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農村指導者たち

卒業生アウトリーチ
スティーブン・カッティングによるブログ

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5ドルの釘代

5ドルの釘代

これは、サヴンがアジア学院から帰国してわずか数ヶ月後に、私と交わした会話だ。彼がいかに喜び、そして真摯に「地域資源(ローカル・リソース)」を活用しているか——これこそが我々がアジア学院で強調して教え、実践している原則なのだが——その姿を見て、私は嬉しくてたまらなかった。彼は間違いなく、その教えを自らの血肉にしている。よくやった、サヴン! サヴン: 「これが僕の鶏舎です。まずは鶏12羽、アヒル15羽、そして雛50羽から始めました。日本から帰ってきてすぐにこの小屋を作ったんです。エサには、自宅の台所や市場の食堂から出る残飯を集めて使っています。」 私(スティーブン): 「素晴らしい! まさに『地域資源』の活用だね! 誇りに思うよ。この小屋も地元の木材を使っているんだね。実に見事な出来栄えじゃないか!」 サヴン: 「はい、すべて身近にある資源です。…ただ、釘を買うのに5ドルだけ使っちゃいましたけど。」 サヴン・サヴ (2025年アジア学院卒業生/カンボジア)

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「私はこの学校(アジア学院)を、『学びほぐし』、『学び』、そして『学び直し』の場所と呼んでいます。

「私はこの学校(アジア学院)を、『学びほぐし』、『学び』、そして『学び直し』の場所と呼んでいます。

なぜなら、私はここで多くの新しいことを学んだ一方で、過去に学んできたことを見つめ直し、その妥当性を問い直し、得てきた知識を再構築しなければならなかったからです。そうして初めて、その知識は今の世界に真に適用できるものとなったのです。 シュスメ・“スシュ”・マラク (2024年アジア学院卒業生/インド、メガラヤ州) 『Hill Myrna Magazine』2026年1月号 「My Days of Learning at the Asian Rural Institute」より引用

in 11 Second Reads
「アジア学院は私たちに『答え』を与えてくれる場所ではなく、『問い』を与えてくれる場所です。生涯追い求めなければならない大切な『問い』を。」

「アジア学院は私たちに『答え』を与えてくれる場所ではなく、『問い』を与えてくれる場所です。生涯追い求めなければならない大切な『問い』を。」

伊藤 幸史(2006年アジア学院卒業生/日本) 2025年12月 アジア学院 朝の集いにて

in 11 Second Reads, Japan
山々に刻まれた足跡

山々に刻まれた足跡

インド – スーレンダー・シン 1989年 アジア学院卒業生 / 1996年 研究科生 もしあなたがインド北部のウッタラーカンド州へ行き、彼の元を訪ねることがあれば、きっとトレッキングに誘われることだろう。誘いに乗れば、雪に覆われたヒマラヤ山脈の絶景を眺めながら、山歩き以上の体験ができることは間違いない。それは彼の人生をめぐり、農村におけるリーダーシップの教訓を学ぶ旅でもある。 アジア学院でシンさんと呼ばれていた彼は、42年間にわたり、この険しい山道に足跡を残してきた。彼はすべての村と家族について熟知している。ある家に着くと、彼は住人の名を呼び、声をかける。住人はお茶を淹れて彼を歓迎し、彼はバッグからバナナやビスケットを取り出して、分け合いながら長いこと話をしするのだ。 彼は、「(自身が現代表を務めるマスーリ村開発委員会で)村に水道管を建設している間、この家で寝泊まりしていたんだ」とか、「24年前に(同団体が)山の子どもたちのために建設した学校を、この家の子どもたちも卒業したんだ」などと話してくれるかもしれない。女性たちの自助グループや、彼女たちが有機農業の訓練を受け、今では農産物を売って生計を立てていることについても、きっと話してくれるだろう。トレッキングを終える頃には、きっとあなたも、この山で彼が触れなかった魂は存在しないと感じるはずだ。 スーレンダーは自分のことを「根っからの地元っ子(very local boy)」と呼ぶ。「私は山の村で生まれたんだ。」共に歩いていると、彼は我々の道と交差する細い道を指差しては、それらがどこへ通じているのか、その先に誰が住んでいるのか、そして人々を助けるために自分が何をしたのかを話してくれた。彼の言葉を噛みしめているうちに、私は高見先生がアジア学院を創設した時に成し遂げたかったことが分かってきたような気がした。高見先生は、「彼らを助けよう」とか問題を解決してやろうという考えで、世界の貧しい地域へ行ったわけではない。全くその逆だ。そうした場所へ赴いた時、先生はそこに才能と献身、そして希望に満ち溢れた素晴らしい人々がいることを発見したのだ。先生はこの人々を「農村指導者たち(Rural Leaders)」と呼んだ。私の想像の中では、先生はこう言っている。「この人たちは私よりもずっとより良く、人々のために尽くすことができる。ならば、私はこの人たちのために何ができるだろうか。」―そうしてアジア学院を始めたのだ。 もちろん、当時の高見先生の真意は量りかねるが、スーレンダーのような卒業生に一人一人会い、彼らの物語を聞くたびに、私はアジア学院のエッセンス、高見先生の夢の神髄に触れているような気がする。この感覚を表現するのは難しいが、これだけは言える。我々がアジア学院で行っていること―それは、確実に実を結んでいる。 山々に刻まれた足跡 スティーブン・カッティング 著アジア学院 卒業生アウトリーチ課

in Graduate Vignettes, India
農民であるリーダー

農民であるリーダー

マラウイ – エネット・ンカシクワ 2013年 アジア学院卒業生 卒業生たちは、実に様々なやり方で、アジア学院での学びを自分のコミュニティに導入している。私がよく目にするアプローチの一つは、学んできた有機農法を用いて自分の畑で農業をするという方法だ。これは単純すぎるように聞こえるかもしれないが、何が起きるか説明しよう。日を追うごとに、近所の人々がその農場の脇を通りかかる際、「日本へ行ったあいつは、なんだか違うことをやっているぞ。」と気付き始める。人々は警戒しつつも、好奇心に満ちた視線を送り続けるのだ。やがて作物の育ちが良いことが分かってくると、彼らは何気ない風を装って歩み寄り、こう尋ねる。「なあ、どうしてあんたの作物はそんなに立派なんだ?」これこそが決定的な瞬間であり、教え始めるための「入り口」だ。なぜなら、相手は何か新しいことを学ぶ準備ができている状態にあるからだ。私はこの巧みな術を使う卒業生を「ファーマー・リーダー」と呼んでおり、マラウイの卒業生、エネット・ンカシクワ(2013年度卒)もその一人だ。卒業後、彼女が最初に育成したのは夫のスティーブンで、すぐにニ人で堆肥とボカシ肥を作り始め、化学肥料の購入をやめた。最初は収穫量が減ったが、三年目には以前よりも多くの収穫を得た。「エネットが僕を変えたんだ!」とスティーブンは言う。 彼女が変えたのは夫だけにとどまらなかった。近所の人たちはエネットの畑を見て驚き、何をしているのか尋ねた。エネットは、アジア学院で学んだ堆肥やその他の有機農業の技術を村人たちに教え、人々もまた自分たちの畑でそれらを試し始めた。ほとんどの人が家畜を飼っているので、質の良いコンポストを作るための糞尿は至る所にあった。以前、それらはただ捨てられていたが、今やそれは貴重な「商品」へと変わった。中には、それを販売し始める者まで現れたのだ。エネットと彼女の家族が営む小さな農場は、コミュニティに大きな影響を与えている。 エネットが帰国後、真っ先にアジア学院での学びを分かち合ったもう一人の人物は、親友のエスター・ルバニであった。エネットは彼女を「農家第一号」と呼んでいる。エネットの指導のもと、エスターはミルク、肉、そして…「糞尿」を得るためにヤギの飼育を始めた。ヤギたちは、床を高くした手作りの小屋で飼われている。ヤギを地面から離して飼うのは衛生的であるし、板の間に意図的に作られた隙間から下に落ちる糞を回収しやすくするためでもある。農家が市販の肥料に頼るのをやめたかどうかは、家畜の糞尿をどれだけ大切にしているかですぐに分かる。エスターは現在45頭のヤギを飼っており、その堆肥をトウモロコシ畑に使用している。収穫量の改善は予想よりも早く現れた。今年は干ばつに見舞われたにもかかわらず、彼女は2エーカーの土地から92袋ものトウモロコシを収穫したのだ。彼女は、家の中に積み上げられた、今にもはち切れそうなほど詰まった袋を誇らしげに見せてくれた。近所の人々もこれに注目し、雨が少なかったのになぜこれほどの豊作を得られたのかを知ろうと、彼女のもとを訪ねてきている。 エスターは、エネットが「村にいながらにして生活を向上させてくれた」ことに深く感謝している。「エネットの手法を試すのに、ためらいはありませんでした」とエスターは説明する。「なぜなら、彼女自身が自分の畑で、全く同じことを実践していたからです」。エスターのこの最後の言葉は、「ファーマー・リーダー」がいかにコミュニティに対してポジティブな影響力を与えることができるかを私に教えてくれた。それは、実に強力なアプローチだった。 農民であるリーダー スティーブン・カッティング 著アジア学院 卒業生アウトリーチ課

in Graduate Vignettes, Malawi
私の国では…

私の国では…

先日フィリピンを訪問した際、2人のアジア学院卒業生(共に聖公会の司祭)と、1人の元アジア学院スタッフと共に夕食を囲む機会があった。予想通り、会話はアジア学院での思い出で埋め尽くされた。「アジア学院にいた時は……」という言葉で始まらない文はないほどだった。 私はこうした話に決して飽きることがない。一つひとつの物語は個性的だが、それらを繋ぎ合わせると、学生の目を通したアジア学院の全体像が浮かび上がってくる。また、それらの話は、アジア学院の生活を経験した人たちにとって、アジア学院がいかに愛おしく、尊いものであるかを物語っている。20年、30年という月日が流れてもなお、大切にされ続けている時間なのだ。 しばらくして、そのうちの一人がくすりと笑って言った。「アジア学院にいた時、我々はよく『私の国では…』と言い合ったものだ。でも今、故郷に戻った我々は『アジア学院にいた時は…』と話している。」本当にその通りだ。 その言葉を聞いて、私はずいぶん昔に書いた、ある記事を思い出した。ある一種、私自身のアジア学院の思い出でもある。タイトルは『私の国では…(In My Country…)』だった。それをここに引っ張り出してきても、構わないだろうか。その記事が発表されたのは20年も前だが、そこに書かれていることのすべてが、今もなお真実であり続けている。その事実に、私は安らぎを覚えるのだ。 私の国では… アジア学院 英語版ニュースレター『Take My Hand』2006年12月号より転載 「私の国では、収穫の時に稲の穂先だけを切り落とします。そうすれば、同じ株から二度目の収穫ができるからです。それから、こんな風に吊るして、石に叩きつけて脱穀します。」 —— タンザニア 「私の国には湿地帯の低地があって、そこで魚を育てています。川の水を池に引き込むことで、常に水が入れ替わり、清潔に保たれる仕組みになっているんです。」 —— シエラレオネ 「私の故郷では、家族の中に妊婦がいると、ラムカレーを作って届ける習慣があります。」 —— スリランカ 「私の村では、隣の家の人と話をしに行きたい時に、そのままふらっと入っていけるんです。鍵のかかったドアなんて、一つもありませんよ。」 —— リベリア 「私の国では…。」一歩、アジア学院のキャンパスに足を踏み入れれば、この言葉を耳にするまでそう時間はかからない。しかし、その本当の価値を私が理解するようになったは、つい最近のことだ。おそらくそれは、私がこれまで各地を広く旅し、その言葉を何度も聞いてきたからだろう。だが、これまでの旅先での私は「観光客」、つまり単なる訪問者に過ぎなかった。しかし、アジア学院の学生たちは観光客ではない。「草の根のリーダー」なのだ。学生たちが、お互いの生活様式について語り合うとき、それは単なる世間話にとどまらない。それは、真の意味での「教え、学び合う」という行為そのものなのである。 つい先日、ナミビアとモザンビークから二人のジャーナリストが訪ねてきた。同じアフリカ大陸の仲間と過ごす貴重な機会を逃すまいと、アフリカ出身のほぼ全員の学生が、この二人との昼食に合流した。会話は熱を帯び、主に政治やそれぞれの国の行く末について語り合われた。そこでもやはり、「私の国では」という言葉が数え切れないほど飛び交っていた。ある学生は、戦争の傷跡からいかに国を再建するかを語った。別の学生は、雇用機会の拡大や、起業に向けた人々の意欲向上や育成に取り組んでいることを共有した。教育や持続可能な農業について語る学生もいた。誰もが自らの経験—成功、失敗、そして未来への構想も—を分かち合おうと必死だった。食事の途中で私は、ふと一歩引いて、その光景を眺めてみた。そして、目の前で繰り広げられているこの情景がいかに素晴らしいものであるか、その衝撃に胸を打たれたのだ。 それはまさに、一つの国際会議だった。リベリア、シエラレオネ、カメルーン、ベナン、タンザニアの5カ国から集まった代表者に、ナミビアとモザンビークからのゲストを加えた「アフリカ議会」がそこにあった。しかし、そこにいたのは政府高官でも官僚でもない。ごく普通の、民衆だった。普段なら、政府の意思決定プロセスから真っ先に除外されてしまうような人々だ。彼らは実在する人々であり、自分たちの生活に直結する「現実の課題」について語り合っていた。だが、さらに観察を続けるうちに、私は気づいた。この人たちは決して「普通の人々」などではない。深い慈愛と強い決意を持った、「非凡な人々」なのだと。学生たちの口から、出世したい、金を稼ぎたい、海外へ移住したいといった利己的な欲望が語られることはなかった。彼らが語っていたのは、同胞たちのより良い未来であり、その実現のために人々と肩を並べて働きたいという、切なる願いだった。 アジア学院での議論に加われば、「私の国では…」という言葉が、単なる始まりに過ぎず、実はそれが、次なる一歩を踏み出すための出発点であることに気づくはずだ。話し手がいかに自分の国が他と異なるかを説明しようとする一方で、聞き手はその語りの中からしばしば共通点を見つけ出す。学生や卒業生の多くは、全く同じ課題に向き合っているからだ。例えばあるリベリア人が、ホームレスの子どもたちのためのNGOを運営するネパール人にこう問いかける。「あなたの国にもストリートチルドレンがいるのか。 その子たちは孤児なのか、それとも家出をした子なのか。 どのように子どもたちを助けているのか。」また、ベナン人の司祭は次のような疑問を投げかける。「森林再生にはどのように取り組んでいるのか。保水力を高めるために木が必要だが、その木を植えるための水もまた必要だろう。」それに対し、森林再生の経験を持つフィリピン人女性が、「私たちは苗木を準備しておき、雨季の始まりとともに移植する。」と説明すれば、アジア学院スタッフが「在来種の木を植えれば、通常は根の成長が早く、短期間で地下水まで到達する。」と付け加える。さらに、シエラレオネ人がスリランカのタミル人に、「紛争地域でどうやって活動を続けているのか。」と尋ねる場面もある。両国とも長年にわたる血塗られた内戦を経験してきた。彼は、「紛争地域」は自分の故郷であり、そこにいるのは自分の同胞なのだと答える。彼は食べ物を育てるために、その人々と共に働く。人々はお腹を空かせており、弾丸を食べて生きることはできないのだ。 アジア学院は、草創期の頃から「学びの共同体」と呼ばれてきた。ここは、誰もが教師であり、同時に学生でもある場所だ。この教育環境は、「学生」はそれぞれの分野の「専門家」から教えを受けるべきだと考える人々にとっては、意外なものに映るだろう。だが実のところ、アジア学院が実践しているのは専門教育そのものだ。ただ、その「専門家」たちが必ずしも博士号を持っているとは限らない。我々が言う「専門家」とは、乾季の食糧不足のさなか、いかにして子どもたちに栄養のある食事を与えるかという術を見出した母親たちのことだ。我々が言う「専門家」とは、戦争や輸出作物の価格暴落によって国家経済が完全に崩壊してもなお、食糧を生産し続ける農民たちのことである。学生たちは、生涯をかけて築き上げた経験と知識をその身に携えてやってくる。我々の研修は、学生たちがそれぞれのコミュニティで、より効果的に活動するための能力を広げる役割を果たす。一方で、その経験がこの共同体で共有されることは、我々の研修の質をさらに高めることになる。この共生関係こそが、アジア学院という非凡な組織を形作る数多くの要素の一つなのだ。 私の国では… スティーブン・カッティング 著アジア学院 卒業生アウトリーチ課 これらの2006年のアジア学院コミュニティの写真は、アジア学院アーカイブから引用した。扉の写真は、シエラレオネ出身のジョン・チャールズ・アンスで、アジア学院では単に「チャールズ」として親しまれていた。彼は2024年に逝去し、彼が生涯にわたり奉仕した多くの農村コミュニティから深く惜しまれている。

in Reflections
ウッタラーカンド 22日目

ウッタラーカンド 22日目

最後の夜
詰め込まれた3週間が過ぎ、帰国の時が来た。フライトは今夜遅くだ。今日は、これまでの歩みを振り返り、蓄積された膨大なメモを整理する「減圧」の一日に充てよう。朝食にはカレーとイドゥリ、そしてドーサを食べた。ようやくインド料理の見分けがつくようになってきた。昼食はチキンマサラ、そして夕食は…中華風のセサミチキンだった。 ホテルの部屋の窓から外を眺めると、いくつかの空き地が見えた。多くの土地ではホテルの建...

in Travelogues, India, 南インドとウッタラーカンド
ウッタラーカンド 21日目

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マイトリ・ファーム
今朝の朝食はサンドイッチで、涼しい庭で皆といただいた。昨晩泊まっていた大学生も加わったが、彼はすぐに授業へと出かけていった。片道10kmほどの道のりを自転車で通っているそうだ。彼はとても静かな青年で、全然話す機会がなかったが、知り合う価値のありそうな人に見えた。 ハリシュは、自分の「マイトリ・ファーム」とそこで育てている植物を案内したくてたまらない様子だった。コテージも周囲の庭も、すべて彼自身のデ...

in Travelogues, India, 南インドとウッタラーカンド
ウッタラーカンド 20日目

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色とりどりのお店
朝食後、我々は協同組合の人々に会うために出発した。道中、沿道で木の枝を切り、整えている地元の人々の横を通り過ぎた。道はマヒンドラ車で溢れ、ある急カーブには小さな寺院が立っていた。おそらく、そこで起きた重大な事故をきっかけに建てられたものだろう。ほどなくして町に到着し、驚くほど立派で大きな階段の近くに車を停めた。階段を上がると小さな店があり、そこはレモングラスの香りに包まれ、製品の豊かな色彩で輝いて...

in Travelogues, India, 南インドとウッタラーカンド
ウッタラーカンド 19日目

ウッタラーカンド 19日目

次なるドライブ旅行!
朝食の時、リタとスーレンダーが、訪問の記念に二人のサインが入った本を贈ってくれた。それは『パボリに水』という、MGVSの歴史を記した一冊だった。読み進めてみると、このMGVSの歴史こそがスーレンダーの人生そのものであることが分かり、彼がこの本を私に持っていてほしいと願った理由が腑に落ちた。 その後、スーレンダーは私をアケタ・ホテルまで送り届けてくれた。そこではハリシュ・チョタニ(1981年アジア学...

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