皆さんは、アジア学院の学生たちがどのような過程を経て、日本に来るかご存知ですか?
アジア学院では現在、キャンペーンの一環として、学生たちのアジア学院までの道のりを追うシリーズを、4回に分けて連載しています。
シリーズ第3弾は、2023年の卒業生、ピエールとその送り出し団体、ハイチの会の岡 智子さんです。
アジア学院の研修生は、全員が所属団体を通して応募をする決まりがあり、卒業後も同じ団体で働きます。そのため、実際に来日して研修に参加する学生だけでなく、送り出し団体もまた、多く努力と支えの末に、所属するスタッフを送り出しているのです。
普段なかなか知ることのない、学生たちと共に働く、送り出し団体の方々の思いも、ぜひ知ってください。
【ピエール(2023年卒 ハイチ)と岡 智子さんの場合】
ハイチ共和国という国をご存知だろうか?
ハイチは、カリブ海に浮かぶ、イスパニョーラ島西部を占める共和制国家である(ちなみに島の東部はドミニカ共和国)。コロンブスが美しいと絶賛したこの島は、今も美しいビーチが広がり、カリブ海のクルーズ船が立ち寄る人気スポットもあるが、ハイチの会の事務局長、岡 智子さんによると、この国には2つの顔があるという。
歴史に紐づいた、ハイチの抱える諸問題
「ハイチ」という国の名称は島の先住民の言葉で「山々の国」という美しい意味をもつが、50万人いた先住民は、スペイン人の侵略で銀採掘に酷使されて全滅した。その後、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが、長きにわたる労苦の末、1804年にナポレオン軍を打ち破り、フランスからの独立を勝ち取った歴史を持つ。世界史上初の黒人共和国の誕生だ。しかし、フランスは独立と引き換えに、ハイチに1億5千万フランもの賠償金を要求し、ハイチは1922年完済という長期にわたる借金返済で財政破綻した。さらに独立後も強国からの干渉は続き、アメリカによる占領、クーデター、そして今も続く政権争いでハイチ国民の生活は疲弊している。
かつては美しかった山々は、スペイン、フランスの植民地支配の下、コーヒーやサトウキビのプランテーションを作るために、大規模な森林伐採が行われ、18世紀には森林が元々の1.5%ほどに、そして現在、残存する森林はわずか1%にも満たないという。このことによって土地が荒廃し、畑は雨のたびに表土が流され作物も育たなくなった。また地理的にハリケーンの通り道であり、自然災害も後を絶たない。
当然、これらのことは市民の生活に大きな影響を与えている。会のウェブサイトに書かれた以下の文章に、私は並々ならぬ衝撃を受けた。
“…例えば、日曜日に「さあ何か食べよう」と思って家の中を見渡し、コーヒーを飲みます。1日に口にするのはそれだけ。そしてみんなで会話するのです。「そういえば、肉を最後に食べたのはいつだったっけ?」と。”
「農業で今日のいのちを守り、教育で明日のハイチを育てる」
ハイチの会は、ハイチ共和国の貧しい子どもたちへの識字教育、生活指導、地域の人々の生活向上を目的として、1986年に中野瑛子さんによって創立された。元々は、当地に派遣された、中野さんの幼稚園の恩師、本郷シスターの活動支援が目的だったそうだ。
アジア学院に初めての学生を派遣したのは、2001年のこと。本郷シスターの「ハイチ人が自立して農業で食べていかれるように、リーダーに成れる人を推薦するので研修できる場所を日本国内で探してください。」という求めを受け、キリスト教関係の方がハイチには適していると思い、中野さんがアジア学院に決めたという。
エグジルという、そのスタッフは大変優秀で、卒後、活動地に戻り、KFP(Kominote Familyal Peyizan / 住民家族共同体)を創立。約100-200世帯 を対象に、食べること(農業と給食)と学ぶこと(小学校の運営)を主軸に活動している。その後継者として2023年に派遣されたのが、ルイ・テア・ピエールだった。真面目でコツコツと働き、向学心のある彼は、現地のスタッフのお墨付きだったという。
当時、治安の悪化でハイチの日本大使館は閉鎖しており、ピエールはビザ申請のために隣国のドミニカ共和国に行かなければならなかった。ドミニカ共和国には、以前、研修で行ったことがあったが、当時空港は閉鎖しており、国境を通過するには、首都から出ているバスに乗るしか方法がなく、交通費も普段よりも値上げしていた。ギャングが横行し、無法地帯となっている首都に行くのは、大変勇気のいることだった。大きなスーツケースを持って移動をしていると金持ちだと思われて危険な目に遭うので、岡さんたちは、できるだけ小さなカバンで来日するようにピエールに話した。実際、日本に向かう時、彼は今までの人生で手にしたことのないような大金を携えていた。
大冒険はまだ続く。不法滞在者が多い開発途上国の者は、アメリカ合衆国の経由ビザを取ることが難しく、ドミニカ共和国からメキシコ経由で、日本に渡る必要があった。
今でこそ、流暢な英語を話すが、母語はフランス語系のため、英語が話せなかったというピエール。ハイチの会のスタッフ一同、彼が日本に入国するまで気が気ではなかったという。メキシコでの乗り換えの折、ロストバゲージで荷物が取り残されてしまったが、とにかく本人は無事に日本の地に降り立つことができた (荷物の中身はエグジルが用意したお土産で、ひまし油が数本入っていた…)。
ハイチの人は、日曜日に教会に行く時、最も上等な服を着る文化を持つが、ピエールも来日の道すがら、送り出し団体からの準備金で服やカバンを新調した。このエピソードからも、日本に行くことが、彼の人生において、どれだけ特別で一大イベントだったか伺える。現に彼は、今でも来日した日や入学式の日付を正確に覚えている。
アジア学院での自己変容
ずっとアジア学院の卒業生と仕事をしてきたが、アジア学院に到着したとき、ピエールは、これから何が起こるか全く予測ができていなかった。まず彼が直面したのは、言葉の壁、そして、異なる文化背景を持った人々との生活だった。
「文化も背景も食べ物も…全てが違う人たちと、一体どうやったら折り合えるのかと思ったね。これは本当に難しかった。」
彼は、人々の予期せぬ態度に対して、いつも苛立っていたと言う。しかし、当時校長だった荒川朋子さんの、ある授業をきっかけに、自分自身を振り返り、クラスメイトやボランティア、ビジターたちに、自分から手を差し伸べ、手助けをするようになったという。この経験は、今も仕事をする上で、大いに役立っているようだ。
未来への種まき
国に帰って1年4カ月ほど経ち、今、彼は学院での学びを生かした、2つの活動を考えていると話してくれた。1つは、マヨネーズ作りや石鹸作りといった、人々が収入を得るための技術を教えること。そして、もう1つは地元の農家や中学生を対象とした有機農業の研修や、森林保護を目的とした環境教育だ。学院で学んだ技術を、コミュニティで実践し、目に見える成果を出すことは一朝一夕でできることではなく、資金の問題もある。恐らく、ここ数年が一番の踏ん張りどころだろう。
また、日本のスタッフも大きな課題に直面している。2021年にモイーズ大統領が暗殺されて以来、大統領が不在のままのハイチ。代わりに国政の舵をとった首相に対する国民の不満が爆発し、多くの地域がギャング集団たちの支配下に置かれ、首都の治安状況も著しく悪化した。日本の外務省は日本人に対する退避勧告を発令し、以来、ハイチの会の日本人スタッフが活動地を訪ねることも出来ないでいる。このような制限がある中でも、会の活動は途絶えることなく、現地と日本のスタッフの深い信頼関係のもとに存続している。
今回インタビューをさせていただいた、ハイチの会の事務局長 岡 智子さんは、4人の子供を抱え、昼間は教員として働き、午前2時からの時間を会の活動に充てているそうだ。その時間が現地と最も連絡が取りやすいのだと話されるが、そのような情熱を持ってハイチの人々を支援されている理由を聞いてみた。
「私は食べ物や教育を受けるチャンスに恵まれてきました。このありがたさをそうでない人たちのために役立てたいという気持ちが基になっています。そしてかつてハイチで滞在していた時、ハイチの人が食事1皿を数人で回してみんなで分けていただいていたり、日が暮れて周りが暗くなると国連軍の外灯に若者が集まって必死に本を読んでいたりした姿を見ました。ハイチという国と縁があって出会い、一緒に生きていく仲間だと感じているからです。」
追記:コミュニティの近況
4月4日、岡さんから一通のメールを受け取った。
ここ1週間ほどの間に、首都で暴れまわっていたギャング集団がピエールたちのコミュニティから40-50km離れた隣町にまで勢力を拡大させ、多くの住民が家を捨てて、避難してきているそうだ。ピエールやエグジルは、「KFPは貧しい人を助ける団体だから避難者たちを見過ごすことはできない。」と日本のスタッフにサポートを要請。連日、話し合いを重ね、救済準備を進めているところだという。
岡さんの言葉が印象的だった。「ピエールもKFPも日々の生活が懸命な状態なのに、自分よりもっと深刻な状況の人たちを助けようとしています。」
どうぞ心にとめて、祈ってほしい。
彼らが額に汗して蒔く種が、ハイチの地で豊かに実を結び、多くの新たな農村コミュニティリーダーたちが誕生する未来を願うばかりだ。
ハイチの会についてもっと知りたい方、彼らの活動への支援はこちら
ウェブサイト:https://haitinokai.wixsite.com/-site



ハイチの農村の一般的なスタイル。


シリーズ記事はこちら
【ご存知ですか?農村コミュニティリーダーたちのグレイト・ジャーニー】①