
〒329-2703
栃木県那須塩原市
槻沢442-1
皆さんは、アジア学院の学生たちがどのような過程を経て、日本に来るかご存知ですか?
アジア学院では、キャンペーンの一環として、学生たちのアジア学院までの道のりを追うシリーズを、4回に分けて連載してきました。
今回は、番外編として、3月末に震災が起きたミャンマーの卒業生たちのストーリーをお届けします。ニュースからはなかなか伝わらない、ミャンマーの人々の抱える何重もの苦難と、その中でも懸命に人々に寄り添って生きる卒業生について知っていただけましたら幸いです。
【ミャンマー卒業生たちの場合】
3月28日、ミャンマー第2の都市マンダレー近郊を震源とするマグニチュード7.7の大地震がミャンマーを襲い、死者4,426名、負傷者11,366名以上を出した(4月22日時点、Democratic Voice of Burma調べ)。高層ビルやお寺などの建物が崩壊した痛ましい映像が皆さんの記憶にも新しいと思う。
しかしながら、この国が長年抱えている、もうひとつの問題をご存知の方はどれほどいらっしゃるだろうか。
多民族国家 ミャンマーの歴史
ミャンマーは、昔はビルマと呼ばれており、東南アジア、インドシナ半島の西部に位置する。
国、と言っても、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在しており、それぞれの部族が、それぞれの州、文化を持っており、建国以来、自治権を求める少数民族と国軍との紛争が長く続いてきた。
1962年に最初の軍のクーデターが起きて以来、軍事政権による独裁政治が続いていたミャンマーだったが、2015年に、国民民主連盟(NLD)が選挙で圧勝、アウンサンスー・チー氏がリーダーとなり、民主主義国家が実現した。
だが、2021年2月の国軍によるクーデターで政情は一変、現在に至るまで再び軍事政権下に置かれ、国軍と、彼らに抵抗する市民で組織された武装勢力や少数民族軍との終わりの見えない内戦が続いている。
2021年のクーデター直後は、ヤンゴンなどの大都市でのデモ行為に対する無差別発砲などが目立ったが、現在では、少数民族が勢力を持つ、サガイン管区、マグウェイ管区、チン州などの山間部を中心に、軍事行為が拡大している。
その内容は、国軍に抵抗する、少数民族の村々の焼き討ち、空爆、戦闘における「人間の盾」としての市民の連行、略奪、強姦、地雷や化学兵器、(国際的に禁止されている)クラスター爆弾の使用など多岐にわたる。さらには、言論の統制による、不当な拘束、逮捕、拷問による殺害、強制兵役などで、自国民に対しての仕打ちとは信じがたく、到底許されぬことばかりだ。
卒業生の多い国 ミャンマー
ミャンマーは、アジア学院の中でも多くの卒業生を抱える国の一つでその数は97名に及ぶ。
人懐こく、歌やギターが得意な人の多いミャンマーの学生たちは、英語は少し苦手でも、持ち前のキャラクターで、多様な人々の集まるコミュニティで、潤滑油のような役割を担っている印象がある。
私のクラスメイトにも、ミャンマーの友人が二人おり、いずれも誇り高き山間部の少数民族であった。
卒業を間近に控えた頃、私はそのうちの一人に、空港から故郷までどれくらいかかるのか聞いてみたことがある。その答えは「二日間」。
私はその場で絶句し、今後生きているうちに彼に会うことはあるまいと思った(のちに、この答えは、アジア学院の卒業生では全く珍しくないことを知る)。
稀有な運命
ところが、そのクラスメイトに会う機会は意外と早く巡ってきた。2020年1月、私は教会の友人に紹介された、医療奉仕を行う韓国人のご夫妻の活動に加わるために、ミャンマーの主要都市、ヤンゴンに降り立った。
数日間の活動の後、国内線の飛行機に乗り、西部の山岳地帯に向かった。空港には、前の年に卒業したばかりの、私のクラスメイトと同郷の卒業生が迎えに来てくれていた。飛行機を利用したので、二日はかからなかったが、それでも最寄りの空港から、彼らの住む町に行くのは一日仕事だった。
彼らの故郷はヤンゴンに比べて冷涼で、国内三番目に高い山を有する国立公園がある、美しく静かな場所だった。友人は、離れた場所で仕事をしていて、私の滞在中にこの町に戻ってくる予定だったが、ちょうど所属団体の支援者が外国から来ていて、案内をしなければならず、残念だけど会うのは難しいという連絡が来た。自由に動けるのはあと一日、という日、私は意を決し、案内をしてくれていた卒業生に、どうしてもそのクラスメイトに会いたいと話した。すると彼は二つ返事で引き受け、私をバイクの後ろに乗せ、往復10時間かけて友人の事務所に連れて行ってくれたのだ。
早朝6時前に出た我々は、途中何度か給油しながら、ひたすらに先を急いだ。朝ご飯を食べるために立ち寄った町で、ようやくバイクを降りると、寒さとバイクの振動で、太ももがしびれていた。二人とも無言で、出された白湯をすすったのを覚えている。その後、厚手の服を売る店を見かけるたび、止まって購入しようかと何度も考えたが、だんだんと日が高くなるにつれて暖かくなった。
目的地に着いた時には、もう昼頃だった。友人に職場の同僚を紹介してもらい、三人で近くのレストランに食事に行った。「ここから10分くらいで、少し遠いけど…」と説明する彼に、私を連れて来てくれた卒業生が、「5時間かけて来た我々に何を言ってるんだ。」と冗談を言って二人で笑った。私たちを先導し、ヘルメットを片手にバイクでのんびり走る友人を見て、アジア学院の時から変わらない彼の様子に、胸が温かくなった。
この弾丸旅行で無理がたたったのか、私は翌日からしばらく腹痛と下痢に悩まされたが、一生会えないと思っていたクラスメイトに会えた喜びは、何事にも代えられなかった。新型ウイルスが世界的に猛威を振るい始める直前で、今思えば奇跡と言うしかない。
突然のクーデター
2021年2月、ミャンマー国軍によるクーデターが起き、ミャンマーの人々の生活は大きく変わった。
友人たちのSNSには、即座に三本指で国軍に抗議を表す写真や、デモの動画が挙げられたが、弾圧の激化とネットワークの遮断により、全く連絡が取れなくなる期間があり、彼らの安否に気をもんだ。その後、再び連絡が取れるようになると、友人たちから多くの写真や記事が送られてきた。燃やされた国立公園の木々、自宅で殺された罪のない市民と、恐怖におびえるその子供、軍に荒らされた教会等々、私が訪れた平和な時からは想像もできない、変わり果てた町の様子に大きな衝撃を受けた。国軍と、民間で組織された防衛軍の衝突が激化し、戦争地帯となってしまった町からは、ほとんどの人が逃げ出し、州境の修道院や、ジャングルに近い場所でテントを張るなどして、難民生活を強いられていた。国連関係者すら容易に立ち入ることができず、私の友人のような地元の有志が、食料などを自ら背負い、必要な人々に届けていたのだ。国軍は、そのような動きを快く思っておらず、見つかれば逮捕される危険もあり、その人道支援は命がけだった。
アジア学院にもミャンマーの卒業生を憂いた人々からの寄付が寄せられた。卒業生アウトリーチのスタッフ、スティーブン・カッティングが語った言葉は、私の心に深く刻まれた。
「卒業生たちは、コミュニティのリーダーであり、コミュニティの人々が苦しめば、彼ら/彼女らも共に苦しみ、逃げる時も共に逃げる。しかし、どこにいても卒業生たちはリーダーであり続け、人々にできる限りの支援を行う。」
この時ほど、農村地域で生まれ育った人を育成し、故郷で働くことを後押しするアジア学院の力を感じたことはなかった。
世界各国で、多くの戦争が起き、ミャンマーが人々の記憶から薄れ、人道支援団体に対しても平気で弾圧するミャンマー国軍の姿勢に、国際的な支援団体は次々と撤退していった。けれども、私のクラスメイトは数人の地元ボランティアと連携しながら、今に至るまで、同郷の避難民たちを支援し続けている。
震災後のミャンマー
ミャンマーで大きな地震が起きたと聞いた時、私が真っ先に考えたのは、内戦への影響だった。これを機に停戦、そして、国際社会が再び目を向けることで、事態の収束に踏み出せないのだろうかと思った。
しかし、4月1日、ミャンマー軍総司令官のミン・アウン・フライン将軍は、地震による壊滅的な被害にもかかわらず、国軍は国中で抵抗勢力と戦い続けると宣言。今こそ、領地を奪還する好機と捉え、空爆を続けている。
友人に言わせれば、彼らは被災者のことなど、まったく気にかけていないという。
自分の好むことを行うのではなく、与えられた仕事を喜んで行う人生
このような状況下でも、私のクラスメイトは、なおも他者を助けることを諦めない。それは、彼の育ってきた環境や、その中で培われてきた社会認識に大きく起因していた。
彼は他者を助けることは自分を助けることだと強く信じているという。文化的に、他者を助けることは「子供のために恵みを蓄える」ことだと認識されており、人の役に立っていれば、(たとえ自分が亡くなったとしても)将来、他者が子供たちを助けてくれるということだ。彼の曽祖父はよく彼に「たとえ敵であっても、困っている人を助けることを怠ってはならない。最後には愛が勝つのだ。」と言っていたそうだ。
聖書のマルコによる福音書10章に、誰が天上に上げられたイエスの右に座すのかということで、弟子たちがもめる場面がある。そのような弟子たちに、イエスはこう語った。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
彼のアジア学院での最大の学びは「サーバント・リーダーシップ」だった。この聖書箇所は、クリスチャンである彼に、いつも「偉大さはどのように作られるべきか」を思い出させる。それは全て、愛、気遣い、思いやりに基づく自己犠牲の上に成り立つものだ。
また、彼は「行動した上で、言葉を発する」アジア学院の姿勢を好ましく思っていた。
「例えば、まず持続可能な方法での農業を実践し、持続可能な農業について語るといったことです。アジア学院は、自分たちの土地で農産物を生産した上で、食料自給率について語っていました。すべての言葉が行動と共にありました。」
友人は、“人々が言葉よりも行動を信じる”農村コミュニティを率いる上で、サーバント・リーダーシップは、憎しみや敵意の境界線を打ち破る効果的なツールだと考えており、再び日常が戻ったら、持続可能な自給自足のコミュニティ・モデルを自分の地域に作りたいという夢を持ち続けている。
自分が困難な状況にありながら、なお人は他者を助けることができるという彼の姿勢に、私は大いに勇気づけられている。
文:阿部 真希子(募金・国内事業補佐 / コミュニティナース)
英文校正:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ)
シリーズ記事はこちら
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】①
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】②
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】③
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】④
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】⑤ ←今ここ
日曜日の朝、アジア学院のコミュニティは早起きして、イースターの朝日を迎えるために集まりました。これは、キリストが夜明けに復活したという聖書の記述に由来する伝統です。田畑に朝の光が差し込む中、私たちは歌い、祈り、静かに思いを深めながら、新しい命の喜びと希望を共に分かち合いました。
その後はお菓子を囲んで、温かい交わりのひとときを過ごしました。イースターの意味である「命の勝利」「絶望から希望へ」「愛と仕え合いの中で共に生きる力」をあらためて感じる一日となりました。
この「分かち合いの季節」の中で、多くの方からご支援いただいている「イースター交通費支援キャンペーン」にも心より感謝いたします。これまでに322,000円が集まりました。本当にありがとうございます。このキャンペーンは来週水曜日(4月30日)夜8時まで実施中です。ご協力いただける方は、ぜひこちらからご寄付ください : https://ari.ac.jp/donate/easter2025
先週の火曜日、アジア学院のコミュニティは近くの公園でお花見を楽しみました。満開の桜と春の訪れを感じながら、穏やかで心温まる午後を共に過ごしました。
芝生の上に昼食を広げ、自然の中でのんびりとした時間を楽しみました。その後はサッカーをしたり、コミュニティづくりのゲームで遊んだりと、笑い声が公園中に響き渡りました。日々の生活から少し離れ、仲間とのつながりや季節の移ろいを感じる、素敵なひとときとなりました。
アジア学院では、人とのつながりと自然との関係を大切にし、それが持続可能な暮らしの土台だと信じています。このようなシンプルなひとときが、私たちにとってかけがえのない経験となります。
サポーターの皆さんも今年のこのコミュニティメンバーをお覚えください。
本日、アジア学院では第53回入学式が行われ、今年度の農村指導者養成プログラムの正式なスタートを迎えました。
この式典には、参加者、スタッフ、ボランティア、研究科生、そして多くの来賓の方々が集まり、新たな始まりを祝うとともに、2025年度のコミュニティを温かく迎え入れました。
式のハイライトは、学生たちによる日本語での自己紹介でした。さまざまな国と背景を持つ彼らが、9か月間のプログラムに参加するためにアジア学院に集い、その存在がコミュニティに新しいエネルギーと多様性をもたらしています。
さらに、アジア学院の新しい校長として荒川治の就任式も行われました。荒川は、奉仕によるリーダーシップ、持続可能な農業、そしてコミュニティづくりというアジア学院の理念に強くコミットし、新たなリーダーとしての歩みを始めます。新校長としてのご活躍を心よりお祈り申し上げます。
礼拝では、祈り、聖書朗読、賛美歌、祝祷を通して、心を整えるひとときが持たれました。校長からのメッセージに続き、学生からの心のこもった応答もありました。
式典の後は、お茶とお菓子を囲んだティー・レセプションが催され、来賓の皆さまとともに会話を楽しみ、つながりを深め、アジア学院が53年目の学びと成長の歩みを共に始める温かな時間となりました。
皆さんは、アジア学院の学生たちがどのような過程を経て、日本に来るかご存知ですか?
アジア学院では現在、キャンペーンの一環として、学生たちのアジア学院までの道のりを追うシリーズを、4回に分けて連載しています。
シリーズのラストは、アジア学院で学生募集を担当する、スタッフの篠田 快さんです。
アジア学院に至るまでの学生たちの道のりも大冒険ですが、選考から航空券の手配までを支えるアジア学院側のプロセスも、汗と涙にまみれていました。
【カイ(アジア学院 学生募集担当スタッフ)の場合】
2020年に大学を一年間休学して、アジア学院のボランティアを経験した篠田 快(カイ)が、当時の学生選考スタッフから直々にオファーを受け、就職したのは2022年のことだ。
学生の選考期間には、午前中はマヤ族、お昼ご飯を食べたらマサイ族、夕飯前にナガ族というように、多種多様な応募者とオンライン面接を行う。こうして彼ら / 彼女らの相対する課題を、当事者としてどう解決したいのかが聞けるなど、日々学びに富んだこの仕事が好きだという。
入職から4度の選考に携わってきた彼だが、印象深かった学生の渡航エピソードを聞くと、よくもまあそんな数年のうちに、と思うようなすごい話がどんどん出てきた。
例えば、昨年のマラウイからの学生が遅れて来日した理由は、政府が「サイバーハック」されたから。ちょうど政権交代したばかりで、与党に不満を持った野党の仕業で、重要なデータを消すと脅し、金を要求したという。何とか新政府は金を払わずに解決したが、ようやく発行されたパスポートの生年月日が間違っていて、さらなる足止めを食らうことになった。
別の例は、南米・グアテマラからの来日だ。ポピュラーなルートはアメリカ経由だが、渡航直前になり、不法滞在者が多い開発途上国の者は、経由ビザの発行が難しく、半年かかると聞いて断念。メキシコからの直行便はロシアの領空を飛行するため欠航しており断念(ウクライナとの戦争の影響)。結局、メキシコから東欧を経由し、アジアに入る便を選んだという。
今年、カイを悩ませていたのは、コンゴ民主共和国出身の新入生のビザ申請手続きだった。約30年にわたって紛争が続いてきたコンゴでは、昨月から反政府武装勢力「M23」が攻勢を強め、さらに紛争が激化している。そのため、書類の申請をしようにも危険すぎて、国内を移動できないという。そんな彼がカイに提示したのは、一度、飛行機でウガンダに行き、エチオピアを経由して、そこからコンゴの首都に降り立つ方法だった(3月27日、無事に来日を果たした!)。
このように、しばしば起きる、我々の想像を超える困難を一つ一つ受け止め、最善の道を探すのが学生選考課のスタッフの仕事であり、それをすべて乗り越えて、ついに空港で、顔と顔を合わせる瞬間は何物にも代えがたいだろう。
こうまでして、農村地域で働くコミュニティリーダーたちをアジア学院に招く意義について、カイはこう語る。
「当然のことで、わざわざ明言する必要もないと思う方もいるかもしれません。でも、社会問題の解決に向けた最も大事なステップは、そもそもそれが問題だと気が付くことだと思います。さらに注意すべき点は、生涯を問題だらけの中で過ごすと、それらに気が付きにくくなることです。
…私たちは、学生のことを、スタッフやボランティアも含め、互いに教え合う者という意味を込めて、『パティシパント(参加者)』と呼びます。アジア学院では互いに似た境遇の者、まったく違う背景の者たちと学び、教え合うことで、改めて問題に気づかされます。その上で、次の一手を共に考える場所です。私は、そんな卒業生たちが帰国した先に待つ変化に、いつも期待を膨らませています。」
大変な仕事にも前向きに取り組めるのは、その先に見える未来を信じているからだろう。
まだ見ぬ、世界の農村に生きるリーダーたちとの出会いを求めて、カイの挑戦はこれからも続く。
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【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】①
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】②
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】③
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】④ ←今ここ
先週、アジア学院のコミュニティはジャガイモの植え付けを行いました!季節の大切な作業です。これは、新しく到着した学生にとって特別な活動でした。
なぜなら、彼らにとってアジア学院の畑で行う初めての作業だったからです。皆で協力しながら土を耕し、7月の豊かな収穫を目指して種芋を植えました。
冷たい風が吹く中も、学生たちは熱意をもって作業に取り組みました。アジア学院の職員の指導のもと、エネルギッシュに作業を進め、協力しながら進めることができました。皆で力を合わせることで喜びが生まれ、初めての農作業はとても思い出深いものとなりました。
しかし、この日は作業だけで終わったわけではなく、午後は楽しく交流できるゲームを通じてコミュニティづくりの時間を持ちました。
これらの活動は、学生、職員、ボランティアがお互いをより深く知る貴重な機会となり、アジア学院コミュニティメンバーの絆を強めました。笑い声が響き、親しみを感じるゲームや楽しい時間の共有が、この日をさらに特別なものにしました。
また、美味しい昼食の時間も、皆が一緒に食卓を囲み、働いた後の達成感を分かち合う素晴らしいひとときとなりました。
意義ある作業、活気あふれるゲーム、そして美味しい食事が調和し、これからの数カ月を前向きなものにする素敵な雰囲気を作り出しました。
畑で育つジャガイモと同じように、この日を通じて育まれた関係もまた深まっていくことでしょう。アジア学院のコミュニティ精神と協力の姿勢は、作物の収穫だけでなく、友情や共有された経験の豊かな実りへとつながっていきます。
皆さんは、アジア学院の学生たちがどのような過程を経て、日本に来るかご存知ですか?
アジア学院では現在、キャンペーンの一環として、学生たちのアジア学院までの道のりを追うシリーズを、4回に分けて連載しています。
シリーズ第3弾は、2023年の卒業生、ピエールとその送り出し団体、ハイチの会の岡 智子さんです。
アジア学院の研修生は、全員が所属団体を通して応募をする決まりがあり、卒業後も同じ団体で働きます。そのため、実際に来日して研修に参加する学生だけでなく、送り出し団体もまた、多く努力と支えの末に、所属するスタッフを送り出しているのです。
普段なかなか知ることのない、学生たちと共に働く、送り出し団体の方々の思いも、ぜひ知ってください。
【ピエール(2023年卒 ハイチ)と岡 智子さんの場合】
ハイチ共和国という国をご存知だろうか?
ハイチは、カリブ海に浮かぶ、イスパニョーラ島西部を占める共和制国家である(ちなみに島の東部はドミニカ共和国)。コロンブスが美しいと絶賛したこの島は、今も美しいビーチが広がり、カリブ海のクルーズ船が立ち寄る人気スポットもあるが、ハイチの会の事務局長、岡 智子さんによると、この国には2つの顔があるという。
歴史に紐づいた、ハイチの抱える諸問題
「ハイチ」という国の名称は島の先住民の言葉で「山々の国」という美しい意味をもつが、50万人いた先住民は、スペイン人の侵略で銀採掘に酷使されて全滅した。その後、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが、長きにわたる労苦の末、1804年にナポレオン軍を打ち破り、フランスからの独立を勝ち取った歴史を持つ。世界史上初の黒人共和国の誕生だ。しかし、フランスは独立と引き換えに、ハイチに1億5千万フランもの賠償金を要求し、ハイチは1922年完済という長期にわたる借金返済で財政破綻した。さらに独立後も強国からの干渉は続き、アメリカによる占領、クーデター、そして今も続く政権争いでハイチ国民の生活は疲弊している。
かつては美しかった山々は、スペイン、フランスの植民地支配の下、コーヒーやサトウキビのプランテーションを作るために、大規模な森林伐採が行われ、18世紀には森林が元々の1.5%ほどに、そして現在、残存する森林はわずか1%にも満たないという。このことによって土地が荒廃し、畑は雨のたびに表土が流され作物も育たなくなった。また地理的にハリケーンの通り道であり、自然災害も後を絶たない。
当然、これらのことは市民の生活に大きな影響を与えている。会のウェブサイトに書かれた以下の文章に、私は並々ならぬ衝撃を受けた。
“…例えば、日曜日に「さあ何か食べよう」と思って家の中を見渡し、コーヒーを飲みます。1日に口にするのはそれだけ。そしてみんなで会話するのです。「そういえば、肉を最後に食べたのはいつだったっけ?」と。”
「農業で今日のいのちを守り、教育で明日のハイチを育てる」
ハイチの会は、ハイチ共和国の貧しい子どもたちへの識字教育、生活指導、地域の人々の生活向上を目的として、1986年に中野瑛子さんによって創立された。元々は、当地に派遣された、中野さんの幼稚園の恩師、本郷シスターの活動支援が目的だったそうだ。
アジア学院に初めての学生を派遣したのは、2001年のこと。本郷シスターの「ハイチ人が自立して農業で食べていかれるように、リーダーに成れる人を推薦するので研修できる場所を日本国内で探してください。」という求めを受け、キリスト教関係の方がハイチには適していると思い、中野さんがアジア学院に決めたという。
エグジルという、そのスタッフは大変優秀で、卒後、活動地に戻り、KFP(Kominote Familyal Peyizan / 住民家族共同体)を創立。約100-200世帯 を対象に、食べること(農業と給食)と学ぶこと(小学校の運営)を主軸に活動している。その後継者として2023年に派遣されたのが、ルイ・テア・ピエールだった。真面目でコツコツと働き、向学心のある彼は、現地のスタッフのお墨付きだったという。
当時、治安の悪化でハイチの日本大使館は閉鎖しており、ピエールはビザ申請のために隣国のドミニカ共和国に行かなければならなかった。ドミニカ共和国には、以前、研修で行ったことがあったが、当時空港は閉鎖しており、国境を通過するには、首都から出ているバスに乗るしか方法がなく、交通費も普段よりも値上げしていた。ギャングが横行し、無法地帯となっている首都に行くのは、大変勇気のいることだった。大きなスーツケースを持って移動をしていると金持ちだと思われて危険な目に遭うので、岡さんたちは、できるだけ小さなカバンで来日するようにピエールに話した。実際、日本に向かう時、彼は今までの人生で手にしたことのないような大金を携えていた。
大冒険はまだ続く。不法滞在者が多い開発途上国の者は、アメリカ合衆国の経由ビザを取ることが難しく、ドミニカ共和国からメキシコ経由で、日本に渡る必要があった。
今でこそ、流暢な英語を話すが、母語はフランス語系のため、英語が話せなかったというピエール。ハイチの会のスタッフ一同、彼が日本に入国するまで気が気ではなかったという。メキシコでの乗り換えの折、ロストバゲージで荷物が取り残されてしまったが、とにかく本人は無事に日本の地に降り立つことができた (荷物の中身はエグジルが用意したお土産で、ひまし油が数本入っていた…)。
ハイチの人は、日曜日に教会に行く時、最も上等な服を着る文化を持つが、ピエールも来日の道すがら、送り出し団体からの準備金で服やカバンを新調した。このエピソードからも、日本に行くことが、彼の人生において、どれだけ特別で一大イベントだったか伺える。現に彼は、今でも来日した日や入学式の日付を正確に覚えている。
アジア学院での自己変容
ずっとアジア学院の卒業生と仕事をしてきたが、アジア学院に到着したとき、ピエールは、これから何が起こるか全く予測ができていなかった。まず彼が直面したのは、言葉の壁、そして、異なる文化背景を持った人々との生活だった。
「文化も背景も食べ物も…全てが違う人たちと、一体どうやったら折り合えるのかと思ったね。これは本当に難しかった。」
彼は、人々の予期せぬ態度に対して、いつも苛立っていたと言う。しかし、当時校長だった荒川朋子さんの、ある授業をきっかけに、自分自身を振り返り、クラスメイトやボランティア、ビジターたちに、自分から手を差し伸べ、手助けをするようになったという。この経験は、今も仕事をする上で、大いに役立っているようだ。
未来への種まき
国に帰って1年4カ月ほど経ち、今、彼は学院での学びを生かした、2つの活動を考えていると話してくれた。1つは、マヨネーズ作りや石鹸作りといった、人々が収入を得るための技術を教えること。そして、もう1つは地元の農家や中学生を対象とした有機農業の研修や、森林保護を目的とした環境教育だ。学院で学んだ技術を、コミュニティで実践し、目に見える成果を出すことは一朝一夕でできることではなく、資金の問題もある。恐らく、ここ数年が一番の踏ん張りどころだろう。
また、日本のスタッフも大きな課題に直面している。2021年にモイーズ大統領が暗殺されて以来、大統領が不在のままのハイチ。代わりに国政の舵をとった首相に対する国民の不満が爆発し、多くの地域がギャング集団たちの支配下に置かれ、首都の治安状況も著しく悪化した。日本の外務省は日本人に対する退避勧告を発令し、以来、ハイチの会の日本人スタッフが活動地を訪ねることも出来ないでいる。このような制限がある中でも、会の活動は途絶えることなく、現地と日本のスタッフの深い信頼関係のもとに存続している。
今回インタビューをさせていただいた、ハイチの会の事務局長 岡 智子さんは、4人の子供を抱え、昼間は教員として働き、午前2時からの時間を会の活動に充てているそうだ。その時間が現地と最も連絡が取りやすいのだと話されるが、そのような情熱を持ってハイチの人々を支援されている理由を聞いてみた。
「私は食べ物や教育を受けるチャンスに恵まれてきました。このありがたさをそうでない人たちのために役立てたいという気持ちが基になっています。そしてかつてハイチで滞在していた時、ハイチの人が食事1皿を数人で回してみんなで分けていただいていたり、日が暮れて周りが暗くなると国連軍の外灯に若者が集まって必死に本を読んでいたりした姿を見ました。ハイチという国と縁があって出会い、一緒に生きていく仲間だと感じているからです。」
追記:コミュニティの近況
4月4日、岡さんから一通のメールを受け取った。
ここ1週間ほどの間に、首都で暴れまわっていたギャング集団がピエールたちのコミュニティから40-50km離れた隣町にまで勢力を拡大させ、多くの住民が家を捨てて、避難してきているそうだ。ピエールやエグジルは、「KFPは貧しい人を助ける団体だから避難者たちを見過ごすことはできない。」と日本のスタッフにサポートを要請。連日、話し合いを重ね、救済準備を進めているところだという。
岡さんの言葉が印象的だった。「ピエールもKFPも日々の生活が懸命な状態なのに、自分よりもっと深刻な状況の人たちを助けようとしています。」
どうぞ心にとめて、祈ってほしい。
彼らが額に汗して蒔く種が、ハイチの地で豊かに実を結び、多くの新たな農村コミュニティリーダーたちが誕生する未来を願うばかりだ。
ハイチの会についてもっと知りたい方、彼らの活動への支援はこちら
ウェブサイト:https://haitinokai.wixsite.com/-site
シリーズ記事はこちら
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】①
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】②
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】③ ← 今ここ
本日4月1日、アジア学院の2025年度プログラムがスタートしました。キャンパスには再び活気が戻り、新しい学生たちを迎えています。
今年の学生たちは海外から26名、日本から2名の学生たち、そして研究科生2名です。これからの9ヶ月間、彼らは共に生活し、持続可能な農業、奉仕のリーダーシップ、コミュニティづくりなどを学んでいきます。春の訪れとともに畑の準備も整い、アジア学院のすべての人にとって新たな成長の旅が始まります。今年は、アジア学院にとって大きな節目の年でもあります。10年間にわたり校長を務めた荒川朋子が、その役目を次の校長に譲ることになりました。荒川朋子は今後、アジア学院の広報活動や関係構築に力を注いでいきます。長年にわたる彼女のリーダーシップと献身に心から感謝します。
そして、新しい校長として荒川治がその役割を引き継ぎます。長年アジア学院に農場職員として関わってきた彼がリードするこれからのアジア学院がどう変容していくのか、心待ちにしてください。
新年度の始まりにあたり、現在実施中の「イースタートラベル費用支援キャンペーン」についてもお知らせします。海外からの学生にとって、日本への渡航費は大きな負担となることがあります。
このキャンペーンは、そうした費用を支えるアジア学院の状況を理解いただき、困難がありつつも農村コミュニティリーダーとしてアジア学院で学ぶ学生たちをサポートするものです。
キャンペーンは4月末まで続きますので、皆様の温かいご支援をよろしくお願いいたします。
新しい学びの始まり、新しいリーダーシップ、そして広がり続けるグローバルな仲間たち。今年もアジア学院は、皆さんとともに歩んでいきます!
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