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「食べものからの平和」卒業生の食卓から ④

森への回帰

フェニーと賢吾が、アジア学院での研修を終えようとしていた2012年、フェニーの故郷であるインドネシア・北スマトラの熱帯地域でフードフォレストを作ろうという計画は、まだ存在していなかった。

2人は両方ともアジア学院の卒業生(2005年と2012年)で、2012年にフェニーが研究科生をしていた時に知り合った。
日本生まれの賢吾はインドネシアに行ったことがなく、「フードフォレスト」という言葉も2人にとっては馴染みのないものだった。アジア学院で有機農業の基礎を学んだ賢吾は、健全な生態系を維持し、自然を破壊せずに農業を営むという原則を持つパーマカルチャーに特に心を惹かれていた。しかしこの知識を、慣れない土地と気候において実践するのは大きな挑戦だった。2人はアジア学院での研修が終了してまもなく日本で結婚し、その後インドネシアに定住した。そこで彼らは、フードフォレストの概念についてより深く学び始めたのだった。

フェニーと賢吾は、2015年に最初の土地を購入したが、その時点ではフードフォレストは始めていなかった。その代わり、彼らは生計を立てるためにコーヒーを栽培することを計画した。2人はアジア学院で学んだことを生かし、窒素を固定する樹木を植えて土壌を肥沃にした。それから1年後、賢吾は自分のアジア学院後の栽培計画に違和感を覚えた。彼は自分の土地を見渡し、コーヒー豆しかないことに気づいた。たった1つの作物しかないその状況を目の当たりにして、彼は農場を広げなければならないと痛感した。これが、彼らのフードフォレストの話の幕開けである。

自分たちが生きるために始めた個人的なプロジェクトだったが、今では目的の半分が達成され、フェニーと賢吾は50%以上を自給自足している。2人は市場で野菜を買わない。その代わり、森で必要なものを収穫し、残りは売る。さまざまな種類の果物も育てている。グアバ、ジャックフルーツ、アボカド、桑の実などなど。森を育てて10年が経つが、すべてが十分に成長したわけではない。このようなプロジェクトには時間と膨大な忍耐が必要であることを2人は思い起こさせてくれる。
フードフォレストの開発を10年以上続けてきた今、彼らは自分たちの苦労をコミュニティに自慢できるのを誇りに思っている。隣人たちは自分たちで米や野菜を栽培しているが、彼らの畑では自給自足ができない。基本的な食料は市場に買いに行く必要がある。フェニーと賢吾は、自分たちのフードフォレストを案内することで、他者にも自立を促している。
昨年にはアジア学院北米後援会(AFARI)から助成金を受け、北スマトラの50名の地元農民を彼らのフードフォレストに招待し、自分たちの事業を始めるやり方を教えることができた。今では、コミュニティでフードフォレストを育てているのは彼らだけではなくなり、多くの農民が自給自足を目指した、それぞれの旅へと乗り出している。
彼らが他者に与えるアドバイスはシンプルだが力強い。「結果が出るまでには時間がかかるし、最初はあなたを疑う人も出てくるでしょう。でも、希望を捨てないで。」

「食べものからの平和」というテーマの解釈について尋ねると賢吾は、このフレーズに反映されている平和は、地球の資源を大切に思うことから始まり、「自然との平和な関係を持つことによって、私たちは長く続く豊かさのシステムを構築し始めることができる。」と主張した。フェニーも、このテーマは自分にとって個人的なものであると、すかさず自分の意見を付け加えた。自分で育てた野菜や果物を収穫し、それを食卓に並べることで、彼女は人々に栄養を与えることに基づく、思いやりと絆を感じている。そして、「心のうちに平安を見出す」という。



文・マリエル・ランダール(ウェルズリー大学 インターン生)
写真・石田 賢吾(2012年度卒業生)


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【「食べものからの平和」卒業生の食卓から ① — 序章】

【「食べものからの平和」卒業生の食卓から ② 】

【「食べものからの平和」卒業生の食卓から ③ 】

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