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ご存知ですか? 農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー⑤

イースター / 渡航費キャンペーン 特別連載

皆さんは、アジア学院の学生たちがどのような過程を経て、日本に来るかご存知ですか?
アジア学院では、キャンペーンの一環として、学生たちのアジア学院までの道のりを追うシリーズを、4回に分けて連載してきました。
今回は、番外編として、3月末に震災が起きたミャンマーの卒業生たちのストーリーをお届けします。ニュースからはなかなか伝わらない、ミャンマーの人々の抱える何重もの苦難と、その中でも懸命に人々に寄り添って生きる卒業生について知っていただけましたら幸いです。


【ミャンマー卒業生たちの場合】
3月28日、ミャンマー第2の都市マンダレー近郊を震源とするマグニチュード7.7の大地震がミャンマーを襲い、死者4,426名、負傷者11,366名以上を出した(4月22日時点、Democratic Voice of Burma調べ)。高層ビルやお寺などの建物が崩壊した痛ましい映像が皆さんの記憶にも新しいと思う。
しかしながら、この国が長年抱えている、もうひとつの問題をご存知の方はどれほどいらっしゃるだろうか。

多民族国家 ミャンマーの歴史
ミャンマーは、昔はビルマと呼ばれており、東南アジア、インドシナ半島の西部に位置する。
国、と言っても、大きく8つの部族、全体で135に及ぶ民族が存在しており、それぞれの部族が、それぞれの州、文化を持っており、建国以来、自治権を求める少数民族と国軍との紛争が長く続いてきた。

1962年に最初の軍のクーデターが起きて以来、軍事政権による独裁政治が続いていたミャンマーだったが、2015年に、国民民主連盟(NLD)が選挙で圧勝、アウンサンスー・チー氏がリーダーとなり、民主主義国家が実現した。
だが、2021年2月の国軍によるクーデターで政情は一変、現在に至るまで再び軍事政権下に置かれ、国軍と、彼らに抵抗する市民で組織された武装勢力や少数民族軍との終わりの見えない内戦が続いている。

2021年のクーデター直後は、ヤンゴンなどの大都市でのデモ行為に対する無差別発砲などが目立ったが、現在では、少数民族が勢力を持つ、サガイン管区、マグウェイ管区、チン州などの山間部を中心に、軍事行為が拡大している。
その内容は、国軍に抵抗する、少数民族の村々の焼き討ち、空爆、戦闘における「人間の盾」としての市民の連行、略奪、強姦、地雷や化学兵器、(国際的に禁止されている)クラスター爆弾の使用など多岐にわたる。さらには、言論の統制による、不当な拘束、逮捕、拷問による殺害、強制兵役などで、自国民に対しての仕打ちとは信じがたく、到底許されぬことばかりだ。

卒業生の多い国 ミャンマー
ミャンマーは、アジア学院の中でも多くの卒業生を抱える国の一つでその数は97名に及ぶ。
人懐こく、歌やギターが得意な人の多いミャンマーの学生たちは、英語は少し苦手でも、持ち前のキャラクターで、多様な人々の集まるコミュニティで、潤滑油のような役割を担っている印象がある。

私のクラスメイトにも、ミャンマーの友人が二人おり、いずれも誇り高き山間部の少数民族であった。
卒業を間近に控えた頃、私はそのうちの一人に、空港から故郷までどれくらいかかるのか聞いてみたことがある。その答えは「二日間」。
私はその場で絶句し、今後生きているうちに彼に会うことはあるまいと思った(のちに、この答えは、アジア学院の卒業生では全く珍しくないことを知る)。

稀有な運命
ところが、そのクラスメイトに会う機会は意外と早く巡ってきた。2020年1月、私は教会の友人に紹介された、医療奉仕を行う韓国人のご夫妻の活動に加わるために、ミャンマーの主要都市、ヤンゴンに降り立った。

数日間の活動の後、国内線の飛行機に乗り、西部の山岳地帯に向かった。空港には、前の年に卒業したばかりの、私のクラスメイトと同郷の卒業生が迎えに来てくれていた。飛行機を利用したので、二日はかからなかったが、それでも最寄りの空港から、彼らの住む町に行くのは一日仕事だった。
彼らの故郷はヤンゴンに比べて冷涼で、国内三番目に高い山を有する国立公園がある、美しく静かな場所だった。友人は、離れた場所で仕事をしていて、私の滞在中にこの町に戻ってくる予定だったが、ちょうど所属団体の支援者が外国から来ていて、案内をしなければならず、残念だけど会うのは難しいという連絡が来た。自由に動けるのはあと一日、という日、私は意を決し、案内をしてくれていた卒業生に、どうしてもそのクラスメイトに会いたいと話した。すると彼は二つ返事で引き受け、私をバイクの後ろに乗せ、往復10時間かけて友人の事務所に連れて行ってくれたのだ。

早朝6時前に出た我々は、途中何度か給油しながら、ひたすらに先を急いだ。朝ご飯を食べるために立ち寄った町で、ようやくバイクを降りると、寒さとバイクの振動で、太ももがしびれていた。二人とも無言で、出された白湯をすすったのを覚えている。その後、厚手の服を売る店を見かけるたび、止まって購入しようかと何度も考えたが、だんだんと日が高くなるにつれて暖かくなった。

目的地に着いた時には、もう昼頃だった。友人に職場の同僚を紹介してもらい、三人で近くのレストランに食事に行った。「ここから10分くらいで、少し遠いけど…」と説明する彼に、私を連れて来てくれた卒業生が、「5時間かけて来た我々に何を言ってるんだ。」と冗談を言って二人で笑った。私たちを先導し、ヘルメットを片手にバイクでのんびり走る友人を見て、アジア学院の時から変わらない彼の様子に、胸が温かくなった。

この弾丸旅行で無理がたたったのか、私は翌日からしばらく腹痛と下痢に悩まされたが、一生会えないと思っていたクラスメイトに会えた喜びは、何事にも代えられなかった。新型ウイルスが世界的に猛威を振るい始める直前で、今思えば奇跡と言うしかない。

突然のクーデター
2021年2月、ミャンマー国軍によるクーデターが起き、ミャンマーの人々の生活は大きく変わった。
友人たちのSNSには、即座に三本指で国軍に抗議を表す写真や、デモの動画が挙げられたが、弾圧の激化とネットワークの遮断により、全く連絡が取れなくなる期間があり、彼らの安否に気をもんだ。その後、再び連絡が取れるようになると、友人たちから多くの写真や記事が送られてきた。燃やされた国立公園の木々、自宅で殺された罪のない市民と、恐怖におびえるその子供、軍に荒らされた教会等々、私が訪れた平和な時からは想像もできない、変わり果てた町の様子に大きな衝撃を受けた。国軍と、民間で組織された防衛軍の衝突が激化し、戦争地帯となってしまった町からは、ほとんどの人が逃げ出し、州境の修道院や、ジャングルに近い場所でテントを張るなどして、難民生活を強いられていた。国連関係者すら容易に立ち入ることができず、私の友人のような地元の有志が、食料などを自ら背負い、必要な人々に届けていたのだ。国軍は、そのような動きを快く思っておらず、見つかれば逮捕される危険もあり、その人道支援は命がけだった。

アジア学院にもミャンマーの卒業生を憂いた人々からの寄付が寄せられた。卒業生アウトリーチのスタッフ、スティーブン・カッティングが語った言葉は、私の心に深く刻まれた。
「卒業生たちは、コミュニティのリーダーであり、コミュニティの人々が苦しめば、彼ら/彼女らも共に苦しみ、逃げる時も共に逃げる。しかし、どこにいても卒業生たちはリーダーであり続け、人々にできる限りの支援を行う。」

この時ほど、農村地域で生まれ育った人を育成し、故郷で働くことを後押しするアジア学院の力を感じたことはなかった。
世界各国で、多くの戦争が起き、ミャンマーが人々の記憶から薄れ、人道支援団体に対しても平気で弾圧するミャンマー国軍の姿勢に、国際的な支援団体は次々と撤退していった。けれども、私のクラスメイトは数人の地元ボランティアと連携しながら、今に至るまで、同郷の避難民たちを支援し続けている。

震災後のミャンマー
ミャンマーで大きな地震が起きたと聞いた時、私が真っ先に考えたのは、内戦への影響だった。これを機に停戦、そして、国際社会が再び目を向けることで、事態の収束に踏み出せないのだろうかと思った。

しかし、4月1日、ミャンマー軍総司令官のミン・アウン・フライン将軍は、地震による壊滅的な被害にもかかわらず、国軍は国中で抵抗勢力と戦い続けると宣言。今こそ、領地を奪還する好機と捉え、空爆を続けている。
友人に言わせれば、彼らは被災者のことなど、まったく気にかけていないという。

自分の好むことを行うのではなく、与えられた仕事を喜んで行う人生
このような状況下でも、私のクラスメイトは、なおも他者を助けることを諦めない。それは、彼の育ってきた環境や、その中で培われてきた社会認識に大きく起因していた。

彼は他者を助けることは自分を助けることだと強く信じているという。文化的に、他者を助けることは「子供のために恵みを蓄える」ことだと認識されており、人の役に立っていれば、(たとえ自分が亡くなったとしても)将来、他者が子供たちを助けてくれるということだ。彼の曽祖父はよく彼に「たとえ敵であっても、困っている人を助けることを怠ってはならない。最後には愛が勝つのだ。」と言っていたそうだ。

聖書のマルコによる福音書10章に、誰が天上に上げられたイエスの右に座すのかということで、弟子たちがもめる場面がある。そのような弟子たちに、イエスはこう語った。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

彼のアジア学院での最大の学びは「サーバント・リーダーシップ」だった。この聖書箇所は、クリスチャンである彼に、いつも「偉大さはどのように作られるべきか」を思い出させる。それは全て、愛、気遣い、思いやりに基づく自己犠牲の上に成り立つものだ。

また、彼は「行動した上で、言葉を発する」アジア学院の姿勢を好ましく思っていた。
「例えば、まず持続可能な方法での農業を実践し、持続可能な農業について語るといったことです。アジア学院は、自分たちの土地で農産物を生産した上で、食料自給率について語っていました。すべての言葉が行動と共にありました。」

友人は、“人々が言葉よりも行動を信じる”農村コミュニティを率いる上で、サーバント・リーダーシップは、憎しみや敵意の境界線を打ち破る効果的なツールだと考えており、再び日常が戻ったら、持続可能な自給自足のコミュニティ・モデルを自分の地域に作りたいという夢を持ち続けている。
自分が困難な状況にありながら、なお人は他者を助けることができるという彼の姿勢に、私は大いに勇気づけられている。


文:阿部 真希子(募金・国内事業補佐 / コミュニティナース)
英文校正:スティーブン・カッティング(卒業生アウトリーチ)


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