンビア北西部、ナコンデで働いているが、ルサカで開催されている全国農業・商業展のために街に来ていた。これは年に一度のイベントで、様々な地域から人々が集まってくる。
ベルビンがカナカンタパで地域活動を始めたのは17年前、JICAの中村氏の援助で女性のためのヤギのプロジェクトを行った。グループの活動はすぐにキャッサバ加工や乳製品に広がりを見せた。ある地域ではJICAの援助を受けたキャッサバ加工施設も建設された。トウモロコシの製粉機を有する施設も隣接しており、自分のトウモロコシを製粉するためにやってくる地域の人々から収益を得ている。我々はちょうどその目的のためにやってきた女性に会うことができた。
別の場所にはMCCと呼ばれる集乳所がある。冷蔵のタンクには最大1,800リットルの容積があり、問題なく貯蔵することができる。地域の農家がめいめい運んできた量に応じて、毎月の支払いが行われている。オフテイカーと呼ばれる買主が3日おきに来て、牛乳を街へ運んでいく。どちらのプロジェクトにおいても、干ばつによるロード・シェディングが問題となっている。
この干ばつは、私が予想もしなかった形で広く社会に影響を及ぼしており、我々がいかに自然環境と密接に結びついているかを思い知らされる。電力が不安定なため、機械を動かすことができず、牛乳を冷蔵しておくこともできないので、人々は大変落ち込んでいる。彼らはソーラーパネルのための資金を得られればと願っているが、それらはとても高額だ。
次に彼らが話してくれた問題は、良い家畜がいないことだった。彼らはホルスタインの交雑種を飼っているが、より乳量の多い牛がほしいと考えている。しかし、ベルビンに伝授されたと思われるアジア学院の流儀を共有し合い、成功していることもあった。トウモロコシ、大豆、ナッツ、ヒマワリなどの栽培時、化学肥料の代わりにたくさんの糞尿を使用しているのだ。
もはや必要ない
チサンゴ・ファームと呼ばれる農場に初めて足を踏み入れたとき、ベルビンは持ち前の笑顔で言った。「ここが僕のスタート地点です。彼らが私の農家、酪農家たちです。私たちは17年間、苦楽を共にしてきました。」
ベルビンが去った後も、先駆的な取り組みが続いていることを、彼は大変誇りに感じているようだった。私は、これこそ真の成功の尺度だと考えている。あなたがいなくても、人々が上手くやれるようになれば、あなたの仕事は完了し、次に移る時が来たということだ。とは言え、ご覧の通り、彼らは友人であることに変わりはないし、きっとベルビンは折に触れて助言もしているのだろう。よくやった、ベルビン。
その日、グループから50名の女性が来て、農業展で自分たちのヤギや生産物を販売していた。彼女たちにとっても年に一度の大きなイベントの一つなのだ。
EDFに戻る道すがら、ベルビンは彼の抱えるいくつかの困難について語ってくれた。例えば、コミュニティがしばしば、自分たちの問題を解決してほしいと彼に期待を寄せること。上記の「ヤギのグループ」のように、人々に自立の意識を持たせることが、彼の絶え間ない挑戦なのだ。また、職場では彼の成功に嫉妬する人や、彼を脅威に感じている上司もいるようだ。ヒエラルキー構造やプライドが、成功する努力を妨げたり、引き裂いたりする原因になっていることは多い。ため息が出る。
ベルビンの次なる目標は、ボカシを製造して販売するビジネスを始めることだ。これは他の卒業生が成功しているのを見たことがあり、彼の率先的な取り組みを嬉しく思っている。大手の肥料会社が化学肥料を売るというのなら、私たちの卒業生が高品質の有機肥料を売ってはいけない理由はないだろう。
彼は、中国企業で見た、少ない労力で大規模なボカシ製造ができるシステムを構築するために6,000ドルを集めようとしており、JICAからの資金提供を願っている。
カナカンタパ・コミュニティ昼食会
この日最大のイベントは、エキュメニカル農業多目的協同組合のメンバーとの昼食会だった。カナカンタパの様々なアルファベットを冠した村々から女性たちが集まった。
ジュディもインタビューで語っていたが、このコミュニティの美しさはその多様性にある。入植地というだけあって、彼女たちはザンビア全土の様々な部族の出身だ。言語も様々で、ショワ語、トンガ語、セン語、レンジェ語、ンゴニ語、チェワ語、ベンバ語、ロジ語、そしてトゥンブカ語を話す人がいる。私は、ぜひともそれぞれの言葉を少しずつ習いたかったが、皆とても空腹で、ご馳走を食べる準備は万端だった。私たちの食事は、ブロイラー・チキン、豚肉、ベイクド・ビーンズ、トウモロコシのお粥、カペンタ(イワシのような小魚)、ルマンダ(ローゼルの葉などを落花生と一緒に煮込んだもの)だった。もちろんシマも欠かせない。
食べ物を分かち合うことは、あらゆる文化に共通する祝いの儀式であり、この活気あるコミュニティとともに現地の食事会に参加するのは、本当に素晴らしかった。その後、ジュディに勧められて、昼寝もさせてもらった!その晩の夕食は必要なかった。
簡単に部族と言語の話に戻ると、ジュディはンゴニ族、ジョンはランビア族だ。ニャンジャ語はこの地方で広く話されている言語で、この地域の“リンガ・フランカ”のようなものだ。
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
シリーズ記事はこちら
Vol.4 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】<== 今ここ!
Vol.5 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 6日目】To Be Continued …