2025年 2月11日 火曜日
南インド & ウッタラーカンド州 編
バブ神父
今日も素晴らしい一日だ。本日最初の予定外の仕事は、バブ神父に会うことだった。彼はアジア学院の誰かがこの街に来ているという噂を聞きつけ、わざわざウーティから会いに来てくれたのだ。ウーティ(Ooty)。これもまた口にするのが楽しい名前だ。「おっと(Oops)」の「ウー(Oo)」の末尾に「ティー(ty)」をつける。どうやら人気の観光地らしい。
バブ神父は、父親の跡を継いで薬草医学を実践し、教えているカトリックの司祭だ。実際、彼は公認の自然療法士でもある。彼は、自然療法はアーユルヴェーダよりもさらに伝統的なものなので、混同しないようにと注意を促した。伝統的な農家の出身である彼のダイナミックな半生には、WSSSで農業に従事した経験や、マイソールの村人たちと小屋で暮らしながら活動した時期も含まれる。少し前にはローマで3年間、トラウマの癒やしと愛のカウンセリングを学んだという。現在はタミル・ナードゥ州の三つの教区を受け持っている。彼の穏やかな顔を見つめ、その物語を聞いていると、彼が生涯にわたって行っている、この世における平和と癒やしの探求、そしてその中での自身の役割に対する、深い信念が垣間見えた。
プットゥ
バブ神父はシビ、ナラン、そして私と共に、カレーを添えたプットゥの朝食を囲んだ。これが何かと聞かれても、私は答えるのに最適な人間ではない。毎食、自分が何を食べているのか、いまだによく分かっていないからだ。だが、味は素晴らしい。ほんのり甘く、ココナッツの風味がするプットゥはケララ州の名物料理だ。皿に盛り、押しつぶし、上からソースをスプーンでかけて楽しむ。
手で食べる技術も、少しずつ上達してきた。品がなく見えないように食べるのは、皆さんが想像する以上に難しいことだ。そこにはマナーとエチケットがある。まず、当たり前だが、せっけんで手をきれいに洗う。汚れたスプーンで食べる者がどこにいようか。どのレストランにも家庭にも、ダイニングの近くには手洗い場がある。料理が出されたら、まずはその美しさを愛で、それから「食べる戦略」を立てる。指先だけを使い、できるだけ第一関節より下でカレーとお米、あるいは皿の上の他の料理を混ぜ合わせ、ちょうど良い味の組み合わせを作る。戦略が必要なのは、それぞれのカレーに味わうべき明確な個性があるからだ。私がやってしまったように、決してすべてを混ぜこぜにしてはいけない。一口大の塊を作り、口に放り込む。食べ物だけを入れ、唇より先に指を入れてはならない。また、使うのは片手だけだ。両手を汚してしまっては、どうやって飲み物を飲み、あるいは今の時代、電話に出るというのか。肉や魚がある場合は、骨から直接かじりつくのではなく、(片手を使って)一口サイズに引きちぎってカレーに混ぜるのが作法だ。食べ終わったら、全員が済むまで会話を楽しむ。その間、手は皿の上にかざし、まるで役に立たない付属物であるかのように何にも使わずにおく。技術が高ければ高いほど、この時点での手はきれいなままだ。最後に、再び手洗い場へ向かう。
スプーンを差し出されることも多かったが、どうもしっくりこなかった。インドで、インドの友人たちに囲まれてインド料理を食べているのだ。これは手で食べるべきだろう。
非公式教育
朝食後、我々は「ソリダリティ」へと戻った。昨日約束した話の続きをしよう。ソリダリティが設立されたのは1982年だが、ナランのアディヴァシとの働きはそれ以前に遡る。彼らは基礎教育から始めた。彼とその同僚たちは、読み書きを教えるために「森の住人」である人々の家を訪ねて回った。特定のカリキュラムを持つ学校ではなく、アディヴァシたち自身の生活環境の中で出会うこの実践は「非公式教育(ノンフォーマル・エデュケーション)」と呼ばれ、信頼関係の構築に役立った。当時、ワヤナード県の人口の28%がアディヴァシであった。
だが、ちょっと待ってほしい。少し遡って話をする必要がありそうだ。すでに何度か「アディヴァシ」の名を出しているが、この人々はいったい何者なのか。なぜ支援を必要としているのか。正式に答えようとすれば何ページも必要になるし、それらのページはすでに、私よりもはるかに詳しい人たちによって長い記事や書籍として書かれている。したがって、ここでは簡潔かつ不完全な説明にとどめる。
最初の定住者
アディヴァシは、インドの最初の定住者(先住民)であると言われている。その言葉自体、文字通り「根源の居住者」に近い意味を持つ。しかし、その物語は、世界中の先住民族がそうであるように、深く苦痛に満ちたものだ。アディヴァシの文化と伝統によれば、人々は土地と密接に暮らしているが、「土地を所有する」という概念を持たない。大地、川、空気、木々とその根、トラ、ゾウ、ハチ、そしてアディヴァシ。そのすべてがいのちの絡み合いなのだ。彼らは土地の中にあり、土地は彼らの中にある。それは非常に平和なものだった……異なる価値観を持つ人々が登場するまでは。
次に何が起こるかは想像がつくだろう。新参者たちは、自分たちのために土地を欲しがった。所有し、耕し、「生産的」にするためだ。そして彼らは、アディヴァシよりもはるかに強大だった。こうしてアディヴァシは追い出されるか、労働者にさせられた。イギリス人はお茶を植えるために彼らの森を切り開き、アディヴァシはそのお茶のプランテーションで働くことになった。後にコーヒーや胡椒がこの地に入ってくると、それらのプランテーションでも働くようになった。住み慣れた家から立ち退かされた時、彼らには何も残らず、行く当てもなかった。持っていたものはすべて森の中にあったからだ。とどまろうとする者は、何世代も住み続けてきた土地の「不法占拠者」と見なされた。だからこそ、お分かりのように、ナランたちの存在が切実に求められ、なすべき仕事が山積みだったというわけだ。
人々の声を見つける
彼らが識字教育から始めたのは、アディヴァシが「自分の声」を見つけられるようにするためだ。人々は、森の中で動物に呼びかける方法を知っていた。しかし都市では、政治家や地主とどう話せばいいのか分からなかった。彼らはまず、自分たちを抑圧している法律を読むために読み書きを学んだ。しかし、その法律の中に、彼らはある言葉を見つけた。人間として、アディヴァシにも人権というものがあることを説明する言葉だ。正義や尊厳、さらには土地の所有という概念が、他者と同様に自分たちにも当てはまることを彼らは知った。そして、それらの言葉を紙上から現実へと動かすために行動を開始した。時を経て、言語も文化も異なるが、土地との結びつきや抑圧という共通点を持つインド全土のアディヴァシたちが、出会い、組織化し、共に、新たに見つけた声を上げ始めた。ナランは、1992年にワヤナード県で開催された、異なる部族や部族団体による歴史的な「サンガム(集い)」について語ってくれた。同様の集まりは国中で起こり、年々規模と影響力を拡大していった。今日ではアディヴァシの全国大会が開かれ、彼らを取り巻く問題を議論し、政府に提示している。ナランが活動を始めた当初、これは想像すらできないことだった。
変わりゆく世界
1992年までには、アディヴァシが組織化され、権利や能力が高められたのを見て、ソリダリティは徐々に介入を弱めていった。識字活動に加え、組織は彼らの「開発」にも関心を寄せていた。それは、アディヴァシが独自の文化とアイデンティティを維持しながら、いかにして現代の世界に適応していくかという問いだ。ナランの著作の一節を引用する。「開発とは、人々の質的な変革であり、生活の便宜が量的に豊かになることではない。開発とは緩やかなプロセスであり、望ましい変化のために自分たちの潜在能力を、決然と、かつ批判的に用いることで、人々自身が獲得していくべきものである。」
ナランはその日の午前中、理事たちやアディヴァシのリーダーたちとの会合を調整してくれていたが、平日だったため、来られたのは三人だけだった。この施設、「ソリダリティ開発教育研修研究センター」は、1986年に一つの図書室から始まった。アディヴァシの運動に捧げられたその本棚には、ナラン自身が書いた本も並んでいる。後に事務所や優雅な円形の会議室、アートギャラリーが増設された。現在の展示は、ケララ州のアーティスト・キャンプによるものだ。「このセンターは、部族の人々が自分たちの権利を勝ち取るための場所だ」とナランは説明した。「組織を立ち上げた時、我々はとても若かった。できることは何でもやった。移動図書館まであった。今では、我々も建物も皆、すっかり年をとってしまったけれど。」
ソリダリティ
その日会った三人の男性の一人目は、画家のジョセフだ。彼の作品はギャラリーには展示されていなかったが、携帯電話でいくつか見せてくれた。二人目はP.T.ジョン。興味深い事実をよく知る話し上手で、農民と共に活動する活動家だ。三人目は、ソリダリティの創設メンバーであるバラクリシュナンだ。彼はインドでは珍しく、物静かな男である。また、40年以上前に有機農業を始めた先駆者でもある。彼は三種類の黒胡椒と、一種類のターメリックの新しい品種を導入した。なぜ有機農業を始めたのかと尋ねると、彼は「近代農業は人間と自然に反しているからだ。」と答えた。肥料は環境を、つまり微生物や地元の魚、その他多くのものを破壊しているのだという。「化学農業によって何かが増えたとしても、別のどこかで失われている。それは間違った農法だ。」ケララ州政府は、絶滅の危機にあった127種の薬用植物を保護した彼の功績を称え、賞を授与している。気候変動に対する彼の答えは何か。 それは「木」だ。地球を木々で覆い、地面をその葉で満たし、微生物によって生きた土壌にしようじゃないか。
ここ数年、ナランの活動は健康上の理由で制限されている。彼は自分の仕事について、特に初期の苦闘や情熱についてもっと多くを伝えたいと感じているようだったが、私が本当には理解できないのではないかと危惧しているようにも見えた。今日生まれた人間は、かつての状態、つまり、一見不可能に見えるが極めて重要な大義のために働くエネルギーや犠牲を、完全には知り得ない。それはアジア学院も同じかもしれない。創立者たちは、学院が翌年まで存続できるかどうかも分からない中で、昼夜を問わず働いた。私はその物語を読み、耳にしてきたが、それだけではすべての本質を捉えることはできない。―不安、挫折、未来への不透明感。そして同時に、自分たちがしていることは切実に必要とされているのだという確信と、心の底からの信念について完全には知り得ない。