8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
ちょうど旅の折り返し地点となったこの日、いよいよ二人は、隣国マラウイに足を踏み入れます!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 13日目】
チクング伝道所のシスター・エスター
今日はマラウイへの国境を越える日だ。カイは陸路で国境を越えたことがないので、とても楽しみにしているようだ。確かに日本からは難しいだろう。
しかし、その前に、シスター・エスターと過ごし、チクング伝道所についてより詳しく知る機会を得た。ジュディが、地方にあるカトリックの伝道施設がいかに優れているかについて話してくれた。彼らは広大な土地を手に入れ、病院や学校、そしてもちろん教会を建てることから始めるという。私がアフリカで訪問した数少ないカトリックの伝道施設を思い返しても、彼女の見立ては正しいと思う。
あいにく、カイは朝起きてから、喉の痛みと発熱があったが、朝食のテーブルには、その症状を緩和するのに最適なもの、蜂蜜、生姜、柑橘類のジャム、紅茶、そして湯気の立つ温かいキノコスープが用意されていた。朝食の話題は干ばつに移り、エスターは、今のところこの地域には大きな影響はないが、「2ヵ月後にはみんな泣いているでしょう」と言った。ジュディは、彼女の住むカナカンタパでは、ミエリー・ミール(とうもろこし粉)を買うために夜中の1時から行列ができていることを話した。もし今シーズンに雨が降らなかったら、海外からの援助が必要になるけれど、「その援助は決して人々に届かない」。責任者たちは、まず自分たちの家族や部族、政党に所属する人々(部族全体がひとつの政党に所属していることが多い)に分配するのだ。しかし、EDFのあるチョンウェでは、非常に強い首長がいて、「彼女は自分の人々が苦しむのを望まない」ので、配給はしっかりと迅速、かつ公平に行われている。女性が首長になるのが一般的だとは知らなかったが、世襲制なので、息子がいなければ娘になる。このチョンウェの首長は、政治家たちを一人ずつ呼び寄せて面会させるなど、かなりの権力を持っているようだ!
エスターと神父の一人が、私たちを連れて敷地内を案内してくれた。チクング伝道所は1985年に設立され、2つのセンターがある。その一つが、カテキスタ(司祭の助手のような役割)養成センターだ。一番最近の研修生は1ヶ月前に2年間のプログラムを終了し、伝道所では現在、次の研修生の面接を行っている。男女合わせて一度に20名のカテキスタが養成される。女性の研修生を受け入れる際には、その夫は、この研修が女性のためのものであることを理解し、それをサポートする役割を担うという同意書に署名しなければならない。研修生は家族と共に来て、家族用の住居と、彼らが自分たちのために耕作できる土地が提供される。研修に参加しない配偶者は町で仕事を見つけることもできるが、提供された土地で働くことを選ぶことが多い。研修生には、必要に応じて農作業をするための休暇も与えられる。彼らはトウモロコシ、落花生、ヒマワリ、大豆を栽培し、エスターは彼らに農業のアドバイスをしている。子どもたちは近くの小中学校に通っている。
もう一つの主要な施設が、パストラルケア・センターで、会議やミーティング、企画会議などに使用され、教会堂や事務所、教室を有している。エスターはミッションの庭園を熱心に見せてくれた。エスターが自発的に取り組んでいるプログラムなのか、団体のプロジェクトなのかは分からなかったが、いずれにせよ彼女は、持続可能な農業がここでの生活で、いかに不可欠であるかを私たちに知ってほしかったのだと思う。
ジョンが残した別の足跡
私たちは朝のうちに出発し、チパタに向かって埃っぽい道を下っていった。川(今は乾いている)を迂回するような箇所もあり、もしこれが雨季だったら、通行できない道があって、ずいぶんと様子も違ったかもしれない。キャッサバ畑を通り過ぎたとき、ジュディはキャッサバがいかに乾燥に強いか説明してくれた。キャッサバからシマを作ることもできるが、人々はトウモロコシを好む。カイが、人々が茅葺きではなく金属の屋根を好む理由を聞くと、金属の方が丈夫で防水性が高いという説明が返ってきた。茅葺き屋根の寿命は約5年ということだ。私たちが滞在したのは乾季だったので、金属の屋根の価値はそれほど明らかではなかったが、雨が降ればはっきりするだろう。家族が臨時収入を得た時、始めにお金を使うのが金属の屋根だという。マジモヨ(水の命)と呼ばれる場所を通りかかると、ジョンは以前ここでも牧師をしていたと話してくれた。ジョンは、その長く捧げてきた人生の中で、本当にザンビアの至るところでかかわりを持ってきたようだ。
たくさんのシスターたち(混乱注意!)
チパタ(ザンビア東部の最後の町)に着くと、私たちはチパタ伝道所に立ち寄り、良き羊飼いの修道会の会長に会った。この町は聖アンナ大聖堂と呼ばれる、植民地時代に建てられた大きな教会で有名だ。シスターの総長は会議中だったので、代わりにシスター・フローレンス・カペンデと話をした。プリシラは2024年の2月までチパタ伝道所に駐在していて、アジア学院に行った時もここに所属していた。シスター・フローレンスは、プリシラがここで農業を営んでいたことをすぐに指摘した。「彼女はアジア学院で学んだことを実践し、とくに有機農業にこだわりを持って取り組んでいます。」鶏や豚の飼育も始め、糞尿を堆肥として活用している。プリシラはいつも他者との分かち合いを大切にしていて、町の女性農民グループを結成した。彼女は、ミッションに全ての活動を引き継いで去った。シスター・フローレンスは、プリシラが積極的な有機農家であるのに対し、エステルはより小規模であると説明した。シスター・フローレンスの連絡先を受け取り、修道会からもっと多くのシスターをアジア学院に派遣するのが有意義だろうという合意と共に、会議は終了した。
ところで、プリシラやエステルの前にシスターをつけていないことにお気付きだろうか。アジア学院ではシスターをつけないので、私が自然に感じる形で記させてもらった。
ハングリー・ライオン
チパタでの最後の目的は、ハングリー・ライオンでお昼を食べることだった。KFCのようなファーストフードチキン・チェーンで、全国にお店がある。カイと私は、到着した日からこの店に行ってみたいと思っていたのだが、何だかんだいつも先延ばしにしていて、今日が最後のチャンスだった。マラウイには支店がない。ちゃんと確認した!
味は美味しかった!チキンは新鮮で、店内はとても清潔だった。私はリーズナブルな値段だと感じたが、一般的なザンビア人にとっては高いだろうし、ここで食べるのは特別な機会だと思うが、それでも客足は絶えないようだ!
残念なことに、カイはまだ調子が悪く、せっかく長時間待ったのに楽しむことができなかった。隣が薬局だったので、薬を買いに立ち寄った。そうそう、さっと周囲を見回して気付いたのは、バイクタクシーに大きな傘がついていたことで、チパタ以外では見られない光景だった。
マラウイへの入国
国境を越えるのはスムーズだった。カイだけビザの手続きでずいぶん待たされた。
マクドナルドが車で待っていてくれて、マラウイ・クワチャへの両替を手伝ってくれた。我々はジョンとジュディに別れを告げ、彼らはチパタ地区に住むジュディの父親を訪ねるためにザンビアに戻った。彼は103歳だ。104歳だったかな?
約1週間後にリロングウェで開催される会議で、また彼らと再会する予定だ!
ヨーロッパの植民地主義者たちが勝手に国境を定める前は、東ザンビアと中央マラウイは一つの部族だった。ザンビアではニャンジャ語、マラウイではチチェワ語と呼ばれる共通の言語を持っている。アクセントが多少違うが、同じ言語なのだ。
気まぐれマラウイ入門 ― マクドナルドとの車中での雑談より
マラウイで最初に気づくことの一つは、警察官の多さだ。検問所はいたるところにあり、彼らは罰金を取るためならどんな口実でも利用して、車を調べる。マクドナルドによれば、こうして政府(あるいは数人の政治家だけかもしれない)は歳入の大部分を得ており、警察官たちには罰金徴収のノルマまで課せられているという!道路の脇や道路上を(気を付けて!)うろうろしているヤギもたくさんいるので、マクドナルドに警察官とヤギ、どちらが多いか聞いてみた。彼は笑って、本当に分からないねと言った。マラウイでは木炭用の薪を集めることは違法だが、森林破壊という根本的な問題解決のためには、法律だけではあまり効果がないようだ。つまり、ザンビアに比べて道端で炭を売っている人を見かけることは少ないが、警察が介入しても、その警察官が別の場所に炭を持って行って転売するだけなのだ。
その他、道端で見かけた特筆すべき出来事としては、白一色に塗られた2人の男がいた。マクドナルドは彼らをマスカレードと呼んだ。彼らは動物の仮面をかぶり、自分たちを獣の霊だと考えている。私の理解が正しければ、彼らは自分の顔にそっくりの仮面をつけることができる──不気味だ。以前は踊ったり、時には人を殴ったり(なぜ?)していたが、最近は逮捕されるので、あまりしなくなったという。次に、子犬を高く掲げて通行人に見せている男たちがいた。マラウイスタイルの子犬売りだ!村によくいる犬ではなく、特定の犬種のとてもかわいい子犬だった。
マラウイの人口は2,000万人、ザンビアは2,600万人だ。マラウイはザンビアよりはるかに小さく、人口密度も高いが、その土地は中国人、インド人、ブルンジ、ルワンダ、コンゴ民主共和国の人々も買収している。国民の90%は雨に頼る自給自足の農民だ。マラウイ湖は国土のほぼ全長にわたっているが、灌漑設備がほとんどないため、雨が少ないと作物は育たない。主な換金作物は輸出用のタバコだ。タバコを吸っている人をほとんど見かけなかったのは、この国の人々にとって喜ばしいことだ!
ここではキリスト教よりもイスラム教の方が古く、アラブの奴隷商人によってもたらされた。モスクはいたるところにあり、マラウイでの最初の朝は、祈りの声で起こされた。最初にキリスト教を伝えたのは聖公会で1861年に到来した。
アジア学院初のマラウイからの学生、マクドナルド
マクドナルドは現在、マラウイ湖東岸のマリンディ教区に所属する聖公会の司祭である。本名はンジャラ・バンダ神父。もっとも、これもフルネームではない。どこかで一度だけフルバージョンを見たことがあるのだが、そこには他の名前やアルファベット、アポストロフィがたくさん含まれていて、とても印象的だった。私はマクドナルド、あるいはマック…時々ンジャラでいこうと思う。マクドナルドという名前の由来を知りたければ、彼に聞いてみるから教えてほしい。彼はマラウイからアジア学院に来た最初の学生(2010年)で、他の候補者が突然辞退したため、土壇場で主教に推薦された。私はこの選考に携われたことを誇りに思う。マクドナルドがアジア学院への道を開き、その後さらに10名以上のマラウイの農村指導者たちが続いているのだから!
分裂と修復
マクドナルドを推薦した主教はその後、教会から破門された。マクドナルドに多大な影響を与え、教会全体に亀裂を走らせたこの事件の背後には、長くつらいドラマがあった。詳細は割愛するが、長く尾を引いたこの事件は、各地の信徒に深い影響を与えた。教区民は主教を支持する者と不支持の者に分かれた。仲間から告発され、何週間も獄中で過ごした会員もいた。司教が破門された後、マクドナルドはマリンディ教区に派遣されたが、そこでは上記のような状況のため、多くの信徒が逮捕されるなど、深い亀裂が生じていた。人々は怒りと憎しみに満ち、二度と教会に戻ったり、仲間の信徒と口をきいたりしないと誓っていた。マクドナルドはここで癒しをもたらすために多くの仕事をしなければならなかったが、彼はまず、刑務所で過ごした人々に一人ずつ話しかけることから始めた。そして他の信徒たちにも語りかけ、一致と赦しに関する説教を行った。
そして、他の信徒と話をして、団結と赦しについての説教をした。彼は、人々は一つのコミュニティに属する一つ民であると語った。主教のような外部の人間一人に従うために、自分たちを分裂させてはならないと。マクドナルドですら部外者だが、信徒たちにとっては、ここが彼らの家であり、家族なのだ。これらは彼が私に語ったことの一部で、私も完全には理解できていないと思う。しかし、一月も経たないうちに、全ての人々が戻ってきて、教会は再び一致団結して活発になった。
現在は新しい主教がおり、数日後、我々もその人物と会った。新司教の候補者リストが作成されたとき、マクドナルドの名前も含まれていた。しかし、それを知った彼は、削除するように頼んだ。第一に、破門された主教が主張していたように、自分が主教になることを画策していたと思われたくなかった。第二に、彼は対立の一方に積極的に関与していたため、自分の任命は教会内の亀裂を深めるだけで、必要な癒しを与えることはできないと考えた。この問題はもう人々にとって終わったことのように思えるが、本当にそうであり、新たな章が始まったことを願うばかりだ。
私たちはマラウイ湖近くのサリマというところまで移動する予定だったが、カイの体調を考慮し、首都リロングウェで一晩を過ごした。
皆ゆっくり休むことができ、カイも翌朝、病院にかかることができる。明日からがマラウイの本当の冒険の始まりだ!
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.12 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 13日目】<== 今ここ!
Vol.13 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 14日目】To Be Continued …