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ご存知ですか? 農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー①

イースター / 渡航費キャンペーン 特別連載

皆さんは、アジア学院の学生たちがどのような過程を経て、日本に来るかご存知ですか?
学生の大半は大都市ではなく、インターネット上の地図で検索しても名前が出てこないような辺境の村に住んでいます。

アジア学院の創立当時は、素足で飛行機に乗って来日する学生もいたようです(!)。
現代ではさすがに皆、靴(少なくともサンダル)をはいてきますが、それでも、ビザの申請のために、初めて自国の首都へ行った人、数々の危険をかいくぐって手続きをした人など、彼ら / 彼女らのたどってくる道のりは、私たちの想像をはるかに超えています。

今回はそんな学生たちの大冒険を、4回に分けて追ってみたいと思います。
シリーズ第1弾は、2000年の卒業生、インド・ナガランドのアチボさんです。
近年までアジア学院のスタッフをしていたので、ご存知の方も多いかもしれません。 彼女が生まれ育った山あいの村は、今でも空港のある街から、最短でも車で8時間かかりますが、25年前はもっとハラハラする道のりだったはずです!



【アチボ(2000年卒 インド・ナガランド)の場合】

ザチボル・R・ドゾー(アチボ)の故郷、クツォクノ村は、インド・ナガランド州の南、ペクという山あいの町からさらに登った先にある。そこはインドでありながら、日本人によく似たモンゴロイド系の顔つきのナガ族の人々のコミュニティで、伝統的な焼き畑農業で生計を立て、竹や木でできた家に住み、かまどの火で煮炊きする生活が現在まで続けられている。

こんな地域に住む彼女がどうやってアジア学院を知ったのかと不思議に思うかもしれない。当時、NGOに勤めていた彼女の上司が学院の卒業生で、彼女に研修を勧めたという。親戚の誰からも経済的な援助は受けられないし、しばらく祈る時間がほしいと返答した彼女だったが、上司のシンプルな一言、「主に信頼しなさい」という言葉で応募を決断した。

選考は通ったものの、来日の準備は容易ではなかった。海外渡航費は支援してもらえるが、国内での準備費用は自前で何とかしなればならない。彼女は思い切って、20,000ルピーを借りた。今でいえば、35,000円くらいだが、25年前は大金だった(のちに研修中にもらえる生活費を貯めて返済)。ビザを取るために、1,500 km離れたコルカタにも初めて行った。国内でもそんな有様なのに、初めて行く海外が日本だなんて…それがどんなに、彼女の想像を超えていたかは、インタビュー時に語った「クツォクノ、ペク、ばーん!」という一言に如実に表れていた。

今でも、空港から村まで、未舗装の山道を最低でも8時間走らないといけないのだが、当時は村の中で車を使う人なんて誰もいなかった。最寄りのペクという町まで、徒歩で4時間、それからさらに、公共の乗り合いの車に乗ること10時間、ようやく空港のあるディマプールへと到着する。当時、ディマプール空港からのコルカタ行きの飛行機は一週間に2便しかなく、欠航も多かった。近隣地域からのクラスメイト2人とコルカタで合流、バンコクでさらに乗り継ぎをしてようやく成田に到着した。3人とも右も左もわからぬ状態で、搭乗口は合っているのか、正しい便に乗れるのか、終始気が気でなかったという。こんな人生に一度の大冒険に彼女を駆り立てたものは何か?それはアジア学院のミッションだった。草の根の人々と共に生きる人、それはまさに自分だと感じたからだった。アジア学院の研修は、彼女の期待を裏切らなかった。

アチボは今でも、自分の研修費を出してくれた団体のことを覚えている。宇都宮ロータリークラブのご支援だったそうだ。彼女はアジア学院を支援することの意義について、こう語る。
「単体のプロジェクトに同じ額を投資しても、あまり継続的な支援は望めないでしょう。だけど、ロータリークラブは、私という人間に投資をしてくれました。そして私はこの25年間、生きて人々のために働き続けてきました。」「…全世界が変化を必要としています。それにはすべての人の参画が必要なのです。しかし、皆がリーダーとなり、農村地域に共に住むわけにはいきません。私たち一人一人にそれぞれの仕事や能力が備えられていると思います。100円でも1,000円でも学生1人に投資することは、その背後にいる1,000人を変えることになるのです。100人どころじゃないんです、1,000人ですよ!」

彼女自身も、NGOやアジア学院のスタッフとして働きながら、甥や姪の教育費を捻出し、村の子どもたちやその家族の教育に力を注いできた。「私たちが教えた子どもたちの中には、すでに結婚するような年齢に達した者もおり、その子たちが村や教会の未来のリーダーを担っていきます。だから、自分の活動を後悔したことは一度もありません。」また、村での活動が功を奏して、多くの若い家庭が野菜作りで収入を得て、近隣の町の学校へ子供を送ることが可能になっている。

今年55歳になる彼女のエネルギーが尽きることはない。まだ誰にも言っていないのだけど、とためらいつつも教えてくれたのは、Obentoプロジェクト。そう、日本語のお弁当だ。
長年、アジア学院のキッチンで学生の胃袋を満たしてきた彼女は、栄養と健康に深く関心を持ち、近年、ナガランドでも、がんや糖尿病患者が急増していることを憂いている(世界の食のトレンドが急激に変化する中、ナガランドも例外ではない。農村部でも都市部でも、若い世代の間では、州外からのファストフードが流行している)。そこで、都会の地域でも、家計と家族、近隣の人々の健康を支えることを目的として、日本食を参考にしたヘルシーなお弁当作りを広めることを思いついた。若い人が魅力を感じることをしなくてはならないと話す彼女は、250-300円ほどで、毎日、近所の3人にお弁当を作っているという。お米は村から、キャベツやナス、トマト、イチゴは彼女のベランダや屋上の小さなプランターで育ったものだ。ウサギ2匹に加えて、つい最近、卵のために雌鶏も3匹飼い始めた。「本当に少しの食材があれば良いんです。」

経験を重ねても、つねに自ら率先して行動する彼女の姿は、真の農村リーダーだと思う。その飾らないやり方が、これなら私もできるかも、と多くの人々に勇気を与えることは間違いない。

アジア学院イースター渡航費寄付キャンペーン
ARI Easter Travel Expenses Donation Campaign