アジア学院の創設メンバー
髙見敏弘 氏
創設メンバー髙見敏弘氏が模範として示した「仕える生き方」は、
いまなおアジア学院の指標となっています。
戦争と貧困のさなかで
髙見の青年時代は戦争と困窮に象徴される。九州からの満州移民として、1926年に現在の中華人民共和国東北地区(旧満州)撫順に生まれる。10歳の頃、貧困のため一家で京都府北部に移住。小学校卒業と同時に京都の禅寺に預けられ、修行をしながら旧制中学校に通う。第二次世界大戦の末期に、約3ヶ月間旧海軍電波学校に学び、敗戦とともに舞鶴の家に帰る。数年に渡り行商、塩焚き、港湾労働、日雇労働等を続ける。
アメリカでの神学の学び
1951年、奇縁により米国人宣教師のコック兼手伝いとなった髙見は、キリスト教を学び始め、その年の秋に日本基督教団甲東教会(西宮市)で洗礼を受ける。翌1952年秋、機会に恵まれて米国ネブラスカ州ドーン大学に留学、その後米国コネチカット大学神学院、イェール神学校等で学び、多くの人々の善意に支えられて前後8年間勉学に努め、日本基督教団の牧師となる。
帰国後10年間は農村伝道神学校東南アジア科長として実践神学の教鞭を取る。この職務の中でバングラデシュに赴いたことがきっかけとなり、アジア学院創設に至る。
バングラデシュの人々と共に
バングラデシュで1970年に発生したサイクロンの救援事業に牧師として配属された髙見は、大災害の後を必死に生き延びる人々の姿を目撃する。有能な地域の指導者が不足していることに目を留め、地域の人々に仕える草の根の指導者を育成する研修機関を設立することを決意。1973年、アジア学院創設に向けて歩みを始めた。髙見によればこれは「神の召しへの応答」であった。
アジア学院の創設
学院の研修課程は集約型・小規模の有機農業を中心に据え、農作業を通じて活気あるコミュニティを建て上げることを目指した。学生も職員も皆が日々の作業で土に触れ、交替で皆のための食事を準備する。「食べものを分かち合うことはいのちを分かち合うこと」―これは髙見が遺した言葉のなかでもとりわけよく知られている。学生は意思決定をも分かち合う。意志が強く行動力の高い人々が集団として合意形成することは容易でない。このプロセスによって、学生は貧しいコミュニティの指導者として変革をもたらす能力を磨かれるのだと髙見は考えていた。
豊かな霊的・人間的遺産
1990年に校長としての職務を終えるが、その後長年にわたり講師や理事として学院に奉仕。残りの人生をアジア学院と草の根の指導者の育成のために捧げた。「私にとって、農村こそが最上のレベルなのです。」と髙見は言う。
2018年9月6日に召天(91歳)。豊かな霊的知恵を遺し、世界中の多くの人々のいのちに深い影響を与えた生涯であった。キリスト教と仏教の両方の思想を礎とする髙見の精神はいまなおアジア学院の指標であり続けている。
受賞歴
平和と人間開発の分野で髙見が
成し遂げたことは国内外で評価されています。
1988年
下野県民賞受賞
1994年
第28回吉川英治文化賞受賞
1996年
ラモン・マグサイサイ賞受賞(平和・国際理解部門)
2012年
イェール神学校より卒業生賞
「The William Sloane Coffin Award for Peace and Justice」受賞