
私の国では…
先日フィリピンを訪問した際、2人のアジア学院卒業生(共に聖公会の司祭)と、1人の元アジア学院スタッフと共に夕食を囲む機会があった。予想通り、会話はアジア学院での思い出で埋め尽くされた。「アジア学院にいた時は……」という言葉で始まらない文はないほどだった。 私はこうした話に決して飽きることがない。一つひとつの物語は個性的だが、それらを繋ぎ合わせると、学生の目を通したアジア学院の全体像が浮かび上がってくる。また、それらの話は、アジア学院の生活を経験した人たちにとって、アジア学院がいかに愛おしく、尊いものであるかを物語っている。20年、30年という月日が流れてもなお、大切にされ続けている時間なのだ。 しばらくして、そのうちの一人がくすりと笑って言った。「アジア学院にいた時、我々はよく『私の国では…』と言い合ったものだ。でも今、故郷に戻った我々は『アジア学院にいた時は…』と話している。」本当にその通りだ。 その言葉を聞いて、私はずいぶん昔に書いた、ある記事を思い出した。ある一種、私自身のアジア学院の思い出でもある。タイトルは『私の国では…(In My Country…)』だった。それをここに引っ張り出してきても、構わないだろうか。その記事が発表されたのは20年も前だが、そこに書かれていることのすべてが、今もなお真実であり続けている。その事実に、私は安らぎを覚えるのだ。 私の国では… アジア学院 英語版ニュースレター『Take My Hand』2006年12月号より転載 「私の国では、収穫の時に稲の穂先だけを切り落とします。そうすれば、同じ株から二度目の収穫ができるからです。それから、こんな風に吊るして、石に叩きつけて脱穀します。」 —— タンザニア 「私の国には湿地帯の低地があって、そこで魚を育てています。川の水を池に引き込むことで、常に水が入れ替わり、清潔に保たれる仕組みになっているんです。」 —— シエラレオネ 「私の故郷では、家族の中に妊婦がいると、ラムカレーを作って届ける習慣があります。」 —— スリランカ 「私の村では、隣の家の人と話をしに行きたい時に、そのままふらっと入っていけるんです。鍵のかかったドアなんて、一つもありませんよ。」 —— リベリア 「私の国では…。」一歩、アジア学院のキャンパスに足を踏み入れれば、この言葉を耳にするまでそう時間はかからない。しかし、その本当の価値を私が理解するようになったは、つい最近のことだ。おそらくそれは、私がこれまで各地を広く旅し、その言葉を何度も聞いてきたからだろう。だが、これまでの旅先での私は「観光客」、つまり単なる訪問者に過ぎなかった。しかし、アジア学院の学生たちは観光客ではない。「草の根のリーダー」なのだ。学生たちが、お互いの生活様式について語り合うとき、それは単なる世間話にとどまらない。それは、真の意味での「教え、学び合う」という行為そのものなのである。 つい先日、ナミビアとモザンビークから二人のジャーナリストが訪ねてきた。同じアフリカ大陸の仲間と過ごす貴重な機会を逃すまいと、アフリカ出身のほぼ全員の学生が、この二人との昼食に合流した。会話は熱を帯び、主に政治やそれぞれの国の行く末について語り合われた。そこでもやはり、「私の国では」という言葉が数え切れないほど飛び交っていた。ある学生は、戦争の傷跡からいかに国を再建するかを語った。別の学生は、雇用機会の拡大や、起業に向けた人々の意欲向上や育成に取り組んでいることを共有した。教育や持続可能な農業について語る学生もいた。誰もが自らの経験—成功、失敗、そして未来への構想も—を分かち合おうと必死だった。食事の途中で私は、ふと一歩引いて、その光景を眺めてみた。そして、目の前で繰り広げられているこの情景がいかに素晴らしいものであるか、その衝撃に胸を打たれたのだ。 それはまさに、一つの国際会議だった。リベリア、シエラレオネ、カメルーン、ベナン、タンザニアの5カ国から集まった代表者に、ナミビアとモザンビークからのゲストを加えた「アフリカ議会」がそこにあった。しかし、そこにいたのは政府高官でも官僚でもない。ごく普通の、民衆だった。普段なら、政府の意思決定プロセスから真っ先に除外されてしまうような人々だ。彼らは実在する人々であり、自分たちの生活に直結する「現実の課題」について語り合っていた。だが、さらに観察を続けるうちに、私は気づいた。この人たちは決して「普通の人々」などではない。深い慈愛と強い決意を持った、「非凡な人々」なのだと。学生たちの口から、出世したい、金を稼ぎたい、海外へ移住したいといった利己的な欲望が語られることはなかった。彼らが語っていたのは、同胞たちのより良い未来であり、その実現のために人々と肩を並べて働きたいという、切なる願いだった。 アジア学院での議論に加われば、「私の国では…」という言葉が、単なる始まりに過ぎず、実はそれが、次なる一歩を踏み出すための出発点であることに気づくはずだ。話し手がいかに自分の国が他と異なるかを説明しようとする一方で、聞き手はその語りの中からしばしば共通点を見つけ出す。学生や卒業生の多くは、全く同じ課題に向き合っているからだ。例えばあるリベリア人が、ホームレスの子どもたちのためのNGOを運営するネパール人にこう問いかける。「あなたの国にもストリートチルドレンがいるのか。 その子たちは孤児なのか、それとも家出をした子なのか。 どのように子どもたちを助けているのか。」また、ベナン人の司祭は次のような疑問を投げかける。「森林再生にはどのように取り組んでいるのか。保水力を高めるために木が必要だが、その木を植えるための水もまた必要だろう。」それに対し、森林再生の経験を持つフィリピン人女性が、「私たちは苗木を準備しておき、雨季の始まりとともに移植する。」と説明すれば、アジア学院スタッフが「在来種の木を植えれば、通常は根の成長が早く、短期間で地下水まで到達する。」と付け加える。さらに、シエラレオネ人がスリランカのタミル人に、「紛争地域でどうやって活動を続けているのか。」と尋ねる場面もある。両国とも長年にわたる血塗られた内戦を経験してきた。彼は、「紛争地域」は自分の故郷であり、そこにいるのは自分の同胞なのだと答える。彼は食べ物を育てるために、その人々と共に働く。人々はお腹を空かせており、弾丸を食べて生きることはできないのだ。 アジア学院は、草創期の頃から「学びの共同体」と呼ばれてきた。ここは、誰もが教師であり、同時に学生でもある場所だ。この教育環境は、「学生」はそれぞれの分野の「専門家」から教えを受けるべきだと考える人々にとっては、意外なものに映るだろう。だが実のところ、アジア学院が実践しているのは専門教育そのものだ。ただ、その「専門家」たちが必ずしも博士号を持っているとは限らない。我々が言う「専門家」とは、乾季の食糧不足のさなか、いかにして子どもたちに栄養のある食事を与えるかという術を見出した母親たちのことだ。我々が言う「専門家」とは、戦争や輸出作物の価格暴落によって国家経済が完全に崩壊してもなお、食糧を生産し続ける農民たちのことである。学生たちは、生涯をかけて築き上げた経験と知識をその身に携えてやってくる。我々の研修は、学生たちがそれぞれのコミュニティで、より効果的に活動するための能力を広げる役割を果たす。一方で、その経験がこの共同体で共有されることは、我々の研修の質をさらに高めることになる。この共生関係こそが、アジア学院という非凡な組織を形作る数多くの要素の一つなのだ。 私の国では… スティーブン・カッティング 著アジア学院 卒業生アウトリーチ課 これらの2006年のアジア学院コミュニティの写真は、アジア学院アーカイブから引用した。扉の写真は、シエラレオネ出身のジョン・チャールズ・アンスで、アジア学院では単に「チャールズ」として親しまれていた。彼は2024年に逝去し、彼が生涯にわたり奉仕した多くの農村コミュニティから深く惜しまれている。


