
〒329-2703
栃木県那須塩原市
槻沢442-1
西日本スタディーツアーは続きます!
5日目は大阪YMCAを訪れ、3つのグループに分かれてフィールドトリップを行いました。
釜ヶ崎グループは、ホームレス問題に焦点を当てました。学生たちは毎年、この問題を自国の状況と比較して考えるため、その複雑さを十分に理解するのが難しいと感じています。
しかし、釜ヶ崎の状況を日本の他の地域と比較することで、なぜこの問題が重要なのかを理解することができました。
コリアンタウングループは、差別問題について学びました。学生たちは、在日コリアンがいまだに体系的にアイデンティティや人権を否定されている現状を知り、衝撃を受けました。たとえば、コリアンスクールは政府の補助金を受けられず、COVID-19の際に「すべての」学校に配布されたマスクさえも除外されました。大阪YMCAの多くのボランティアも、大阪に住んでいながら初めてこれらの課題を知ったと話していました。
沖縄文庫グループは、講師が共有した深い知恵について振り返りました。ある学生は、「戦争の理由は人々が平和を保ちたいと思うからだ」という深遠な言葉に感銘を受け、誰が平和を望んでいるのかをより包括的に考える必要があることを感じました。
夜には、学生たちはホストファミリーと過ごし、個人的なつながりや振り返りの時間を持ちました。
翌日、学生たちはホストファミリーと自由な時間を楽しみました。午前中には、1人の学生が阿倍野教会で証を共有し、もう1人が希望が丘教会で証を語りました。午後には、大阪YMCAとホストファミリーに短いながらも感動的なお別れの挨拶をしました。多くの参加者や家族が涙を流し、一緒に過ごした時間を大切にしていました。
その後、ARIスタッフが無事に合流し、ARIからのクッキーと心のこもったメッセージを届けてくれました。学生たちは大喜びでした!
全員フェリーに乗り込み、門司へ向けて出発しました。
アジア学院の学生たちにとって浜松聖隷学園と三重愛農高校での体験は、文化交流と地域連携の貴重な学びになりました。
3日目は浜松からスタート。親・子・孫の3世代にわたってアジア学院のサポーターをしてくださっているご家族から温かく迎えられ、大量のオレンジをいただきました!
学生たちはとても喜んでいました。
その後、愛野高校へ到着。
アジア学院元ボラの愛農高校の先生がキャンパスを案内してくれました。
今年はアジア学院日本人卒業生も夕方のセッションに参加し、全員で文化や伝統を分かち合う和やかな雰囲気の中で交流しました。
歌を歌ったり、物語を共有したりしながら、お互いについてさらに学ぶことができました。
また、愛野高校の生徒たちはドキュメンタリー映画『Ancient Futures』を鑑賞し、発展や文化についての考えを共有しました。
この交流の時間は、誰にとっても実り多く、楽しいひとときとなりました。
翌日は、学生の一人による心のこもった朝の集会で始まりました。この集会は、愛野高校のコミュニティにも深く感謝されました。
その後、アフリカのダンスや歌、愛野高校の生徒によるベートーヴェンのクラシック演奏など、活気あふれる交流の時間が続きました。
午後には、学生が進行役を務めた小グループでのディスカッションが行われました。
このセッションでは、「本当の幸せとは何か」や、「いわゆる『発展途上国』と『先進国』の違い」といったテーマについて深く話し合い、有意義な時間を共有しました。アジア学院の元ボラが通訳としてサポートしてくれたおかげで、全員が充実した議論に参加できました。
訪問は短い閉会式で締めくくられ、愛野高校の校長先生から感謝の言葉をいただき、アジア学院の学生たちが閉会の歌を披露しました。またお会いできる日を楽しみにしています!
アジア学院の学生にとって、西日本研修ツアー(WJST)は、地域との交流や文化体験を通じて貴重な学びを得る機会です。
初日には、農村伝道神学校(能登伝)を訪問し、スタッフの温かい歓迎を受けました。特別なおもてなしとして、手作りのカレーが振る舞われ、普段の弁当とは異なる嬉しいサプライズとなりました。また、キャンパスを簡単に案内していただき、静かな環境の中で短い座禅瞑想を体験する機会もあり、心を落ち着けるひとときを過ごしました。
2日目には、聖隷クリストファー学園で様々な年齢の生徒たちと交流する充実した活動が行われました。中学生は太鼓の演奏を披露し、ゲームや書道の活動を企画してくれ、学生の名前を日本語で書く体験もさせてくれました。小学生たちは、折り紙やクイズなどの「体験コーナー」を設け、熱意と工夫に満ちた活動を進行してくれました。特に印象的だったのは、幼稚園での訪問で、子どもたちが歌を歌ったり、踊ったり、「農作業で一番大変なことは何ですか?」といった深い質問をしたりする場面でした。この質問は学生に大きな気づきを与え、子どもたちの好奇心と関心に感銘を受けました。
午後には、高齢者福祉施設を訪問し、日本の高齢者ケアの取り組みについて学びました。また、聖隷の歴史資料館を見学し、組織の起源や使命に関する歴史的背景を知り、奉仕の精神について深い洞察を得ることができました。その後、聖隷の設立精神に触れ、他者を無私の心で支える価値観に触れる機会がありました。参加者たちは、この奉仕のリーダーシップの生きた実例を目の当たりにして大いに刺激を受けたと語っています。最後に、伝統的なお茶会が行われ、季節の和菓子を楽しみながら、このツアーの経験を振り返る時間が設けられました。
このツアーを通じて、参加者たちは日本の地域文化に触れ、その学びと経験を自身のコミュニティで共有することを楽しみにしています。
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
最初のホームスティ先は、卒業生一家が運営する団体の農場。いよいよ卒業生たちの暮らす農村コミュニティにやってきました!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】
エキュメニカル開発基金(EDF)農場の朝
ジョンが言っていた通り、美しい鳥の音と時折交じる調子はずれな雄鶏の鳴き声で、早朝に目が覚めた。茅葺き屋根の家から一歩出ると、彼はすでに庭の草むしりをし、ヤギたちに食べさせる葉を集めていた。ついに私は、アジア学院の本領を感じた ― 卒業生と共に農村で生活をしている。
ヤギ小屋は、雨不足で立ち枯れた茎が散乱する、殺風景なトウモロコシ畑のすぐ反対側にあった。
周囲を歩きながら、私は干ばつをこの目で実際に見たのは初めてだと気が付いた。それは本当に心の痛む光景だった。重労働と収穫への希望は、ただ乾燥してあちこちに散らばった葉となり、足元で乾いた音を立てている。
「農家たちが嘆く理由がやっと分かった」とジョンに言うと、「本当に泣きそうだ」と彼は答えた。
EDFの農場は、有機的で活気に溢れている。ざっと目にしただけでも、ヤギ、鶏、裏庭、そして、たくさんの果物の木やバナナがあった。果物は本当にたくさんあり、木の下に手を差し伸べればマンゴーが落ちて来るんじゃないかと思うほどだった!
我々は、大きな金属の粉砕機を持ったジォフリーを見つけた。鶏舎のカギが壊れてしまったので、エサをあげるためにはそこを切断して入らなければならなかった。
EDFは1996年にジョン・ニョンド(1996年アジア学院卒)によって設立された。彼は8年間代表を務めた後、アジア学院の指導者研修を受けて帰国した妻のジュディ(2001年卒)にその座を譲った。昨年、息子のジォフリーもアジア学院に来て、両親と共にEDFで働いている。彼らの活動を列挙するのは控え、代わりに、私がここにいて感じたのと同様に、皆さんにも、どのように彼らがコミュニティと関わっているかを感じとってもらいたい。私がEDFを愛し、尊敬してやまない理由の一つは、彼らがコミュニティの一部となり、人々と密接に関わっている点だ。
ジョンもジュディも、そしてジォフリーも、同じような状況下で育った。彼らは皆、ザンビアの農村生活の苦労と喜びを経験してきたのだ。しかし今では、訓練を受けた草の根リーダーとして、自分たちのためではなく、周囲のコミュニティの人々の生活を改善する方法を模索している。彼らがEDFを通じてどのような影響を与えてきたのか…それは、現地で出会った人々の温かさと笑顔が物語っていた。
干ばつと木炭とのつながり
ジュディが用意してくれたバケツのお湯で体を洗った後、私たちは朝食に向かった。庭の野菜と新鮮な卵、それにピーナッツ入りのお粥だった。初めに話題に上ったのはアジア学院の話で、どのように研究科生(TA)がアジア学院と深い関係性を持つのかについてだった。
1993年の研究科生だったジョンは、「私たちは2つの家を持っていると感じている。」と話した。彼は、日本に向かう飛行機で、偶然にもスリランカから来た学生と隣同士になった。彼らは一言も会話しなかったが、日本に着き、どちらもアジア学院に行こうとしていたことが判明した。彼の名前はサルバレージと言い、今でも連絡を取り合う仲だ。
そして、話題は干ばつに移った。近隣には補助価格でミエリーミールと呼ばれるコーンミールを売る店や倉庫がいくつかある。しかし、昨シーズンの農業収入が得られなかったために、低価格でもそれを買うことのできない人々もいる。8-10人家族だと、一週間で一袋消費してしまう。村々では、食料を買うために、13-15歳の娘を金持ちの商売人に嫁がせるという。
「ようやくアフリカが分かっただろう。」カイが初めてアフリカ大陸を訪れていることについての話題を引き合いに出して、ジォフリーが言った。
干ばつをさらに悪化させているのは木々の伐採で、作られた木炭は道端で売られている。けれども、収穫を得られない世帯が手にすることのできる唯一の収入源が木炭なのだ。
さらに、ザンビアは水力発電に頼っているが、河川の水量が十分でないため、毎日長期にわたって停電が発生する。人々はこれを 「ロード・シェディング」と呼んでいる。ここカナカンタパでは、電気が通っている家庭は全体のわずか5~10%であり、このことが木炭の需要を高めている。つまり、雨が降らない→作物が育たない→収入がない→炭を作るために木を切る→森が減る→雨が降らない、というサイクルが出来てしまっている。
カナカンタパの保健ワーカーたち
ここの地域は、カナカンタパ入植地域と呼ばれ、地域内の村にはそれぞれアルファベット文字の名前が付けられている。EDFはE村にある。確か、L村まであると聞いた気がするが、今ではその総人口は2万人に上る。1960年代に日本政府のODAが主導となって開発が進められた。
周辺には保健センターがたった一つしかなく、人々は10-20㎞の道のりを歩かねばならなかった。妊婦はトラックを借りてセンターに行ったが、道すがら子供が生まれてしまうことも多々あったという。そこでEDFは40名の地域保健ワーカーを育成し、家庭での出産を助け、必要時には病院に搬送できるようにした。
彼女たちは薬の配布も行う。地域で結核が流行した時も、彼女たちが毎日家々を訪問し、患者たちに確実に薬を飲ませた。処方通りに薬を飲まないことはよくあることだが、彼女たちの勤勉さが功を奏し、今やカナカンタパの結核患者は一人もいなくなった。
EDFの敷地内では、5歳未満児の診療も行っている。ジュディが地元の診療所のスタッフを手配し、子どもや妊婦を診察し、深刻な問題がある場合は診療所に紹介することで、若い母親や妊婦が長い道のりを歩かずにすむようになった!
ちなみに診療にかかる費用も全てEDFが負担している。
ベルビン・パンバ
朝食後、我々はベルビン(2016年アジア学院卒)に会うために出かけた。彼は今、ここから1,000㎞離れたザンビア北西部、ナコンデで働いているが、ルサカで開催されている全国農業・商業展のために街に来ていた。これは年に一度のイベントで、様々な地域から人々が集まってくる。
ベルビンがカナカンタパで地域活動を始めたのは17年前、JICAの中村氏の援助で女性のためのヤギのプロジェクトを行った。グループの活動はすぐにキャッサバ加工や乳製品に広がりを見せた。ある地域ではJICAの援助を受けたキャッサバ加工施設も建設された。トウモロコシの製粉機を有する施設も隣接しており、自分のトウモロコシを製粉するためにやってくる地域の人々から収益を得ている。我々はちょうどその目的のためにやってきた女性に会うことができた。
別の場所にはMCCと呼ばれる集乳所がある。冷蔵のタンクには最大1,800リットルの容積があり、問題なく貯蔵することができる。地域の農家がめいめい運んできた量に応じて、毎月の支払いが行われている。オフテイカーと呼ばれる買主が3日おきに来て、牛乳を街へ運んでいく。どちらのプロジェクトにおいても、干ばつによるロード・シェディングが問題となっている。
この干ばつは、私が予想もしなかった形で広く社会に影響を及ぼしており、我々がいかに自然環境と密接に結びついているかを思い知らされる。電力が不安定なため、機械を動かすことができず、牛乳を冷蔵しておくこともできないので、人々は大変落ち込んでいる。彼らはソーラーパネルのための資金を得られればと願っているが、それらはとても高額だ。
次に彼らが話してくれた問題は、良い家畜がいないことだった。彼らはホルスタインの交雑種を飼っているが、より乳量の多い牛がほしいと考えている。しかし、ベルビンに伝授されたと思われるアジア学院の流儀を共有し合い、成功していることもあった。トウモロコシ、大豆、ナッツ、ヒマワリなどの栽培時、化学肥料の代わりにたくさんの糞尿を使用しているのだ。
もはや必要ない
チサンゴ・ファームと呼ばれる農場に初めて足を踏み入れたとき、ベルビンは持ち前の笑顔で言った。「ここが僕のスタート地点です。彼らが私の農家、酪農家たちです。私たちは17年間、苦楽を共にしてきました。」
ベルビンが去った後も、先駆的な取り組みが続いていることを、彼は大変誇りに感じているようだった。私は、これこそ真の成功の尺度だと考えている。あなたがいなくても、人々が上手くやれるようになれば、あなたの仕事は完了し、次に移る時が来たということだ。とは言え、ご覧の通り、彼らは友人であることに変わりはないし、きっとベルビンは折に触れて助言もしているのだろう。よくやった、ベルビン。
その日、グループから50名の女性が来て、農業展で自分たちのヤギや生産物を販売していた。彼女たちにとっても年に一度の大きなイベントの一つなのだ。
EDFに戻る道すがら、ベルビンは彼の抱えるいくつかの困難について語ってくれた。例えば、コミュニティがしばしば、自分たちの問題を解決してほしいと彼に期待を寄せること。上記の「ヤギのグループ」のように、人々に自立の意識を持たせることが、彼の絶え間ない挑戦なのだ。また、職場では彼の成功に嫉妬する人や、彼を脅威に感じている上司もいるようだ。ヒエラルキー構造やプライドが、成功する努力を妨げたり、引き裂いたりする原因になっていることは多い。ため息が出る。
ベルビンの次なる目標は、ボカシを製造して販売するビジネスを始めることだ。これは他の卒業生が成功しているのを見たことがあり、彼の率先的な取り組みを嬉しく思っている。大手の肥料会社が化学肥料を売るというのなら、私たちの卒業生が高品質の有機肥料を売ってはいけない理由はないだろう。
彼は、中国企業で見た、少ない労力で大規模なボカシ製造ができるシステムを構築するために6,000ドルを集めようとしており、JICAからの資金提供を願っている。
カナカンタパ・コミュニティ昼食会
この日最大のイベントは、エキュメニカル農業多目的協同組合のメンバーとの昼食会だった。カナカンタパの様々なアルファベットを冠した村々から女性たちが集まった。
ジュディもインタビューで語っていたが、このコミュニティの美しさはその多様性にある。入植地というだけあって、彼女たちはザンビア全土の様々な部族の出身だ。言語も様々で、ショワ語、トンガ語、セン語、レンジェ語、ンゴニ語、チェワ語、ベンバ語、ロジ語、そしてトゥンブカ語を話す人がいる。私は、ぜひともそれぞれの言葉を少しずつ習いたかったが、皆とても空腹で、ご馳走を食べる準備は万端だった。私たちの食事は、ブロイラー・チキン、豚肉、ベイクド・ビーンズ、トウモロコシのお粥、カペンタ(イワシのような小魚)、ルマンダ(ローゼルの葉などを落花生と一緒に煮込んだもの)だった。もちろんシマも欠かせない。
食べ物を分かち合うことは、あらゆる文化に共通する祝いの儀式であり、この活気あるコミュニティとともに現地の食事会に参加するのは、本当に素晴らしかった。その後、ジュディに勧められて、昼寝もさせてもらった!その晩の夕食は必要なかった。
簡単に部族と言語の話に戻ると、ジュディはンゴニ族、ジョンはランビア族だ。ニャンジャ語はこの地方で広く話されている言語で、この地域の“リンガ・フランカ”のようなものだ。
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
シリーズ記事はこちら
Vol.4 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 5日目】<== 今ここ!
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
4日目は、またまた長い旅の一日でした。
そして、やっとその日の目的地に到着!そこで待っていたのは…?
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 4日目】
ルサカ行きのバスに乗り込む
ルサカ行きのUBZバスの出発時刻は午前7時だった。
「このバスは定刻に出発する!」と何度も警告されたので、私たちはちゃんと午前7時前に到着していた。
通常のアフリカのバスの出発時間は…“バスが満員になった時”で、燃料節約の観点からすると、そのほうがずっと効率的なのだ。
バスに積み込まれるものを見るのは楽しかった。
たくさんのスーツケースの間には、チョコレートの箱、謎の金属ケース、そしてトラックのエンジン。それともこのバスのスペアなのだろうか?多分違うだろう。外も中もピカピカに磨き上げられた最新車両だったからだ。
相席のマイク・チョンウェ
カイとジォフリーが一緒に座り、私は、マイク・チョンウェという、元政府職員の方と隣同士になった。ワシントンDCのザンビア大使館で長年外交官として働き、40カ国以上を旅してきたという。6人の子供のうち5人はアメリカに住んでいるが、末っ子はザンビアのこの辺りにいるという。
引退後、彼は2つのNGOを立ち上げた。一つは、ザンビアで深刻な問題となっている、前立腺ガンの周知と予防を進めるためのものだ。前立腺ガンの死亡率は60%を超えており、彼は政府に対し、より良い治療施設を建設するよう提唱している。現状の設備は全く不十分で、本当に回復を望む人はインドまで行く必要があるという。「ザンビアで病気になるのはリスクが高い。」というのは、彼が実際に口にした言葉だった。来年にはキトウェに一つ、さらにその翌年にはリビングストンにもう一つの施設が完成する予定だと言うから活動は順調なようだ。
彼のもう一つのNGOは社会的弱者の子どもたちのためのもので、56人の子供たちの就学を支援しており、その数を100人に増やしたいと考えている。将来の活動としては、虐待を受けた家庭環境から来た子供たちが、学校に通いながら生活できる「移行施設」の建設を目指している。マイクは、貧困やアルコール中毒によるひどい虐待やネグレクトを目の当たりにしてきたという。さらに大きな夢は、学校も建てることだ。彼はアトランタにある息子の教会と協力して資金を集めている。
これらの活動に留まらず、彼は農場もいくつか所有し、地元の品種の鶏、牛、大豆、キャッサバ、落花生、サツマイモ、エンドウ豆などを育てている。もちろんトウモロコシも。
ご想像のとおり、私は彼にアジア学院のことをすべて話した。彼は有機農業を行っている点に興味を示し、最近、私達が口にする食品に含まれている添加物や化学物質が、いかにガンの原因になっているかを説明した。
私たちがルサカに入るとき、彼は自分のゴルフコースを指差し、雨不足で干上がっていると言った。
…バスで偶然出会った知らない人について、ちょっと語りすぎたかもしれない。
でも、これが旅というものだろう?
ザンビアについてのあれこれ
途中、長めの休憩を取った時に、ジォフリーがシャワルマという食べ物について教えてくれた。
肉やチップス、ピクルス、その他もろもろが、全て一つに包まれており、手に持って簡単に食べられるので、旅にはもってこいだ。あちこちにこぼしたって大丈夫。ナプキンももらったから!
後で調べたところ、これは中近東の食べ物で、アラブ人によって伝えられたようだ。移民を嫌う人もいるかもしれない。でも、私たちは皆、彼らの料理が大好きだ!
高速道路は1902年に建設された鉄道路線に沿って走行している。どうやら1911年製の貨車の一部はまだ現役のようだ!
ずっと茶色く乾燥した景色が続いていたが、雨季の最初の雨が降れば、たちまち緑色に変わるだろう。ルサカの近くでは、2万ヘクタールのサトウキビ農園を通り過ぎた。
アフリカのほぼすべての国と同じように、中国人がいたるところで高速道路を建設している。ザンビアでひとつ違うのは、政府が中国企業に現地の労働者を使うことを義務づけていることだ。通常、中国企業はエンジニアも設備も、労働者すらも(!)すべて自国で調達する。
混沌から天国へ
長い8時間の後、私たちはついにルサカのバスターミナルという狂乱の場所へと転がり込んだ。ドアが開くや否や、男たちがカギを片手に、バスの中に向かって「タクシー」と叫び始めた。恐らく、個人で所有する車なのだろう。
荷物は狭い場所に降ろされ、受け取るスペースはほとんどなかったが、私たちはなんとか荷物を取り、酸素の多い場所に抜け出した。それからジォフリーがアプリを使ってタクシーを呼んだので、超情熱的な「カギ男」たちの努力は全て無に帰した。
ドライバーは駅を出る途中、水を買うために一旦停車した。目の前で喧嘩している人たちがいたが、お構いなしだった。
次なる目的地は、ジォフリーの教会だ!
教会は、ジォフリーが車を置いてきた場所であり、チョンウェまではここから車で一時間半移動する必要があった。少女たちが輪になって歌の練習をしているのを見るのは、むき出しの人間味にあふれたどん底のバス停から天に昇っていくようで、なんと甘美なことだろう。ジォフリーはルサカのこの辺りで育ち、彼の娘がここに住んでいるので、挨拶に寄ったのだ。彼女の名前はジュディと言い、祖母と同じ名前だ。
ヤギ肉のバーベキューを軽食で頂いた後、この日の最終目的地であるチョンウェに向かった。
そしてついに、エキュメニカル開発基金(EDF)のジョン・ニョンド(1983年アジア学院卒)とジュディ・ニョンド・ダカ(2001年アジア学院卒)に会うことができた。
ジョンはアジア学院に来た最初のザンビア人で、ジュディは彼の妻である。二人はこの地域の村人のニーズに応えるためにEDFを立ち上げた。彼らの息子であるジォフェリーは昨年アジア学院に行き、両親の仕事を引き継いでいる。ベルビン(2016年アジア学院卒)も来て、私たちを歓迎してくれた。
ニョンドの家屋敷
その晩、私たちはジュディの孫娘、ルルことルヤンダが手際よく作ってくれた村産のチキンのトマトソースがけを夕食にいただいた。ちなみにルルは16歳で、大学2年生だ。
話したいことはたくさんあったが、長旅の後で頭がボーッとしていた。しかし、最も差し迫った話題のひとつは干ばつだった。この地域は特に影響を受け、飢餓が起きているが、政府は赤ん坊のいる母親に対してしか救済措置を取っていない。さらに、9月までに地下水も枯渇するとの予測がされており、人々は10月に雨が降ってくれることを祈っている!
ジォフリーのおかげで蚊帳が吊られ、私たちはようやくこの長い旅に終止符を打つことができたのだった。
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
シリーズ記事はこちら
Vol.3 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 4日目】<== 今ここ!
秋も深まり、アジア学院では来年度の日本人学生の募集が本格的にスタートしました。
来る11月30日(土)には入学希望者を対象とした、体験入学イベントを開催します (詳細については記事の末尾に掲載)。
前回に引き続き、今回も、卒業生の“今”をお伝え致します。
【小松原 啓加さん 2020年度 卒業生】
Q1:何故、アジア学院の学生になったのか?
農業の実践的な知識・技術を身につけたかったのと、国際開発に興味があったからです。
入学前に何回か滞在してみて、アジア学院の雰囲気が自分に合っていたのも後押しになりました。
Q2:一番の学びは?
世界中から集まった仲間たちが、自分とは全く違う人生を生きてきていたこと。
数え上げればきりがないほど沢山の違いばかりだったけど、どんなに違っても、私たちは「同じ人間」だということ。
当たり前かもしれませんが、共に生活する中で、一番肌で実感した学びでした。
Q3:現在のライフワークや暮らしについて
アジア学院を卒業後、栃木県の塩谷町で地域おこし協力隊になり、まちの人について発信するインタビューライターとして活動しています。
インスタをやっていますので、フォローよろしくお願いします!
地域おこし協力隊の個人アカウント: @hiroka_408
Q4:学生になることを考えている人へのメッセージ
私たちが今後生きる未来は、どうなるのか全く予想がつきません。
明日、大地震が来るかもしれないし、来月、宝くじが当たるかもしれないし、1年後に病にかかるかもしれない。
そのように、もし自分の人生が大きく変わる出来事が起こったとしても、変わらない自分の核のようなものを互いに育てていくのが「アジア学院」というところだと、個人的には感じています。
少なくとも私は、しなやかな核を持った人たちと学び多く豊かな日々を過ごすことができました。
とりあえず気になったら一度訪れてみてくださいね!応援しています!
☆「国際交流 × 農業 × コミュニティ開発」を体感しながら学べるアジア学院に入学しませんか?
アジア学院の日本人学生がどんな学びが得られるのか、どんな日常を送るのか、知ってもらうための体験入学イベントを開催します!
入学希望の方は是非お越しください!
日時:11月30日(土)10:30-14:00
参加費:2000円(お支払いは当日アジア学院にて現金精算になります。)
申込方法:
申込フォーム https://ari.ac.jp/entry-form-open-campus2024?ari=news
もしくは[email protected]までご連絡下さい。
どうかこの機会をお見逃しなく!
今年の8月、アジア学院の職員が、アフリカのザンビア、マラウイを旅して、計23名の卒業生を訪ねました。
そこで、スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
3日目は、ザンビアの観光をたっぷりと…いえいえ、決して遊びに来たわけではないですよ…!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 3日目】
ちょっとしたリビングストン観光
今朝は時差ぼけで午前3時に起こされそうになったが、何とか5時まで寝ることに成功した。
それから素晴らしい朝食を待つこと、たったの2時間。時差ぼけは腹時計も狂わせるので、カイと私はお腹がペコペコだった!
この日は観光三昧の一日となった。我々がただ楽しんでいるだけで、冒頭で述べた”卒業生に会う”という使命を真剣に遂行していないと思うかもしれない。しかし、最初に休息日を設けるのは最善の選択だった。
この後のスケジュールはぎっしり詰まっている。そのため、この”ソフト・ランディング”は、長旅の疲れを癒し、アフリカの生活、特に現地時間に適応するチャンスとなる。同時に、観光はザンビアの経済の大部分を占めており、国民は世界的に有名なビクトリアの滝、広大なサファリパーク、国中の素晴らしい自然を誇りに思っている。ザンビアの友人いわく、これらの場所は必見だそうで、もし私たちがこれらをスキップしたら、彼らは許してくれるだろうか…?
さらに、私たちはジォフリーと丸一日過ごすことができ、彼はリビングストンとザンビアについて知っておくべきことや興味深い話をたくさん教えてくれた。
今朝の目標は”ビッグ5”と呼ばれる野生動物を見ることだった。サイ、カバ、ゾウ、ライオン、バッファロー、ハイエナ、チーター、そしてたぶんトラ。具体的にどの動物が “ビッグ5”なのかと尋ねると、このような答えが返ってきた。どうやら諸説あるようだ。
何にせよ、いくつか見られたら素晴らしいと思ったが、サファリに行ってみると…驚くほど高額だった!最大の売りは、その”仰天”するような値段で、ライオンやトラと一緒に歩けることだ。カイと私はあまり興味がなかったので、代わりにジップライン体験をすることにした。こっちの方が私好みだ。
私たちは車で、乾いた渓谷(私が期待していたザンベジ川ではない)に行った。そこには複数のアクティビティが用意されており、崖の横から飛び降りて渓谷の上をスイングする「渓谷ブランコ」などがあったが、私には…少々ハードルが高すぎた。ジップラインを体験するというだけでも緊張していた。
驚いたことに、ジォフリーはすぐに飛び込んで、従業員の男の子と一緒に最初のジップラインに乗った。そしてカイがストラップを締め、飛び出した後を…私も追いかけた!
最初の一歩は胃がキリキリしたが、その後はアドレナリン全開の楽しさだった。
彼らは2回目も私たちを無料で乗せてくれた。”ムササビ”の体勢で、後ろからフックをかけられ、スーパーマンのように飛ぶことができるのだ。運転手のメビンも一緒になって楽しんだ。彼はリビングストン出身だが、ジップライン体験はこれが初めてで、顔を輝かせて喜んだ。
ザンビアのあれこれ
町に戻る途中、遠くの方を象が歩き回っているのが見えた。世の中の、大半の人が住む地域ではまず見られない光景だろう。
ゾウが町を歩き回り、シマウマが道端で草を食み、カイと同じくらいの背丈のヒヒが両手を広げてカイのすぐそばまで歩いてきて、ミニッツメイドのマンゴージュースをひったくろうとしている。野生動物に興奮しつつも、少しビビっている我々を眺めていたジォフリーを見て、私は、日本で一番衝撃的だった、あるいは驚いた体験は何かと尋ねた。彼の答えは地下鉄で、全てが複雑で完璧なリズムでつながり、流れていて、全ての電車が分刻みで時刻通りに走っているのを目の当たりにしたことだった。
さらに、道すがら得た知識をいくつかランダムに。
ムクニという地域の首長はザンビアで最も裕福だ。彼はリビングストンにたくさんの高級ホテルや観光名所、広い土地など色々持っているようだ。というのも、街角には彼の巨大な看板があり、所有するコロナウイルスワクチンの予防接種を勧めていたからだ。
巨大な箱を荷台に載せた自転車の少年たちともすれ違った。どうやらジンバブエから帰ってくる途中のようだった。彼らは国境を越えて野菜を運び、アメリカドルで売って収入を得て、パスタのような乾物を安く買って持ち帰るのだ。ちなみに、ジンバブエの経済はハイパーインフレに見舞われて崩壊した。アメリカドルが使われているのは、そのような理由からだ。
最後に、車はガソリンスタンドに到着した。メビンが一度に100クワチャ(4ドル)のガソリンしか入れないので、我々は数えきれないほどガソリンスタンドに立ち寄った。なぜ彼がそんなことをしたのか、誰も分からなかった。店員のほとんどが若い女の子だから…?かもしれない。
ホロホロ鳥とチテンゲ
昼食、カイはホロホロ鳥を選んだ。柔らかくてジューシーだった。私はTボーンステーキを選んだが、硬くてパサパサだった。教訓…カイと同じものを選ぶのが吉!
さあ、次は買い物だ。まずはスパーという大きなスーパーマーケットへ。ジォフリーは以前、ここに商品を卸す会社に勤めており、彼のおすすめのグアバジュースはとても美味しかった!
それから、厚手の服を買うために服屋に向かった。ザンビアは南半球にあるため、季節が正反対であることを忘れていたのだ。日本が夏ならザンビアは冬である。アフリカなので、極端に寒くなることはないが、早朝はかなり肌寒い。日本のうだるような夏から解放されるのは喜ばしいが、前もって地理を勉強しておくべきだった。
天気の話題と言えば、ここでは誰もが10月か11月に来る雨期を待ち望んでいる。昨年春の干ばつは壊滅的で、いくつかの地域に飢餓を招いた。問題は、雨が降るかどうかは誰にも予測ができないと言うことだ。これは非常に神経を使う、生死に関わる問題だ。
最後に、カイの母親にサンドレス、キャシー(アジア学院の職員)に、女性の伝統的な巻き布、チテンゲを買うために、土産物屋に立ち寄った。
カイは地元のかわいいチテンゲを夢中で探している。販売員たちは自己主張が強かったが、攻撃的ではなかった。それでも、あまり買い物を楽しめない。
何か一つのものに一瞬でも目をやると、即座に誰かが押しかけてくる。「あの頭にカゴを載せた背の高い人たちの絵は何だと思う?」「それ気に入った?」「お名前は?」「どこから来たの?」「近づいてよく見てみて」「いくらなら買うかい?」等々。恐らく、この”ゲーム”を学ばないといけないのだろう。地元の人たちにとってはごく普通のことなのだ。
この日一番の収穫は、販売員の一人が描いた、ガモーラ(マーベル・コミックの世界)をイメージした緑色の肌を持つ女性の絵だった。
最後の最後に、明日のチケットを買うためにバスターミナルに立ち寄り、しばしの休憩と記録のためにホテルへと戻った。
夕食は、勧められるままに、ジォフリーとZestレストランという店に行き、そこで、驚愕のメニューを目にした。
私たちは狩猟肉を試すべく、インパラとワニを選び、ジォフリーはモパネワームという毛虫 (カリカリして美味しい)を使ったザンビア料理「ヴィンクバラ」を注文した。残念ながらクーズー(カモシカの一種で大きな角を持つ)の肉はなかった。普段、動物園で目にする動物を食べるのはどうかと思ったが、正直言って美味しかった!
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.2 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 3日目】<== 今ここ!
“今日の校長”
旧日本軍により英兵捕虜となった人たちやその家族と日本人の和解に尽力してきた英国在住の恵子ホームズさんをお迎えして、彼女の30年に亘る和解の旅路についての話を聞きました。恵子さんの来校は今年が3回目ですが、戦争によって固く閉ざされた多くの人の心が、神様と共に歩む恵子さんの歩み寄りによって癒され、憎悪や憎しみから解き放たれて、人生が大きく変わっていくという証(あかし)は、何度聞いても、奇跡は起こるという希望を私たちに示してくれます。
恵子さんの活動は英兵捕虜に関係する人々だけに留まらず、インド、シンガポール、インドネシア、フィリピンなど、旧日本軍の侵攻や支配によって影響を受けたアジアの多地域に及んでいます。アジア学院にはそういった地域からの学生が多いので、恵子さんの話の最後にはいつも、そのアジア地域の人々に対する心からの「謝罪」の時が持たれます。今年も私を含む日本人のメンバーが心からの謝罪の気持を示すことができたことに感謝をしています。恵子さんは、毎年秋に3ヶ月ほど日本で証をするツアーを行っています。関心のある方は次の連絡先にお問い合わせください。アガペワールド日本事務局
藤田宏二郎(フジタ コウジロウ)[email protected] TEL: 080-5016-4687
〒329-2703
栃木県那須塩原市
槻沢442-1