食べものからの平和。これは、アジア学院の夏の寄付キャンペーンのテーマで、私はこのテーマに関して、アジア学院の卒業生たちから学ぶべきことを皆さんに伝えてほしいと依頼されたのだった。
ところで、私の名前はスティーブン・カッティング。卒業生アウトリーチのコーディネーターで、つまりは卒業生の窓口というわけだ。実際に、私はほとんど毎日、卒業生と会話をしている。だから、おそらくこの仕事には適任というわけだ。
とはいえ…食べものからの平和。食べものからの平和。これは実際のところ、どういう意味なのだろうか?
食べものがないところに平和がないことは容易に想像できる。空腹の人は怒りやすいという言葉を聞いたことがあるだろうか?英語ではお腹が減ってイライラする人を形容する造語すらある。それは、hangryという言葉だ。hungry(空腹) + angry(怒り) = hangry。
あるマラウイの学生が、私に話してくれたことがある。彼が子どものころ、家に食べものが何もない時があったと。母親は、彼に一杯の水を飲ませて寝かせたそうだ。朝には何かにありつけることを願いつつ。彼はちゃんと眠ることができたのだろうか。
別のウガンダの卒業生は、クラスメイトと一緒に学校へ行き、授業中にこっそり食べ物を探していたという。朝食は食べていなかったのだろう。彼らがどこに食べ物を探しに行ったのかは分からないが、空腹を満たしたいという衝動は、数学や歴史を学ぶことよりもはるかに大きな関心事だったことは確かだ。
また別のスリランカの卒業生は子どもの頃の話をしてくれた。彼は10人きょうだいの一人で、父親は日雇い労働者だった。もし、父親が仕事を得ることができれば、彼も食事にありつくことができた。そうでなければ、家族全員、空腹のままで眠りにつかなければならなかった。
食べものなしに、平和を得ることができるのだろうか?反対に、食べものは平和をもたらすのか?
きっとそうだと思う。
高見先生が教えの中でしばしば食べ物について力説したのは、おそらくこのためだろう。彼はこう記している。「私たちは、少なくとも主食を自給自足できるようにならない限り、自己意識や自立性を得ることは事実上不可能であることを経験的に知っている。」そして、「ひとといのちを支える食べものを大切にする世界を作ろう」というのが、フードライフという言葉の根底にある。おそらく、このような食への優先度は、彼自身の飢餓体験からきているのだろう。
戦後、高見先生は貝を獲るために2つの山を登って海へと足を運んでいた。泳ぎを習得するために溺れそうになったが、貝を売って米や塩に替えることができた。これは自分と家族の食糧になる。彼に飢えへの切迫感がなければ、決してこんなことはしなかったはずだ。
国家の平和。家族の平和。心の平和。お腹が満たされた時のシンプルな心地よさ!
アジア学院のフードライフは農業を行うだけでなく、コミュニティとして食べ物を育て、料理することを目的としている。すべての食事は、私たちの労働と収穫を共に祝うものなのだ。これはなんと平和な風景だろう。
さて、始めの質問に戻ろう。アジア学院の卒業生たちから、食べものからの平和について何を学ぶことができるだろうか?それは彼ら/彼女らに聞けばわかることだ。そして私はそのメールアドレスとWhatsAppの番号を知っているので、ただそれを実行し、私が発見したすべてを、これからの数週間にわたって、皆さんと分かち合いたいと思う。
文、写真・スティーブン・カッティング(アジア学院 卒業生アウトリーチ・コーディネーター)