2025年 2月5日 水曜日
南インド & ウッタラーカンド州 編
ベンガルールへ
パスポート、よし。ビザ、よし。航空券、よし。インド規格のアダプター、よし。その他必要なもの、よし。
さて、アジア学院の卒業生に会い、彼ら/彼女らから学び、刺激を受け、草の根のリーダーとして人々と肩を並べて働く彼らの姿を見る、次なる旅の準備は整った。わくわくする!
今回の飛行機は南インドのベンガルール行きだ。 私の「ベンガルール」という表記を「バンガロール」に直したくなる人もいるだろうし、それを責めるつもりもない。 でも、実はインドは長い時間をかけて、本来の文化遺産を映し出すべく、都市の名前を変え、英国植民地時代の古臭いエッセンスを払拭しようとしている。 そのため、現在ではベンガルールとなっているが、インド人を含む多くの人々は、あなたをがっかりさせないために、いまだにバンガロールと呼んでいる。
250人弱の卒業生
インド全土には、アジア学院の卒業生が、70年代初期からの卒業生を含め、250人近くいる。 その数は実に多く、アジア学院のスタッフが南インドを訪れるのは久しぶりすぎて、私は訪問の時宜を逸していると感じていた。私の旅程には、ケララ州とカルナータカ州、そしてウッタラーカンド州が含まれていた。ここは南インドではないのだが、ヒマラヤ山脈の向こう側に足を延ばした旅については後述する。 卒業生が多く住むタミル・ナドゥ州にも行きたかったが、限られた時間の中で難しい選択を迫られた。 タミル・ナドゥだけでなく、今回の旅だけではインド全土の卒業生には会えなかったことを理解してほしい。 ただ、いつかまた来なければならないということだ!
雪国から南国へ
皮肉なことに、南国の目的地に向かう朝、日本では雪が舞い、道路は凍結していた。 皆さんはどうか分からないが、私にとって旅で一番心配なのは空港に着くまでであり、ことに冬の嵐は何の手助けにもならない。 ありがたいことに、我々の頼れるバス運転手は、通常2時間の道のりをきっちり2時間で安全に走行した。 荷物を預け、セキュリティチェックを終えた私は、2度、大きく息をついた。1つは飛行機に間に合った安堵感から、もう1つはこれから始まる冒険への期待からだった。
今回もキャセイパシフィック航空だったので、最初の目的地は香港だった。前回この空港を通過したとき、同僚のカイが始めた伝統に従って、私は107番の牛肉麺を注文するためにまっすぐマサト・レストランに向かった。 しかし、途中で私の鼻は、ビーフ&リバティーという焼き肉屋に引き寄せられてしまった! すまない、カイ( カイには内緒にしてほしい、でもこれが美味しかったんだ!) 。最初の飛行機のイワシの缶詰状態とは対照的に、ベンガルール行きの2便目はほとんど空席だった!そして食事は… 実に素晴らしかった。 ラム肉のマサラにスパイシーなチャツネを添えた料理は、亜大陸への味覚の準備にうってつけだった。
勉強代
南インドは初めてだったので、到着時にいくらかの勉強代を払わなければならなかった。両替の手数料を取られたり、タクシーの料金を吊り上げられたり、といったことだ。 私は旅先で騙されるたびに、それを「勉強代」と呼び、その経験から学ぼうと最善を尽くす。 実際、私はタクシーに騙されないように、乗る前に料金を交渉しようとした。 メーター制だと言われたので乗ったが、駐車場から走り出すとメーターは見当たらなかった。やれやれ。
後の経験から、(A)私が取られた料金は高かったが、天文学的なほどではなかった!(B) 観光客は、現地の人の助けを借りるか、あるいはUberを使わなければ、タクシー運転手に正当な料金を請求することはできないのだろう!まあ人生とはそういうものであり、物事の全体像から見れば取るに足らないことなのだが。
その日の宿泊先は、街の中心部にあるイエズス会の伝道施設「インド社会研修所」で、卒業生の1人が手配してくれていた。 到着したのは夜中の2時だったので、タクシーの運転手はクラクションを鳴らして、そっと夜警を起こした。その夜の宿泊者リストに私の名前がなかったせいもあり、大いに動揺した後、ようやくシンプルだが快適な部屋に案内され、枕に顔をうずめることができたのだった。

