
〒329-2703
栃木県那須塩原市
槻沢442-1
アジア学院では、本日8月1日から9月20日まで、「Peace from Foo
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
一行は、新たに東への旅を始めます。次なる目的地はマラウイ!
道すがら目にしたザンビアの人々の日常が生き生きとしていて、胸にせまります。
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 12日目】
ザンビアを縦断する偉大なるイースト・ロード
ザンビアは幅のある国だが、今日の計画はその大きなかたまりを東に縦断し、マラウイ国境まで抜けるというものだった。道すがら、2名の卒業生の活動地を訪ねたいと考えている。2名ともカトリック教会のシスターだ。
我々は、早い時間に出発するべく努力した。特に朝の苦手なカイは。
午前4:00の出発を目指し、4:50に家を出た。私は、数百キロにわたる運転を引き受けてくれたジュディとジョンに、心から感謝している。彼らは、旅行が大好きだから、この旅を楽しんでいると言ってくれたが、正直な話、彼らの助けなしではこんな旅はできなかった。ジョン、ジュディ、ありがとう。本当に良い旅だった。
道中の思い出深い体験といえば、道路の脇で火だるまになったトラック(何が起きたのか皆目見当がつかない)や、ガソリンスタンドで走り回る鶏を見たこと、そして、目の前の道路から昇ってきた燃えるようなアフリカの赤い太陽。
我々は、写真を撮るために、地元の人がムブユツリーと呼ぶ、荘厳な“幸運の木”があるところに立ち寄った。多分バオバブの木だったと思うが、今まで見た他のバオバブとは少し違って見えた。とても古い木だったのかもしれない。東部州に入る橋を渡る手前で、地元の“マサウ”フルーツを買うために停車した。ここは、旅行客に人気の休憩スポットで、たくさんの忙しそうな露店が立ち並んでいた。編んだカゴを売っている店が目に留まったので、そこでも少し買い物をした。
車に戻ると、ジュディがこんな話をしてくれた。彼女はカナカンタパに住んで20年以上になるが、昨日初めてその名前の意味を知ったのだという。この入植地はこの一帯を流れる小さな川にちなんで名づけられたが、昔この川にはワニがいた。カナカンタパは現地語で「赤ちゃんワニ」という意味だ。今では何も棲んでいないが、母親たちが子供たちに、ワニに気を付けなさいと警告していた時代があり、この名前が付いたということだ。
ニンバ教区のシスター・プリシラ
橋を渡ってしばらくして、私たちはニンバの町で幹線道路を降り、ファティマの聖母ローマ・カトリック教会へ向かった。ここで私たちは、良き羊飼いの修道会の修道女であるシスター・プリシラ(2018年アジア学院卒)に会った。彼女が最初に私たちに見せてくれたのは、サル除けのために、屋根と鍵付きのドア、そしてフェンスで完全に囲まれた庭だった。そこにはトマトやその他の野菜がぎっちりと並んでおり、節水のため、これらはすべて袋に植えられていた。信じられないことに、彼女がこの庭を始めたのはほんの5ヶ月ほど前だという。今年の3月頃、彼女は前任地のチパタからここに赴任した。チパタは、彼女がアジア学院に行った時に働いていた場所で、彼女はそこで信徒たちと始めた生計プロジェクトについて語ってくれた。その一つが、女性20名と男性数名からなる園芸グループで、収穫したものは各自で持ち帰り、互いに売り合って、コミュニティ内でお金を循環させた。そのグループは、プリシラがいなくても続いており、これは彼女が優れた指導者であった証だと言えるだろう。
教区のシスターとして、彼女は週6日働いており、休みは月曜日だけで、合間の時間を使って庭の手入れをしている。その他にも、病人を見舞ったり、結婚式やその他の行事の話し合いのために来る信徒の対応をしたり、日曜日のミサの準備のために教区外に出向いたり、日常的な事務仕事をしたりと、様々な責任を担っている。
常駐している3名の神父のうちの1名、タウンゲ神父にだけ会うことができた。プリシラの指導の下、彼も化学肥料を使わない広い農園を営んでいる。肥料は、豚、牛、ヤギの糞を大きな布に包み、ドラム缶に入れた水に1週間浸したもので、その水を植物に与えるのだ。地元品種の黒い鶏と鳩も見た。鳩は平和の象徴としてここにいると聞いたが、いつかは料理用の鍋に入れられて生涯を終えそうだ。堆肥の生産者もどこかにいるはずだが、見かけなかった。教会は、地元の市場でパン屋も開いているという。ああ、それからセメントタオルで作った植木鉢についても触れておかなければ。最高に良いと思ったが、説明の必要もなさそうだから写真を見てほしい!
干ばつはニンバ地域も直撃した。雨が降り始めても、トウモロコシに肥料を施した直後に止んでしまったので、そのままトウモロコシは干上がってしまった。正直なところ、私は飢餓の兆候を見たわけではないのだが、それは村の零細農家の間で起きているのだろう。あるいは、私がどこをどう見ればいいのかわ分かっていないだけかもしれない。ニンバ教会の炊事場は順調に稼働しているようだった。心のこもった昼食が提供され、シスター全員も集まり、共に食卓を囲んだ。
シスターや神父、そしてアジア学院を通して私が出会ったほとんどの聖職者や教会関係者にとって、3~5年ごとに異動することは当然のことなのだ。シスター・プリシラからは、前任地を離れることを悲しむより、新しいことを始める機会に胸をふくらませているような印象を受けた。彼女はチパタで、生き生きとした庭と、それを成長させ続ける生き生きとしたグループを残した。ニンバに到着してすぐ、彼女はまた植えることに忙しくなった。まず庭を作り、続いて新しいグループを作った。私は、彼女の生きた庭と結びついた生きた信仰が、その神への終わりのなき奉仕の中で共に働いていることを感じた。
暴走する牛車
一つ言い忘れたのは、このイースト・ロードは、キトウェに向かうノース・ロードよりもずっと状態が良いということだ。大型トラックによる破壊が(まだ)なく、最近舗装し直されたところもあるので、本当にスピードが出る!
ある村を通り過ぎたとき、ジョンが「そこの村長は服を着るのを嫌がるんだ」と適当なことを言った。数時間でチウォコ変電所(変電所が何を意味するのかはよく分からない)に到着した。ここを目印に、我々はチクング伝道所まで、約30キロの舗装されていない道路に入った。
夕暮れ時に村々を通り抜け、行き交う人々や、草原でサッカーに興じる子供たちのチームを次から次へと目にするのは、なんと素晴らしいことだろう。マンゴーの木は、文字通りどこにでもあった。神のマンゴーとジュディは呼ぶが、それは誰も意図的に植えていないからだ。木々はただ勝手に成長し、マンゴーの季節には誰も飢えずにすむ。マンゴーが熟すと、人々は一日中マンゴーを食べ続け、その甘い果汁に飽きることはない。私も多分、新鮮なマンゴーを2、3ヶ月食べ続けることに何の問題も感じないと思う!欠点は、トウモロコシの収穫前にマンゴーの季節が終わってしまい、飢餓の期間が生じてしまうことだ。「先人たちのようにマンゴーを保存していれば…」という嘆きをよく耳にしたが、なぜ彼らはそうしないのだろうと思った。
ジョンとジュディはこの場所に来るのが初めてだったので、道すがら、自分たちの方向が正しいかどうか、絶えず人々に確認していた。このナビゲーション戦略における不用心な助っ人の1組が、牛車を運転していた2人の少年だった。彼らは二人とも荷車から飛び降り、私たちを助けている間、運転手のいない荷車を走らせ続けた。この状況がどうなるのか興味津々だったのだが、結果的には何の問題もなく、少年たちは道案内をした後、まだ動いている荷車のところまで走って戻り、再び荷車に飛び乗っただけで、牛たちも気にしていないようだった。
チクング伝道所は大きな施設で、私たち全員に専用のゲストルームと湯浴み用の温かいお湯で満たされた大きな容器が用意されていた。長旅のあとのバケツシャワーは(暗闇の中で浴びた。ご存知、お決まりの停電だ!)最高だった。
シャワーは暗闇の中だったが、客室はそうでもなかった。ソーラーの復旧システムが装備されており、数時間後には電気が戻ったのだ。ソーラーパネルは、多くのコミュニティが望むものの一つだ。これがあれば、絶え間ない停電の影響を軽減できる。送電網にさえ接続されていない場所では、携帯電話を充電したり、夜間に明かりをつけたりするための唯一の電力源となる。もし、そういったことがあまり不便そうではないと思うなら、2、3日ブレーカーを落として、どんな生活になるか経験してみるといい!
ここチクング伝道所で、私たちはシスター・エスター(2018年アジア学院卒)に会った。彼女とシスター・プリシラは共に、良き羊飼いの修道会に所属しており、同じ年にアジア学院に来た。もう夜も遅かったので、彼女が私たちのために計画した唯一の夜の予定は、素晴らしいニンジンのクリームスープと、ローストされたものと、揚げたもの、2種類のチキンという温かい食事だった!
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.11 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 12日目】<== 今ここ!
12月14日(土)、無事に第52回卒業式が執り行われ、学生たちが卒業していきました。週明け16日には第1陣のアジア勢、17日には第2陣のアフリカ勢がそれぞれの国へ帰国の途に就きます。
また再び顔を合わせて交わることはかなわないと知りつつ、彼らは別れを惜しみ、互いが用いられていく各々の働きについて励ましあいつつ、世界中のコミュニティに帰っていきます。
卒業生たちの、それぞれの場から自立したコミュニティと土からの平和を実現していく活躍をお覚えください。
参列してくださった皆さまと、今年1年学生たちとアジア学院を覚えて支えてくださった皆さまにお礼申し上げます。
世界中のコミュニティと共に祝う、
あなただけの特別なクリスマスを。
2024年度のアジア学院の学生たちは12月14日(土)に卒業式を迎え、それぞれが夢を胸に、母国へと帰っていきます。皆様のご支援は「希望の種」となり、各国の農村地域に卒業生と共に運ばれ、大勢の人々の希望となります。
クリスマスが近づくこの季節に、皆様の「希望の種」を、アジア学院の熱意溢れる学生たちに託していただけませんか?
頂いた献金はアジア、アフリカなどの国々からアジア学院にやって来る学生の渡航費や授業料、さらに寮費、食費など月々の生活費など奨学金として用いさせていただきます。世界各地の草の根の農村開発指導者として働く人材を育てるアジア学院の働きに、皆さまからのご支援をお願い申し上げます。
個人でも、教会でも、学校でもご献金いただけます。
ご献金はクリスマスキャンペーンページより:ari.ac.jp/christmas-donation
※ 告知チラシをご覧になった方へ:銀行振込口座番号に不備がありました。以下の通りご了承ください。
銀行振込
振込先銀行: 足利銀行 支店名: 西那須野支店 (普通預金)口座番号:011240 末尾に3を加える → 口座番号:0112403
口座名義: 学校法人 アジア学院 理事長 山本俊正
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
日曜日、長旅から帰って来た一行は、つかの間の休日を過ごしました。
とは言え、素晴らしい人々との出会いと停電は休日でも待ったなし!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 11日目】
農村リーダー、シマンバ
予定だと、今日からザンビア東部への長い旅に出るはずだった。だけど、別の旅を終えた直後で日曜日だったこともあり、今日は休むことにした。
驚いたことに、我々は2005年のアジア学院卒業生、シマンバに会う機会を得た。彼の活動地は、ここから1,000㎞ほど離れた西部州のモングーだが、私たちに会うためと、それ以外の理由もあって、はるばるルサカまで車でやってきたのだ。モングーで、彼はアメリカ平和部隊(Peace Corps)と働いているが、最近世界銀行と、別のカシューナッツ農家に関連するプロジェクトを始めた。私はカシューナッツが大好きだが、妻のミキはもっと好きなので、彼がくれた包みは日本へのお土産にした。
シマンバをアジア学院に送り出したのは、ジョンとジュディの団体、エキュメニカル開発基金(EDF)だった。だけど帰国後、彼はここでの仕事を辞める決断をした。経営管理者として雇われていたシマンバに、ジョンたちは大きな期待を寄せていたが、彼には別の計画があったのだ。
彼は政府の漁業局で働き始め、その後は協同組合で働くようになった。同時に高等教育を受け、最終的には修士号と博士号を取得した。2018年には世界銀行で村の貯蓄と融資のプロジェクトを行い、続けてルサカで国連のプロジェクトを担った。そして、前述のアメリカ平和部隊での活動などを経て、現在に至る。
インタビューで彼は、アジア学院での研修経験について、特にリーダーシップや人々との協力関係について、良い話をたくさんしてくれた。彼は権威を重んじる人間だと思っていたので、これには驚いた。アジア学院にいる時、彼は、食器洗いなど、自分にふさわしくないと感じる仕事は避ける人間の一人だった。彼に苛立ちを覚えたクラスメイトが、いつかザンビアの大統領になると予言するほどだった。
私は、彼についての理解が全て間違っていたわけではないが、全て正しかったわけでもないと感じた。アジア学院から19年間を経て、色々な意味で変わったのだろう。「私がアジア学院に行った時は、まだほんの若者だった。」彼は当時の態度を謝罪するかのような口調でこう話した。
私は今までにもシマンバのような卒業生に会ったことがある。権力のある高い地位に就きながらも、アジア学院のサーバント・リーダーシップの要素を心のうちに抱き続けている人々に。我々の期待や、アジア学院の校長レベルには及ばないかもしれないが、それは確かに存在し、彼らの指導スタイルに影響を与えている。アジア学院は、シマンバの心のどこかに深く浸透し、今も彼と共にあるのだと思う!
EDFについても、帰国後の残念な過去はあったが、彼は今回の再訪で「ここが自分のホームだ!」と言ったのだった。
もう一つだけ彼のことを…。当時、西日本研修旅行で学生たちをトヨタの工場見学に連れていっていた。シマンバは村人たちと働く時、よくその経験を引き合いに出すのだという。一つの車は、何百という異なるパーツからできていて、全部が一緒になって協働することで一つの車になる。コミュニティも同じで、お互いの協力なしには一つのコミュニティにはなれない、と。
カナカンタパ改革派教会でのパワフルな説教
ジュディは我々が、帰り際の人々に挨拶だけでもできたらと考え、地元の教会へと連れて行った。というのも、礼拝の開始時間はとうに過ぎていた。我々が到着した時、礼拝はまだ続いており、特別なお客に上等な椅子を用意しなければ、と大騒ぎになった。
牧師はただ淡々と、英語と現地語であるニャンジャ語を巧みに織り交ぜながら、情熱にあふれる説教を続けた。「ニニウェ」と彼が繰り返し叫ぶと、会衆も「ニニウェ」と返す。あなたと共に、という意味だそうだ。「神があなたを通して、何をなされるのか?」「あなたを器として用いられるのはどなただろうか?」
私は、この説教は素晴らしいと思った。第一に、この牧師は人々にどのように語りかけるべきか、よく理解している。話をゆっくりと進め、重要な点は繰り返す。そしてまた話を先に進めるのだ。ある時には、教区の住民なら誰でも使っているツルハシを手に取り、小道具として長いこと握っていた。「このツルハシ」、彼は問うた。「これが仕事をするのか?」「いや、その所有者が仕事をするのであって、神が所有者なのだ。私たちは神の手に握られた道具であり、神がその道具を振るわれる。あなたがたは神の手の中にある器なのだ。『私を道具として使っていただけませんか』と神に尋ねられるほどの謙虚さを持っているだろうか。」
しかしその後、彼は我々全員に、用心しなさい、自分の背後に誰がいるのか注意深く知りなさいと警告した。神があなたを道具として使っているのか、それとも悪魔が使っているのか。もし、道具であるあなたの準備ができていなければ、操られてしまうかもしれない!
私がこの説教を素晴らしいと思った第二の理由は、”私を用いて下さい”というシンプルな祈りにあった。これは私がよく祈る祈り、特に進むべき方角を見失った時の祈りでもある。“私を用いて下さい”というのは、説教全体の中心的テーマだった。
牧師の説教が終わると、我々は教会の皆の前で自己紹介をするように招かれた。そして礼拝は、輝かしい歌と踊りで締めくくられた。
コミュニティの努力により、2年ほど前にこの教会が開かれたのだという。彼らは何とか教会建設のための資金を集めたが、牧師の住居は建設中だという。以前は、チョンウェまで行かなくてはならず、何キロもある長い道のりを歩いて行く人もいた。この新しい教会にはとても良い牧師が就任してくれたが、いつまでこんな片田舎に彼を留めておけるのかは分からない。だから、彼の住居を完成させるために尽力しているそうだ。
カイと私は、写真やビデオの整理、そして旅行記の遅れを取り戻すために、その日の午後の時間を費やした。
シマンバとベルビンも加わり、真っ暗な中で(理由はお分かりだろう)、鶏肉とヤギ肉の夕食をいただいた。ザンビアで暮らすには、停電時の食事の用意の仕方といったことに万能でなければならない。残念ながら、それは木炭を使って料理することを意味し、これは森林破壊につながり、干ばつを引き起こし、水力発電をするための十分な水が確保できなくなった結果、電力不足が引き起こされる。
このような問題は…アフリカだから?いや、すべての人類の文明が該当しているのではないだろうか?
私たちが”発展”すればするほど、どこにいるかにかかわらず、解き明かさなければならない謎が増えていく。
私にとっての大きな疑問は…発展とは前進なのか?それとも前進することもなく、辺りをさまよっているだけなのか?
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.10 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 11日目】<== 今ここ!
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
予定通りにいかないのが旅と言うもの。でもその道のりも、ちょっとした心構えと、楽しい仲間がいれば大丈夫!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 10日目】
KMSCとの朝食
ルサカに戻るのは長旅なので、ジョンとジュディは早朝に出発したいと願っていた。少し車を修理しなければならなかったのだが、夜にそれをやってくれる整備士を見つけたので、朝には車を手に入れられる算段だった。こんなサービス考えられるだろうか?本当にすごい!
こんなにできる限りの努力を尽くしたというのに、我々は午前11時まで出発することができなかった。というのも、どうしてもサンバが、彼と共に働いている団体の人々と我々を引き合わせたいと言ったからだ。
団体は、キー・マネージメント・ソリューションズ・コンサルタンツ(KMSC)という名で、2023年に登録されたばかりだった。高級なホテルでビュッフェ形式の朝食(もちろんコーヒーも!)をいただきながら、カイと私は2人の創業者に話を聞いた。フェリックスという退職した教師と、デイビッドという牧師だ。サンバは、最近この2人と連携して仕事をしているという。と言うのも、2年後に55歳で退職を控えており、将来の計画を立てたいと考えているからだ。KMSCは研修に重点を置いているので、サンバの長い教職歴と経験に合致している。彼らは18-35歳の若者の権利や能力を高めるための、技術研修を行いたいと考えている。具体的にどのような活動がすでに行われているかははっきりと分からなかったが、コンピューターの研修はすでに行われているようだ。計画されている教育内容としては、運転や調理、溶接、機械工、農業がある。彼らの目的は、自分たちで小さなビジネスを始められるような技術を教えることにあり、起業家を生み出したいと考えている。
フェリックスは鉱山労働者についても語った。ザンビアのこの辺りの地域は、銅山地帯と呼ばれ、毎日何トンもの銅が採掘されている。採掘労働は人体に大きな負担がかかるため、鉱夫たちは55歳で定年を迎える(その年齢まで働ければ、の話だが)。退職金としてまとまった金額が支給されるのだが、労働者たちは人生でこれほどの大金を目にしたことがなく、多くは狂ったようになって、湯水のように使い切ってしまう!KMSCは「金融に関する知識を身につける」プログラムを開始し、55歳以降の長期的な「ライフプラン」の作成を支援したいと考えている。この組織が軌道に乗ったら、サンバは、アジア学院の研修に職員を送りたいと願っているようだ。
我慢時計
遅い出発は、遅い到着を意味する。ジュディは、日没までには家に着くと言ったが、我々は到着した時にはもう(私の読み通り)真夜中だった。これには、ぐにゃぐにゃの道も関係しているが、素晴らしい自家製の家庭料理を食べるべく、またもや、フリンギラに立ち寄ったことも関係している!あそこに行くだけのために、またザンビアに戻って来たいとさえ思ってしまう。
私は、通常の予想よりもずっと遅い時間に、自分の「我慢時計」を設定することにしている。こうすることで、旅行中のきつくなりそうな状況に耐えることができる。物事がスムーズに進むと期待してしまうと、そうでなかった時にがっくりしてしまう。物事が予想よりずっと難しく、長くかかることを想定して計画を立てれば、ずっと上手くいくはずだ。こうやって、ジュディが19時頃になると言っていたにもかかわらず、到着を真夜中と予測したことで、多くのフラストレーションが解消された!これが「我慢時計」だ。
ジュディの高見先生(アジア学院の創立者の一人)との思い出
車中にて、ジュディは、また別のアジア学院での話をしてくれた。これは高見先生に関する話だった。
朝の集いの直前、彼女は高見先生のズボンのチャックが開いていることに気が付いた。先生がその日の話者だったので、それを伝えたかったが、直接言うのはあまりに恥ずかしかった。だから、彼女はボンドに、高見先生に伝えるように頼んだ。ボンドはリベリアからの学生だったが、彼女いわく、あまり賢くなかった。
彼は先生のところへ行き、こう言った。「ジュディが私に、先生のチャックが開いていると言いました。」
あ~!
ジュディは大恥をかいた。でもこれで終わりではなかった。
高見先生は、会の始め、開口一番にこう言った。「ジュディ、チャックが開いていると教えてくれてありがとう。」
全員の目の前でだ!皆、大爆笑だった。
気の毒なジュディ。でも彼女は、真に謙遜で、思いやりのある人物だけが、こんな冗談を言うことができるのだと感じたそうだ。
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.9 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 10日目】<== 今ここ!
青山学院初等部3年生の横田成里明さんが、アジア学院の学生アズィさんとのホームステイ交流をテーマに書いた作文で、第74回全国小・中学校作文コンクール(読売新聞社主催)の小学校低学年の部で光村印刷賞を受賞されました。
https://jigyou.yomiuri.co.jp/sakubun/prize/
横田さんの作品は2025年3月に発行する「優秀作品集」に掲載されます。
成里明さんは今年6月、アジア学院の東北インドからの学生アズィさんをホストファミリーとして迎え入れました。作文では「アズィさんは、私がテレビで見たことがあるインドとは全くちがうインドから来たのだ」「お父さんとかりてきたガイドブックは全くやくに立たなかった」といった印象深い言葉で、異文化との出会いやアズィさんの背景への理解が豊かに表現されています。この作文を通して、学生たちが持つ多様な面が広く伝わることを、職員一同とても嬉しく思っています。
横田さんご一家は10月に開催された「収穫感謝の日」にもご来校くださっていました。こうした交わりから、アジア学院と支援者の皆さまとの温かなつながりがさらに深まることを感じました。また、このような絆が、私たちの活動の大きな励みとなっています。
アジア学院の参加者アズィさんはそのニュースに感動し、次のコメントを残しました。
「東京ホームステイ
6月に東京へホームステイに行ったときのことは、日本での最高の出会いのひとつでした。
たった1泊でしたが、ホストファミリーは素晴らしい人たちで、短い時間でも思い出に残る時間を作ることができました。 横田家に出会えて本当に良かったです。
特に次女の成里明ちゃんは、好奇心と聡明さで、私たちが交わした会話やアクティビティーのすべてをとらえ、素晴らしいエッセイにまとめてくれたことを誇りに思います。
成里明ちゃんの作文が読売新聞全国小・中作文コンクール光村印刷賞を受賞したことを祝福するとともに、彼女の文章力が今後さらに大きな目的を達成できるよう、神様の祝福があることを祈ります。
アジア学院と日本基督教団教団婦人会連合の皆さん、このような素晴らしいホームステイを企画していただきありがとうございました。 これからの学生に多くの出会いがあり、アジア学院と日本基督教団教団婦人会連合に祝福がもたらされますように。
アジ・ナガランド
2024年学生」
12月14日(土)には、アズィさんを含む学生たちが卒業を迎え、それぞれの故郷へ帰国します。これからもアジア学院の歩みと、学生たちの未来への挑戦を見守っていただければ幸いです。
西日本研修旅行は続きます!
9日目、美しい思い出を胸に、水俣でのホストファミリーに別れを告げ、広島への長旅を開始しました。渋滞の影響で移動が遅れ、残念ながら梅光学院大学のチャペルアワーには間に合いませんでした。それでも大学ではアジア学院を知る方々が温かく迎えてくださり、アジア学院との関係を深め、今後さらに多くの学生を送りたいと話してくださいました。その後、広島市内でも渋滞に巻き込まれ、夕食に遅れて到着。疲労感のある一日となりましたが、無事に宿泊先に到着しました。
10日目、午前中に広島平和記念資料館を訪れ、伝承者による証言を聞きました。彼女は被爆者の訴える核兵器廃絶への願いを語り、「核兵器は存在する限り使われる可能性がある」という重いメッセージを共有しました。その後、学生たちは資料館を見学し、平和公園で昼食を楽しみました。
午後はアジア学院スタッフの案内で平和記念公園を巡り、爆心地や橋、平和の鐘など主要なスポットを訪れました。それぞれの場所で、アジア学院を代表して学生が祈りを捧げ、犠牲者の魂が安らかに眠れるよう願いました。その後は自由時間を楽しみ、夕食を共にして宿泊先に戻りました。この日をもって、西日本研修旅行の学びの部分は終了。深く考えさせられる充実した締めくくりとなりました。
11日目、アジア学院への帰路が始まり、一日中移動を続け、名古屋で新しい宿泊先に泊まりました。翌朝、最後の旅路に出発し、途中で海を訪れた後、夕方にはアジア学院に到着。これをもって、西日本研修旅行は幕を閉じました。
西日本スタディーツアーは続きます!
7日目、私たちはフェリーでのワクワクする旅を終え、早朝に門司に到着しました。その後、水俣に向かい、長年ARIと交流のあるプログラム主催者と出会いました。
水俣プログラムは、水俣病患者の資料を多く所蔵する民間の水俣病資料館の訪問から始まりました(政府が運営する公的な資料館とは異なります)。この資料館では、水俣病がなぜ発生し、どのように悪化し、地域社会にどのような影響を与えたのかについて、学生が学ぶことができました。
資料館の訪問後、私たちはいくつかの重要な場所を巡りました。最初に訪れたのは、チッソ社が廃棄物を最初に排出した百間排水溝です。その後、現在は日本ニューチッソ(JNC)と呼ばれているチッソ工場を訪れました。また、水俣病の最初の公式認定患者が住んでいた海辺の地域や、先天性水俣病患者の家も訪れました。彼女の物語は、声を上げることのできない水俣病患者全体を代表しています。さらに、現在エコパークとして整備されている埋め立て地では、水俣事件で命を落とした魂に祈りを捧げました。これらの訪問を通じて、当時の人々の苦しみと葛藤、そして現在も複雑な社会関係がこの問題を困難にしていることを実感しました。
夜には、ホストファミリーと対面しました。新鮮な卵やARIからのお菓子を受け取ったホストファミリーはとても喜んでいました。学生たち皆がホストファミリーとの時間を楽しめたことを願っています。
8日目には、水俣プログラムを続け、みかんの有機栽培農家で活動する方を訪問しました。彼は、みかんの栽培方法や品種について説明し、ヘアリーベッチなどの生きたマルチを利用して生態系を支えていることを強調しました。この方法は、共生関係を深く理解した農業の実践を示しています。
次に、元市議会議員が「もやい直し」について話をしてくださいました。これは、分断された地域社会を一つにまとめ、未来を考えるための取り組みです。この活動は1990年代に始まり、水俣市のイメージを環境汚染の町から、環境保護と意識向上の町へと変える上で中心的な役割を果たしました。
昼食を公園で取った後、「希望未来みなまた」を訪問し、3名の先天性水俣病患者の方々の話を聞きました。彼らの強い意志と生きる力は、参加者に深い感銘を与えました。彼らは「ホットハウス」の歴史や、「働く」というシンプルな願いを叶えるための取り組みについて話しました。この団体は、水俣病の影響を受け続けている人々にとって、共に働き、声を上げる場所となることを目指しています。また、紙のエコバッグを作るワークショップも開催しており、プラスチック使用削減の重要性を意識させてくれました。この活動は、県内の小学校でも行われています。
その後、主催者から、からたちの活動と、彼女が父親の仕事を継続する理由について話を伺いました。彼女の父親は若い頃に水俣に移り住み、患者を支援する活動を始めました。現在、彼女は水俣のストーリーを若い世代を含む多くの人々に広めるため、地域コミュニティと密接に協力しています。
1日の終わりには、水俣のコミュニティやホストファミリーとのフェローシップ送別会が開催されました。会場はアフリカをテーマにした装飾が施され、音楽、ダンス、美味しい食事で賑わいました。アジア学院職員のファイヤーダンスは好評で、新たなファンを獲得しました。学生は冒頭と閉会の挨拶を担当し、心のこもったメッセージを共有しました。皆で温かく楽しい時間を過ごすことができ、忘れられない夜となりました。
〒329-2703
栃木県那須塩原市
槻沢442-1