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アジア学院の卒業生、帰国前に最終発表を実施
2024/12/19
2024年度のアジア学院(ARI)研修修了を迎えた学生たちが、最終発表を行いました。
9か月間の学びと経験を経て、それぞれの国でどのようにこの経験を活かしていくかを共有する貴重な機会です。
発表では、卒業生たちが未来へのビジョンを語りました。短期的・長期的な計画には、研修センターの設立、有機農業の導入、さらには有機農薬や無化学肥料の普及が含まれていました。地域社会に積極的に貢献しようとする姿勢が、発表内容から明確に伝わってきました。
これらの発表は、目標を示すだけでなく、ARIでの研修を通じて得た知識と技術の成果を示すものでした。コミュニティをより持続可能で自立したものに変えていくという決意が、多くの場面で感じられました。
そして、本日すべての卒業生が無事に母国へと帰国したことをお知らせします。ARIでの時間は一区切りとなりましたが、これからがリーダーとしての新たな旅の始まりです。卒業生たちの今後の活躍を心より期待しています。
農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 12
2024/12/19
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
ちょうど旅の折り返し地点となったこの日、いよいよ二人は、隣国マラウイに足を踏み入れます!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 13日目】
チクング伝道所のシスター・エスター
今日はマラウイへの国境を越える日だ。カイは陸路で国境を越えたことがないので、とても楽しみにしているようだ。確かに日本からは難しいだろう。
しかし、その前に、シスター・エスターと過ごし、チクング伝道所についてより詳しく知る機会を得た。ジュディが、地方にあるカトリックの伝道施設がいかに優れているかについて話してくれた。彼らは広大な土地を手に入れ、病院や学校、そしてもちろん教会を建てることから始めるという。私がアフリカで訪問した数少ないカトリックの伝道施設を思い返しても、彼女の見立ては正しいと思う。
あいにく、カイは朝起きてから、喉の痛みと発熱があったが、朝食のテーブルには、その症状を緩和するのに最適なもの、蜂蜜、生姜、柑橘類のジャム、紅茶、そして湯気の立つ温かいキノコスープが用意されていた。朝食の話題は干ばつに移り、エスターは、今のところこの地域には大きな影響はないが、「2ヵ月後にはみんな泣いているでしょう」と言った。ジュディは、彼女の住むカナカンタパでは、ミエリー・ミール(とうもろこし粉)を買うために夜中の1時から行列ができていることを話した。もし今シーズンに雨が降らなかったら、海外からの援助が必要になるけれど、「その援助は決して人々に届かない」。責任者たちは、まず自分たちの家族や部族、政党に所属する人々(部族全体がひとつの政党に所属していることが多い)に分配するのだ。しかし、EDFのあるチョンウェでは、非常に強い首長がいて、「彼女は自分の人々が苦しむのを望まない」ので、配給はしっかりと迅速、かつ公平に行われている。女性が首長になるのが一般的だとは知らなかったが、世襲制なので、息子がいなければ娘になる。このチョンウェの首長は、政治家たちを一人ずつ呼び寄せて面会させるなど、かなりの権力を持っているようだ!
エスターと神父の一人が、私たちを連れて敷地内を案内してくれた。チクング伝道所は1985年に設立され、2つのセンターがある。その一つが、カテキスタ(司祭の助手のような役割)養成センターだ。一番最近の研修生は1ヶ月前に2年間のプログラムを終了し、伝道所では現在、次の研修生の面接を行っている。男女合わせて一度に20名のカテキスタが養成される。女性の研修生を受け入れる際には、その夫は、この研修が女性のためのものであることを理解し、それをサポートする役割を担うという同意書に署名しなければならない。研修生は家族と共に来て、家族用の住居と、彼らが自分たちのために耕作できる土地が提供される。研修に参加しない配偶者は町で仕事を見つけることもできるが、提供された土地で働くことを選ぶことが多い。研修生には、必要に応じて農作業をするための休暇も与えられる。彼らはトウモロコシ、落花生、ヒマワリ、大豆を栽培し、エスターは彼らに農業のアドバイスをしている。子どもたちは近くの小中学校に通っている。
もう一つの主要な施設が、パストラルケア・センターで、会議やミーティング、企画会議などに使用され、教会堂や事務所、教室を有している。エスターはミッションの庭園を熱心に見せてくれた。エスターが自発的に取り組んでいるプログラムなのか、団体のプロジェクトなのかは分からなかったが、いずれにせよ彼女は、持続可能な農業がここでの生活で、いかに不可欠であるかを私たちに知ってほしかったのだと思う。
ジョンが残した別の足跡
私たちは朝のうちに出発し、チパタに向かって埃っぽい道を下っていった。川(今は乾いている)を迂回するような箇所もあり、もしこれが雨季だったら、通行できない道があって、ずいぶんと様子も違ったかもしれない。キャッサバ畑を通り過ぎたとき、ジュディはキャッサバがいかに乾燥に強いか説明してくれた。キャッサバからシマを作ることもできるが、人々はトウモロコシを好む。カイが、人々が茅葺きではなく金属の屋根を好む理由を聞くと、金属の方が丈夫で防水性が高いという説明が返ってきた。茅葺き屋根の寿命は約5年ということだ。私たちが滞在したのは乾季だったので、金属の屋根の価値はそれほど明らかではなかったが、雨が降ればはっきりするだろう。家族が臨時収入を得た時、始めにお金を使うのが金属の屋根だという。マジモヨ(水の命)と呼ばれる場所を通りかかると、ジョンは以前ここでも牧師をしていたと話してくれた。ジョンは、その長く捧げてきた人生の中で、本当にザンビアの至るところでかかわりを持ってきたようだ。
たくさんのシスターたち(混乱注意!)
チパタ(ザンビア東部の最後の町)に着くと、私たちはチパタ伝道所に立ち寄り、良き羊飼いの修道会の会長に会った。この町は聖アンナ大聖堂と呼ばれる、植民地時代に建てられた大きな教会で有名だ。シスターの総長は会議中だったので、代わりにシスター・フローレンス・カペンデと話をした。プリシラは2024年の2月までチパタ伝道所に駐在していて、アジア学院に行った時もここに所属していた。シスター・フローレンスは、プリシラがここで農業を営んでいたことをすぐに指摘した。「彼女はアジア学院で学んだことを実践し、とくに有機農業にこだわりを持って取り組んでいます。」鶏や豚の飼育も始め、糞尿を堆肥として活用している。プリシラはいつも他者との分かち合いを大切にしていて、町の女性農民グループを結成した。彼女は、ミッションに全ての活動を引き継いで去った。シスター・フローレンスは、プリシラが積極的な有機農家であるのに対し、エステルはより小規模であると説明した。シスター・フローレンスの連絡先を受け取り、修道会からもっと多くのシスターをアジア学院に派遣するのが有意義だろうという合意と共に、会議は終了した。
ところで、プリシラやエステルの前にシスターをつけていないことにお気付きだろうか。アジア学院ではシスターをつけないので、私が自然に感じる形で記させてもらった。
ハングリー・ライオン
チパタでの最後の目的は、ハングリー・ライオンでお昼を食べることだった。KFCのようなファーストフードチキン・チェーンで、全国にお店がある。カイと私は、到着した日からこの店に行ってみたいと思っていたのだが、何だかんだいつも先延ばしにしていて、今日が最後のチャンスだった。マラウイには支店がない。ちゃんと確認した!
味は美味しかった!チキンは新鮮で、店内はとても清潔だった。私はリーズナブルな値段だと感じたが、一般的なザンビア人にとっては高いだろうし、ここで食べるのは特別な機会だと思うが、それでも客足は絶えないようだ!
残念なことに、カイはまだ調子が悪く、せっかく長時間待ったのに楽しむことができなかった。隣が薬局だったので、薬を買いに立ち寄った。そうそう、さっと周囲を見回して気付いたのは、バイクタクシーに大きな傘がついていたことで、チパタ以外では見られない光景だった。
マラウイへの入国
国境を越えるのはスムーズだった。カイだけビザの手続きでずいぶん待たされた。
マクドナルドが車で待っていてくれて、マラウイ・クワチャへの両替を手伝ってくれた。我々はジョンとジュディに別れを告げ、彼らはチパタ地区に住むジュディの父親を訪ねるためにザンビアに戻った。彼は103歳だ。104歳だったかな?
約1週間後にリロングウェで開催される会議で、また彼らと再会する予定だ!
ヨーロッパの植民地主義者たちが勝手に国境を定める前は、東ザンビアと中央マラウイは一つの部族だった。ザンビアではニャンジャ語、マラウイではチチェワ語と呼ばれる共通の言語を持っている。アクセントが多少違うが、同じ言語なのだ。
気まぐれマラウイ入門 ― マクドナルドとの車中での雑談より
マラウイで最初に気づくことの一つは、警察官の多さだ。検問所はいたるところにあり、彼らは罰金を取るためならどんな口実でも利用して、車を調べる。マクドナルドによれば、こうして政府(あるいは数人の政治家だけかもしれない)は歳入の大部分を得ており、警察官たちには罰金徴収のノルマまで課せられているという!道路の脇や道路上を(気を付けて!)うろうろしているヤギもたくさんいるので、マクドナルドに警察官とヤギ、どちらが多いか聞いてみた。彼は笑って、本当に分からないねと言った。マラウイでは木炭用の薪を集めることは違法だが、森林破壊という根本的な問題解決のためには、法律だけではあまり効果がないようだ。つまり、ザンビアに比べて道端で炭を売っている人を見かけることは少ないが、警察が介入しても、その警察官が別の場所に炭を持って行って転売するだけなのだ。
その他、道端で見かけた特筆すべき出来事としては、白一色に塗られた2人の男がいた。マクドナルドは彼らをマスカレードと呼んだ。彼らは動物の仮面をかぶり、自分たちを獣の霊だと考えている。私の理解が正しければ、彼らは自分の顔にそっくりの仮面をつけることができる──不気味だ。以前は踊ったり、時には人を殴ったり(なぜ?)していたが、最近は逮捕されるので、あまりしなくなったという。次に、子犬を高く掲げて通行人に見せている男たちがいた。マラウイスタイルの子犬売りだ!村によくいる犬ではなく、特定の犬種のとてもかわいい子犬だった。
マラウイの人口は2,000万人、ザンビアは2,600万人だ。マラウイはザンビアよりはるかに小さく、人口密度も高いが、その土地は中国人、インド人、ブルンジ、ルワンダ、コンゴ民主共和国の人々も買収している。国民の90%は雨に頼る自給自足の農民だ。マラウイ湖は国土のほぼ全長にわたっているが、灌漑設備がほとんどないため、雨が少ないと作物は育たない。主な換金作物は輸出用のタバコだ。タバコを吸っている人をほとんど見かけなかったのは、この国の人々にとって喜ばしいことだ!
ここではキリスト教よりもイスラム教の方が古く、アラブの奴隷商人によってもたらされた。モスクはいたるところにあり、マラウイでの最初の朝は、祈りの声で起こされた。最初にキリスト教を伝えたのは聖公会で1861年に到来した。
アジア学院初のマラウイからの学生、マクドナルド
マクドナルドは現在、マラウイ湖東岸のマリンディ教区に所属する聖公会の司祭である。本名はンジャラ・バンダ神父。もっとも、これもフルネームではない。どこかで一度だけフルバージョンを見たことがあるのだが、そこには他の名前やアルファベット、アポストロフィがたくさん含まれていて、とても印象的だった。私はマクドナルド、あるいはマック…時々ンジャラでいこうと思う。マクドナルドという名前の由来を知りたければ、彼に聞いてみるから教えてほしい。彼はマラウイからアジア学院に来た最初の学生(2010年)で、他の候補者が突然辞退したため、土壇場で主教に推薦された。私はこの選考に携われたことを誇りに思う。マクドナルドがアジア学院への道を開き、その後さらに10名以上のマラウイの農村指導者たちが続いているのだから!
分裂と修復
マクドナルドを推薦した主教はその後、教会から破門された。マクドナルドに多大な影響を与え、教会全体に亀裂を走らせたこの事件の背後には、長くつらいドラマがあった。詳細は割愛するが、長く尾を引いたこの事件は、各地の信徒に深い影響を与えた。教区民は主教を支持する者と不支持の者に分かれた。仲間から告発され、何週間も獄中で過ごした会員もいた。司教が破門された後、マクドナルドはマリンディ教区に派遣されたが、そこでは上記のような状況のため、多くの信徒が逮捕されるなど、深い亀裂が生じていた。人々は怒りと憎しみに満ち、二度と教会に戻ったり、仲間の信徒と口をきいたりしないと誓っていた。マクドナルドはここで癒しをもたらすために多くの仕事をしなければならなかったが、彼はまず、刑務所で過ごした人々に一人ずつ話しかけることから始めた。そして他の信徒たちにも語りかけ、一致と赦しに関する説教を行った。
そして、他の信徒と話をして、団結と赦しについての説教をした。彼は、人々は一つのコミュニティに属する一つ民であると語った。主教のような外部の人間一人に従うために、自分たちを分裂させてはならないと。マクドナルドですら部外者だが、信徒たちにとっては、ここが彼らの家であり、家族なのだ。これらは彼が私に語ったことの一部で、私も完全には理解できていないと思う。しかし、一月も経たないうちに、全ての人々が戻ってきて、教会は再び一致団結して活発になった。
現在は新しい主教がおり、数日後、我々もその人物と会った。新司教の候補者リストが作成されたとき、マクドナルドの名前も含まれていた。しかし、それを知った彼は、削除するように頼んだ。第一に、破門された主教が主張していたように、自分が主教になることを画策していたと思われたくなかった。第二に、彼は対立の一方に積極的に関与していたため、自分の任命は教会内の亀裂を深めるだけで、必要な癒しを与えることはできないと考えた。この問題はもう人々にとって終わったことのように思えるが、本当にそうであり、新たな章が始まったことを願うばかりだ。
私たちはマラウイ湖近くのサリマというところまで移動する予定だったが、カイの体調を考慮し、首都リロングウェで一晩を過ごした。
皆ゆっくり休むことができ、カイも翌朝、病院にかかることができる。明日からがマラウイの本当の冒険の始まりだ!
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
シリーズ記事はこちら
Vol.12 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 13日目】<== 今ここ!
Vol.13 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 14日目】To Be Continued …
温かいメッセージと常温の水
農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 11
2024/12/19
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
一行は、新たに東への旅を始めます。次なる目的地はマラウイ!
道すがら目にしたザンビアの人々の日常が生き生きとしていて、胸にせまります。
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 12日目】
ザンビアを縦断する偉大なるイースト・ロード
ザンビアは幅のある国だが、今日の計画はその大きなかたまりを東に縦断し、マラウイ国境まで抜けるというものだった。道すがら、2名の卒業生の活動地を訪ねたいと考えている。2名ともカトリック教会のシスターだ。
我々は、早い時間に出発するべく努力した。特に朝の苦手なカイは。
午前4:00の出発を目指し、4:50に家を出た。私は、数百キロにわたる運転を引き受けてくれたジュディとジョンに、心から感謝している。彼らは、旅行が大好きだから、この旅を楽しんでいると言ってくれたが、正直な話、彼らの助けなしではこんな旅はできなかった。ジョン、ジュディ、ありがとう。本当に良い旅だった。
道中の思い出深い体験といえば、道路の脇で火だるまになったトラック(何が起きたのか皆目見当がつかない)や、ガソリンスタンドで走り回る鶏を見たこと、そして、目の前の道路から昇ってきた燃えるようなアフリカの赤い太陽。
我々は、写真を撮るために、地元の人がムブユツリーと呼ぶ、荘厳な“幸運の木”があるところに立ち寄った。多分バオバブの木だったと思うが、今まで見た他のバオバブとは少し違って見えた。とても古い木だったのかもしれない。東部州に入る橋を渡る手前で、地元の“マサウ”フルーツを買うために停車した。ここは、旅行客に人気の休憩スポットで、たくさんの忙しそうな露店が立ち並んでいた。編んだカゴを売っている店が目に留まったので、そこでも少し買い物をした。
車に戻ると、ジュディがこんな話をしてくれた。彼女はカナカンタパに住んで20年以上になるが、昨日初めてその名前の意味を知ったのだという。この入植地はこの一帯を流れる小さな川にちなんで名づけられたが、昔この川にはワニがいた。カナカンタパは現地語で「赤ちゃんワニ」という意味だ。今では何も棲んでいないが、母親たちが子供たちに、ワニに気を付けなさいと警告していた時代があり、この名前が付いたということだ。
ニンバ教区のシスター・プリシラ
橋を渡ってしばらくして、私たちはニンバの町で幹線道路を降り、ファティマの聖母ローマ・カトリック教会へ向かった。ここで私たちは、良き羊飼いの修道会の修道女であるシスター・プリシラ(2018年アジア学院卒)に会った。彼女が最初に私たちに見せてくれたのは、サル除けのために、屋根と鍵付きのドア、そしてフェンスで完全に囲まれた庭だった。そこにはトマトやその他の野菜がぎっちりと並んでおり、節水のため、これらはすべて袋に植えられていた。信じられないことに、彼女がこの庭を始めたのはほんの5ヶ月ほど前だという。今年の3月頃、彼女は前任地のチパタからここに赴任した。チパタは、彼女がアジア学院に行った時に働いていた場所で、彼女はそこで信徒たちと始めた生計プロジェクトについて語ってくれた。その一つが、女性20名と男性数名からなる園芸グループで、収穫したものは各自で持ち帰り、互いに売り合って、コミュニティ内でお金を循環させた。そのグループは、プリシラがいなくても続いており、これは彼女が優れた指導者であった証だと言えるだろう。
教区のシスターとして、彼女は週6日働いており、休みは月曜日だけで、合間の時間を使って庭の手入れをしている。その他にも、病人を見舞ったり、結婚式やその他の行事の話し合いのために来る信徒の対応をしたり、日曜日のミサの準備のために教区外に出向いたり、日常的な事務仕事をしたりと、様々な責任を担っている。
常駐している3名の神父のうちの1名、タウンゲ神父にだけ会うことができた。プリシラの指導の下、彼も化学肥料を使わない広い農園を営んでいる。肥料は、豚、牛、ヤギの糞を大きな布に包み、ドラム缶に入れた水に1週間浸したもので、その水を植物に与えるのだ。地元品種の黒い鶏と鳩も見た。鳩は平和の象徴としてここにいると聞いたが、いつかは料理用の鍋に入れられて生涯を終えそうだ。堆肥の生産者もどこかにいるはずだが、見かけなかった。教会は、地元の市場でパン屋も開いているという。ああ、それからセメントタオルで作った植木鉢についても触れておかなければ。最高に良いと思ったが、説明の必要もなさそうだから写真を見てほしい!
干ばつはニンバ地域も直撃した。雨が降り始めても、トウモロコシに肥料を施した直後に止んでしまったので、そのままトウモロコシは干上がってしまった。正直なところ、私は飢餓の兆候を見たわけではないのだが、それは村の零細農家の間で起きているのだろう。あるいは、私がどこをどう見ればいいのかわ分かっていないだけかもしれない。ニンバ教会の炊事場は順調に稼働しているようだった。心のこもった昼食が提供され、シスター全員も集まり、共に食卓を囲んだ。
シスターや神父、そしてアジア学院を通して私が出会ったほとんどの聖職者や教会関係者にとって、3~5年ごとに異動することは当然のことなのだ。シスター・プリシラからは、前任地を離れることを悲しむより、新しいことを始める機会に胸をふくらませているような印象を受けた。彼女はチパタで、生き生きとした庭と、それを成長させ続ける生き生きとしたグループを残した。ニンバに到着してすぐ、彼女はまた植えることに忙しくなった。まず庭を作り、続いて新しいグループを作った。私は、彼女の生きた庭と結びついた生きた信仰が、その神への終わりのなき奉仕の中で共に働いていることを感じた。
暴走する牛車
一つ言い忘れたのは、このイースト・ロードは、キトウェに向かうノース・ロードよりもずっと状態が良いということだ。大型トラックによる破壊が(まだ)なく、最近舗装し直されたところもあるので、本当にスピードが出る!
ある村を通り過ぎたとき、ジョンが「そこの村長は服を着るのを嫌がるんだ」と適当なことを言った。数時間でチウォコ変電所(変電所が何を意味するのかはよく分からない)に到着した。ここを目印に、我々はチクング伝道所まで、約30キロの舗装されていない道路に入った。
夕暮れ時に村々を通り抜け、行き交う人々や、草原でサッカーに興じる子供たちのチームを次から次へと目にするのは、なんと素晴らしいことだろう。マンゴーの木は、文字通りどこにでもあった。神のマンゴーとジュディは呼ぶが、それは誰も意図的に植えていないからだ。木々はただ勝手に成長し、マンゴーの季節には誰も飢えずにすむ。マンゴーが熟すと、人々は一日中マンゴーを食べ続け、その甘い果汁に飽きることはない。私も多分、新鮮なマンゴーを2、3ヶ月食べ続けることに何の問題も感じないと思う!欠点は、トウモロコシの収穫前にマンゴーの季節が終わってしまい、飢餓の期間が生じてしまうことだ。「先人たちのようにマンゴーを保存していれば…」という嘆きをよく耳にしたが、なぜ彼らはそうしないのだろうと思った。
ジョンとジュディはこの場所に来るのが初めてだったので、道すがら、自分たちの方向が正しいかどうか、絶えず人々に確認していた。このナビゲーション戦略における不用心な助っ人の1組が、牛車を運転していた2人の少年だった。彼らは二人とも荷車から飛び降り、私たちを助けている間、運転手のいない荷車を走らせ続けた。この状況がどうなるのか興味津々だったのだが、結果的には何の問題もなく、少年たちは道案内をした後、まだ動いている荷車のところまで走って戻り、再び荷車に飛び乗っただけで、牛たちも気にしていないようだった。
チクング伝道所は大きな施設で、私たち全員に専用のゲストルームと湯浴み用の温かいお湯で満たされた大きな容器が用意されていた。長旅のあとのバケツシャワーは(暗闇の中で浴びた。ご存知、お決まりの停電だ!)最高だった。
シャワーは暗闇の中だったが、客室はそうでもなかった。ソーラーの復旧システムが装備されており、数時間後には電気が戻ったのだ。ソーラーパネルは、多くのコミュニティが望むものの一つだ。これがあれば、絶え間ない停電の影響を軽減できる。送電網にさえ接続されていない場所では、携帯電話を充電したり、夜間に明かりをつけたりするための唯一の電力源となる。もし、そういったことがあまり不便そうではないと思うなら、2、3日ブレーカーを落として、どんな生活になるか経験してみるといい!
ここチクング伝道所で、私たちはシスター・エスター(2018年アジア学院卒)に会った。彼女とシスター・プリシラは共に、良き羊飼いの修道会に所属しており、同じ年にアジア学院に来た。もう夜も遅かったので、彼女が私たちのために計画した唯一の夜の予定は、素晴らしいニンジンのクリームスープと、ローストされたものと、揚げたもの、2種類のチキンという温かい食事だった!
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
シリーズ記事はこちら
Vol.11 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 12日目】<== 今ここ!
Vol.12 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 13日目】To Be Continued …
\\🎉 2024年度の学生たちが卒業しました!! 🎊//
2024/12/15
12月14日(土)、無事に第52回卒業式が執り行われ、学生たちが卒業していきました。週明け16日には第1陣のアジア勢、17日には第2陣のアフリカ勢がそれぞれの国へ帰国の途に就きます。
また再び顔を合わせて交わることはかなわないと知りつつ、彼らは別れを惜しみ、互いが用いられていく各々の働きについて励ましあいつつ、世界中のコミュニティに帰っていきます。
卒業生たちの、それぞれの場から自立したコミュニティと土からの平和を実現していく活躍をお覚えください。
参列してくださった皆さまと、今年1年学生たちとアジア学院を覚えて支えてくださった皆さまにお礼申し上げます。
クリスマスキャンペーン2024(クリスマス特別献金のお願い)
2024/12/13
世界中のコミュニティと共に祝う、
あなただけの特別なクリスマスを。
2024年度のアジア学院の学生たちは12月14日(土)に卒業式を迎え、それぞれが夢を胸に、母国へと帰っていきます。皆様のご支援は「希望の種」となり、各国の農村地域に卒業生と共に運ばれ、大勢の人々の希望となります。
クリスマスが近づくこの季節に、皆様の「希望の種」を、アジア学院の熱意溢れる学生たちに託していただけませんか?
頂いた献金はアジア、アフリカなどの国々からアジア学院にやって来る学生の渡航費や授業料、さらに寮費、食費など月々の生活費など奨学金として用いさせていただきます。世界各地の草の根の農村開発指導者として働く人材を育てるアジア学院の働きに、皆さまからのご支援をお願い申し上げます。
個人でも、教会でも、学校でもご献金いただけます。
ご献金はクリスマスキャンペーンページより:ari.ac.jp/christmas-donation
※ 告知チラシをご覧になった方へ:銀行振込口座番号に不備がありました。以下の通りご了承ください。
銀行振込
振込先銀行: 足利銀行 支店名: 西那須野支店 (普通預金)口座番号:011240 末尾に3を加える → 口座番号:0112403
口座名義: 学校法人 アジア学院 理事長 山本俊正
農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 10
2024/12/13
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
日曜日、長旅から帰って来た一行は、つかの間の休日を過ごしました。
とは言え、素晴らしい人々との出会いと停電は休日でも待ったなし!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 11日目】
農村リーダー、シマンバ
予定だと、今日からザンビア東部への長い旅に出るはずだった。だけど、別の旅を終えた直後で日曜日だったこともあり、今日は休むことにした。
驚いたことに、我々は2005年のアジア学院卒業生、シマンバに会う機会を得た。彼の活動地は、ここから1,000㎞ほど離れた西部州のモングーだが、私たちに会うためと、それ以外の理由もあって、はるばるルサカまで車でやってきたのだ。モングーで、彼はアメリカ平和部隊(Peace Corps)と働いているが、最近世界銀行と、別のカシューナッツ農家に関連するプロジェクトを始めた。私はカシューナッツが大好きだが、妻のミキはもっと好きなので、彼がくれた包みは日本へのお土産にした。
シマンバをアジア学院に送り出したのは、ジョンとジュディの団体、エキュメニカル開発基金(EDF)だった。だけど帰国後、彼はここでの仕事を辞める決断をした。経営管理者として雇われていたシマンバに、ジョンたちは大きな期待を寄せていたが、彼には別の計画があったのだ。
彼は政府の漁業局で働き始め、その後は協同組合で働くようになった。同時に高等教育を受け、最終的には修士号と博士号を取得した。2018年には世界銀行で村の貯蓄と融資のプロジェクトを行い、続けてルサカで国連のプロジェクトを担った。そして、前述のアメリカ平和部隊での活動などを経て、現在に至る。
インタビューで彼は、アジア学院での研修経験について、特にリーダーシップや人々との協力関係について、良い話をたくさんしてくれた。彼は権威を重んじる人間だと思っていたので、これには驚いた。アジア学院にいる時、彼は、食器洗いなど、自分にふさわしくないと感じる仕事は避ける人間の一人だった。彼に苛立ちを覚えたクラスメイトが、いつかザンビアの大統領になると予言するほどだった。
私は、彼についての理解が全て間違っていたわけではないが、全て正しかったわけでもないと感じた。アジア学院から19年間を経て、色々な意味で変わったのだろう。「私がアジア学院に行った時は、まだほんの若者だった。」彼は当時の態度を謝罪するかのような口調でこう話した。
私は今までにもシマンバのような卒業生に会ったことがある。権力のある高い地位に就きながらも、アジア学院のサーバント・リーダーシップの要素を心のうちに抱き続けている人々に。我々の期待や、アジア学院の校長レベルには及ばないかもしれないが、それは確かに存在し、彼らの指導スタイルに影響を与えている。アジア学院は、シマンバの心のどこかに深く浸透し、今も彼と共にあるのだと思う!
EDFについても、帰国後の残念な過去はあったが、彼は今回の再訪で「ここが自分のホームだ!」と言ったのだった。
もう一つだけ彼のことを…。当時、西日本研修旅行で学生たちをトヨタの工場見学に連れていっていた。シマンバは村人たちと働く時、よくその経験を引き合いに出すのだという。一つの車は、何百という異なるパーツからできていて、全部が一緒になって協働することで一つの車になる。コミュニティも同じで、お互いの協力なしには一つのコミュニティにはなれない、と。
カナカンタパ改革派教会でのパワフルな説教
ジュディは我々が、帰り際の人々に挨拶だけでもできたらと考え、地元の教会へと連れて行った。というのも、礼拝の開始時間はとうに過ぎていた。我々が到着した時、礼拝はまだ続いており、特別なお客に上等な椅子を用意しなければ、と大騒ぎになった。
牧師はただ淡々と、英語と現地語であるニャンジャ語を巧みに織り交ぜながら、情熱にあふれる説教を続けた。「ニニウェ」と彼が繰り返し叫ぶと、会衆も「ニニウェ」と返す。あなたと共に、という意味だそうだ。「神があなたを通して、何をなされるのか?」「あなたを器として用いられるのはどなただろうか?」
私は、この説教は素晴らしいと思った。第一に、この牧師は人々にどのように語りかけるべきか、よく理解している。話をゆっくりと進め、重要な点は繰り返す。そしてまた話を先に進めるのだ。ある時には、教区の住民なら誰でも使っているツルハシを手に取り、小道具として長いこと握っていた。「このツルハシ」、彼は問うた。「これが仕事をするのか?」「いや、その所有者が仕事をするのであって、神が所有者なのだ。私たちは神の手に握られた道具であり、神がその道具を振るわれる。あなたがたは神の手の中にある器なのだ。『私を道具として使っていただけませんか』と神に尋ねられるほどの謙虚さを持っているだろうか。」
しかしその後、彼は我々全員に、用心しなさい、自分の背後に誰がいるのか注意深く知りなさいと警告した。神があなたを道具として使っているのか、それとも悪魔が使っているのか。もし、道具であるあなたの準備ができていなければ、操られてしまうかもしれない!
私がこの説教を素晴らしいと思った第二の理由は、”私を用いて下さい”というシンプルな祈りにあった。これは私がよく祈る祈り、特に進むべき方角を見失った時の祈りでもある。“私を用いて下さい”というのは、説教全体の中心的テーマだった。
牧師の説教が終わると、我々は教会の皆の前で自己紹介をするように招かれた。そして礼拝は、輝かしい歌と踊りで締めくくられた。
コミュニティの努力により、2年ほど前にこの教会が開かれたのだという。彼らは何とか教会建設のための資金を集めたが、牧師の住居は建設中だという。以前は、チョンウェまで行かなくてはならず、何キロもある長い道のりを歩いて行く人もいた。この新しい教会にはとても良い牧師が就任してくれたが、いつまでこんな片田舎に彼を留めておけるのかは分からない。だから、彼の住居を完成させるために尽力しているそうだ。
カイと私は、写真やビデオの整理、そして旅行記の遅れを取り戻すために、その日の午後の時間を費やした。
シマンバとベルビンも加わり、真っ暗な中で(理由はお分かりだろう)、鶏肉とヤギ肉の夕食をいただいた。ザンビアで暮らすには、停電時の食事の用意の仕方といったことに万能でなければならない。残念ながら、それは木炭を使って料理することを意味し、これは森林破壊につながり、干ばつを引き起こし、水力発電をするための十分な水が確保できなくなった結果、電力不足が引き起こされる。
このような問題は…アフリカだから?いや、すべての人類の文明が該当しているのではないだろうか?
私たちが”発展”すればするほど、どこにいるかにかかわらず、解き明かさなければならない謎が増えていく。
私にとっての大きな疑問は…発展とは前進なのか?それとも前進することもなく、辺りをさまよっているだけなのか?
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.10 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 11日目】<== 今ここ!
Vol.11 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 12日目】To Be Continued …
未来のザンビア大統領?
ツルハシを使ってメッセージを強調する牧師
農村指導者たち ― アフリカ旅行記 Vol. 9
2024/12/13
8月にアフリカを訪れた、アジア学院職員スティーブンが書く旅行記を、シリーズで皆様にお届けしています。
予定通りにいかないのが旅と言うもの。でもその道のりも、ちょっとした心構えと、楽しい仲間がいれば大丈夫!
それでは早速、アフリカの旅へ出発です!
【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 10日目】
KMSCとの朝食
ルサカに戻るのは長旅なので、ジョンとジュディは早朝に出発したいと願っていた。少し車を修理しなければならなかったのだが、夜にそれをやってくれる整備士を見つけたので、朝には車を手に入れられる算段だった。こんなサービス考えられるだろうか?本当にすごい!
こんなにできる限りの努力を尽くしたというのに、我々は午前11時まで出発することができなかった。というのも、どうしてもサンバが、彼と共に働いている団体の人々と我々を引き合わせたいと言ったからだ。
団体は、キー・マネージメント・ソリューションズ・コンサルタンツ(KMSC)という名で、2023年に登録されたばかりだった。高級なホテルでビュッフェ形式の朝食(もちろんコーヒーも!)をいただきながら、カイと私は2人の創業者に話を聞いた。フェリックスという退職した教師と、デイビッドという牧師だ。サンバは、最近この2人と連携して仕事をしているという。と言うのも、2年後に55歳で退職を控えており、将来の計画を立てたいと考えているからだ。KMSCは研修に重点を置いているので、サンバの長い教職歴と経験に合致している。彼らは18-35歳の若者の権利や能力を高めるための、技術研修を行いたいと考えている。具体的にどのような活動がすでに行われているかははっきりと分からなかったが、コンピューターの研修はすでに行われているようだ。計画されている教育内容としては、運転や調理、溶接、機械工、農業がある。彼らの目的は、自分たちで小さなビジネスを始められるような技術を教えることにあり、起業家を生み出したいと考えている。
フェリックスは鉱山労働者についても語った。ザンビアのこの辺りの地域は、銅山地帯と呼ばれ、毎日何トンもの銅が採掘されている。採掘労働は人体に大きな負担がかかるため、鉱夫たちは55歳で定年を迎える(その年齢まで働ければ、の話だが)。退職金としてまとまった金額が支給されるのだが、労働者たちは人生でこれほどの大金を目にしたことがなく、多くは狂ったようになって、湯水のように使い切ってしまう!KMSCは「金融に関する知識を身につける」プログラムを開始し、55歳以降の長期的な「ライフプラン」の作成を支援したいと考えている。この組織が軌道に乗ったら、サンバは、アジア学院の研修に職員を送りたいと願っているようだ。
我慢時計
遅い出発は、遅い到着を意味する。ジュディは、日没までには家に着くと言ったが、我々は到着した時にはもう(私の読み通り)真夜中だった。これには、ぐにゃぐにゃの道も関係しているが、素晴らしい自家製の家庭料理を食べるべく、またもや、フリンギラに立ち寄ったことも関係している!あそこに行くだけのために、またザンビアに戻って来たいとさえ思ってしまう。
私は、通常の予想よりもずっと遅い時間に、自分の「我慢時計」を設定することにしている。こうすることで、旅行中のきつくなりそうな状況に耐えることができる。物事がスムーズに進むと期待してしまうと、そうでなかった時にがっくりしてしまう。物事が予想よりずっと難しく、長くかかることを想定して計画を立てれば、ずっと上手くいくはずだ。こうやって、ジュディが19時頃になると言っていたにもかかわらず、到着を真夜中と予測したことで、多くのフラストレーションが解消された!これが「我慢時計」だ。
ジュディの高見先生(アジア学院の創立者の一人)との思い出
車中にて、ジュディは、また別のアジア学院での話をしてくれた。これは高見先生に関する話だった。
朝の集いの直前、彼女は高見先生のズボンのチャックが開いていることに気が付いた。先生がその日の話者だったので、それを伝えたかったが、直接言うのはあまりに恥ずかしかった。だから、彼女はボンドに、高見先生に伝えるように頼んだ。ボンドはリベリアからの学生だったが、彼女いわく、あまり賢くなかった。
彼は先生のところへ行き、こう言った。「ジュディが私に、先生のチャックが開いていると言いました。」
あ~!
ジュディは大恥をかいた。でもこれで終わりではなかった。
高見先生は、会の始め、開口一番にこう言った。「ジュディ、チャックが開いていると教えてくれてありがとう。」
全員の目の前でだ!皆、大爆笑だった。
気の毒なジュディ。でも彼女は、真に謙遜で、思いやりのある人物だけが、こんな冗談を言うことができるのだと感じたそうだ。
文:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ担当)
旅の同行者:篠田 快(学生募集、採用担当)
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Vol.9 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 10日目】<== 今ここ!
Vol.10 【アフリカ 卒業生を訪ねる旅 11日目】To Be Continued …
背後はミエリーミールの
宣伝をする工場
これはガソリンじゃない
アジア学院とともに歩む絆―ホームステイでの交流をつづった作文がコンクール都最優秀賞受賞
2024/12/12
青山学院初等部3年生の横田成里明さんが、アジア学院の学生アズィさんとのホームステイ交流をテーマに書いた作文で、第74回全国小・中学校作文コンクール(読売新聞社主催)の小学校低学年の部で光村印刷賞を受賞されました。
https://jigyou.yomiuri.co.jp/sakubun/prize/
横田さんの作品は2025年3月に発行する「優秀作品集」に掲載されます。
成里明さんは今年6月、アジア学院の東北インドからの学生アズィさんをホストファミリーとして迎え入れました。作文では「アズィさんは、私がテレビで見たことがあるインドとは全くちがうインドから来たのだ」「お父さんとかりてきたガイドブックは全くやくに立たなかった」といった印象深い言葉で、異文化との出会いやアズィさんの背景への理解が豊かに表現されています。この作文を通して、学生たちが持つ多様な面が広く伝わることを、職員一同とても嬉しく思っています。
横田さんご一家は10月に開催された「収穫感謝の日」にもご来校くださっていました。こうした交わりから、アジア学院と支援者の皆さまとの温かなつながりがさらに深まることを感じました。また、このような絆が、私たちの活動の大きな励みとなっています。
アジア学院の参加者アズィさんはそのニュースに感動し、次のコメントを残しました。
「東京ホームステイ
6月に東京へホームステイに行ったときのことは、日本での最高の出会いのひとつでした。
たった1泊でしたが、ホストファミリーは素晴らしい人たちで、短い時間でも思い出に残る時間を作ることができました。 横田家に出会えて本当に良かったです。
特に次女の成里明ちゃんは、好奇心と聡明さで、私たちが交わした会話やアクティビティーのすべてをとらえ、素晴らしいエッセイにまとめてくれたことを誇りに思います。
成里明ちゃんの作文が読売新聞全国小・中作文コンクール光村印刷賞を受賞したことを祝福するとともに、彼女の文章力が今後さらに大きな目的を達成できるよう、神様の祝福があることを祈ります。
アジア学院と日本基督教団教団婦人会連合の皆さん、このような素晴らしいホームステイを企画していただきありがとうございました。 これからの学生に多くの出会いがあり、アジア学院と日本基督教団教団婦人会連合に祝福がもたらされますように。
アジ・ナガランド
2024年学生」
12月14日(土)には、アズィさんを含む学生たちが卒業を迎え、それぞれの故郷へ帰国します。これからもアジア学院の歩みと、学生たちの未来への挑戦を見守っていただければ幸いです。