Search

4日目 その2

2025年 2月8日 土曜日

南インド & ウッタラーカンド州 編


35の家族

毎月第二土曜日は国民の休日であり、すべての家族がSEEDSインディアに集まる日だ。「一体、どんな家族?」と問われれば、もちろん教育支援を受けている子どもたちの家族のことだ。その数は全部で35。つねに35家族と決まっている。一人の子供が18歳になって卒業すると、別の子供がグループに招き入れられるのだ。SEEDSはこの活動を25年間続けてきた。

彼らは単に子どもの学費を払って終わり、とはしない。家族全員と長期的な関係を築き、本や制服、さらには子供たちが家で勉強するための机まで提供する。必要であれば、住宅やトイレの設置まで支援する。病気や事故などの困難が生じた際も、SEEDSは人々を支える。卒業後も連絡を取り続け、元気にやっているかを確認する。それはよそよそしい支援ではなく、深い関わりを、長期にわたって行う、愛情たっぷりのケアなのだ。

我々が到着したとき、会場にはお茶とお菓子が用意され、お喋りと笑い声の活気に満ちていた。集会の最後には、各家族が新鮮な野菜や穀物、その他の必需品が詰め込まれた大きな食料袋を持ち帰る。それは一週間から二週間はもつ、かなりの量だ。トーマス・マシューは、すべての家族、そしてその家族を構成するすべての人を熟知している。彼はその名前と一人一人の近況を、あなたに話してくれるだろう。例えば、ある男性には障がいを持つ息子がおり、その日は来られなかったが、普段は出席しているという。美しいオレンジ色のドレスを着たある女性は、ここの孤児院で育った。彼女は結婚して三人の子供がいるが、夫が去ったために今は苦労している。彼女は英語が堪能で、日本語も少し話せるため、とても熱心に私と話をしてくれた。これらの家族のほとんどは、トーマス・マシューが言うところの「良い地位」に上り詰める。人々は自立し、独立する。皆、社会の最下層に位置するダリット(不可触民)やアディヴァージ(先住民族。この人たちについては、後で詳しく説明する)の出身だが、このような環境では、そのことを意識することはない。全員が尊厳をもって扱われ、受け入れられている。

トーマス・マシューはマラヤーラム語で話をした。後で彼が教えてくれたその要旨は、「私よりも優れた人間になりなさい。」という励ましであった。トーマス・マシューはこれらの人々のためにしているすべてのことを通じて、大いに尊敬されているが、本人は賞賛を望まない。感謝を表したいのなら、他の人たちにも同じことをしてあげるのが一番だと彼は言う。「私より上手くやってくれ!」その後、彼は私に挨拶をするように言った。予想していたことではある。何を話すべきか迷ったが、昔このような状況のために学んだ策を講じた。人々の中に美しいものを見つけ、それがどれほど美しいかを伝えるのだ。この時は、彼女たちの色鮮やかなサリーだった。質問の時間になると、前列にいた三人の生意気盛りの女の子たちが、私に歌を歌ってほしいと言い出した。弱った。パニックになり頭が真っ白になった。彼女たちに歌を教えてほしいと頼んで回避しようとしたが、彼女たちは聞き入れなかった。その時、突然、魔法のように日本のメロディーが浮かんできた。「秋の夕日に……」。やまのしたさんに知っているか尋ねると、彼は知っていた。そこで我々は一緒にその歌を歌った。素晴らしい瞬間だった。すると、オレンジ色のドレスの女性が小学校で習ったという日本の歌を歌い、続いてやまのしたさんがソロで歌を披露した。

集会は恒例の集合写真と、たくさんの笑い声と笑顔、そして子供たちとの拳を合わせるフィストバンプで幕を閉じた。その後、トーマス・マシューは個人的に、来ることのできなかった盲目の女性の家へ、食料の詰め合わせを届けた。いつもは家族の誰かが取りに来るのだが、この日は都合がつかなかったのだ。

さらなるSEEDSの活動

移動式鶏舎
アジア学院では、各学生が一つの技術やプロジェクトに集中して取り組むプロジェクト期間を夏に設けている。トーマス・マシューの場合、それは養鶏であった。後にこれが、鶏を飼うことで人々の収入を助けるというアイデアにつながった。ダリットの人々にとってスペースの確保は課題だ。つまり、広い土地がない。そこで彼は「移動式鶏舎」を提供することに決めた。SEEDSインディアは、鶏の世話に関する指導とともに、この鶏舎を無償で提供する。人々は、この車輪付きの小屋の屋根瓦と、鶏を購入すれば良いというわけだ。

アディヴァシ(先住民族)支援
ここから80kmほど離れた場所に、アディヴァシのコミュニティがある。彼らは「森の住人」とも呼ばれるが、「アディヴァシ」という言葉は本来「最初の居住者」、つまりその土地の先住民を意味する。太古より存在する人々だ。我々にはそこへ行く時間はなかったが、心配はいらない。数日後、人生のすべてをアディヴァシの権利のために捧げてきた別の卒業生に会う予定であり、そこで嫌というほど詳しく学ぶことになる。ここでは、その前触れとして少しだけ触れておく。

月に一度、トーマス・マシューはこのコミュニティに野菜、ジャガイモ、雑穀、ミルク、ヨーグルト、そしてお茶やお菓子が詰まった食料セットを届けている。また、痛み止めや解熱剤、下痢止めなどの医薬品も運ぶ。彼は、携帯電話とソーラー充電器を持っているコミュニティのリーダーと連絡を取り合い、訪問を調整している。アディヴァシの人々は内気で静かだ。彼らはマラヤーラム語とタミル語が混ざったような独自の言語を持っている。本来、この人々は森の果実や蜂蜜を食べて生活していたが、今日では森から得られる収穫は減っている。強欲な人々が森を切り倒し、商業的な単一栽培地に変えてしまったからだ。もっと書き続けたい衝動に駆られるが、忍耐強く、適切な時が来たらこの物語を話すことにする。

アランムラ寺院

最後の家族を見送り、盲目の女性に食料を届けた後、我々はパンパ川のほとりにある1500年の歴史を持つアランムラ寺院を訪れ、クリシュナ神を参拝した。それぞれの寺院は特定のヒンドゥー教の神に捧げられており、ここは慈愛、保護、愛の神であるクリシュナの崇拝者のための場所であった。

寺院の外壁の土台に沿って、オイルランプが列をなして灯されていた。夕暮れ時に揺れる小さな炎が落とす影は、この世のものとは思えない雰囲気を放っていた。近くで見ると、壁の至るところにランプを置くためのくぼみがあり、祭りの際にはこの全てに、何百、何千という灯りが灯されるのだとトーマス・マシューが教えてくれた。想像するだけで圧倒される。寺院の内部に入れるのはヒンドゥー教徒のみで、男性はシャツを脱がなければならない。我々は全員、靴を脱いだ。

寺院の入り口には、オレンジ色の服を着て完全にリラックスした状態で横たわっている男がいた。後で知ったことだが、彼は「サドゥー」と呼ばれる、寺院での精神的な生活のために世俗の生活を捨てた修行者であった。彼は家族も物質的な所有物もすべて捨て、参拝者から与えられる食べ物だけで生きている。

寺院が広い川のそばにあるため、私はカトマンズのパシュパティナート寺院で見たような儀式が行われているのかと考えた。あそこでは、死者が火葬され、その遺灰が川に流されていた。しかし、ケララ州では遺灰は家に持ち帰るのだという。一年のうち一日だけ、指定された場所で川に流すことが許されているが、それも希望する場合に限られる。愛する人を近くに置いておきたいと願う家族もいるのだ。

忘れ去られた人々

我々がパンニヴェリチラと呼ばれる場所に到着したときには、すでに日が暮れてからずいぶんと時間が経っていた。ここを訪れる人はほとんどいない。なぜなら、そこはダリットが暮らす場所だからだ。我々が訪ねたコミュニティは、三棟の長屋で構成された区画の中にあった。家とは言っても、実際にはコンクリート製の四角い部屋だ。数軒には電気が通っているが、ほとんどの家はオイルランプの薄暗い明かりを頼りにしている。中央の広場に沿って炊事場があり、薪で料理をするための五徳が備え付けられている。突き当たりには井戸がある。雨水を貯めるために巧みに配置されたバケツも見かけた。全員で共用する二つのトイレが奥の角にあり、その少し裏手には、水浴びをする者のプライバシーがある程度守られるようになっている洗面所がある。

我々が夜に訪れたのは、その時間帯でなければこの人々は家にいないからだ。彼らは夜明け前に出かけ、路上でリサイクル可能なゴミを回収する。金属、瓶、缶、紙、何でもだ。時には家のドアを叩き、捨てるものがないか尋ねることもある。一日に20㎞歩くのは普通で、時には30㎞、40㎞と歩く。いくらかの金になるものを見つけるまで、人々は立ち止まるわけにはいかない。一般的な手法としては、まず女性たちがバスで遠方まで行き、そこから歩いて戻りながらゴミを回収し、道端に積み上げていく。その後、夫たちが同じルートをたどってそれらを回収し、店に売りに行く。夫たちが帰宅するのは妻よりもずっと遅くなるため、その間に女性たちは料理をすることができる。一日にいくら稼げるのかは分からないが、かろうじて生計を立てられる程度であるようだ。

周囲に子どもの姿はなかったが、彼らにも確かに子どもはいる。ただ、この環境では子どもを適切に育てる術がないのだ。そのため、子どもたちは故郷で親戚と暮らすか、あるいは孤児院に入り、学校に通っている。教育は不可欠だ。親たちは子どもにはもっと良い生活を送ってほしいと願い、そのためなら1ルピーでも多く送金しようとする。SEEDSインディアもまた、教育や健康に関する啓発プログラムを通じて関わっている。6月か7月の休暇に、年に1ヶ月ほど、彼らは子どもたちと一緒に過ごす。

トーマス・マシューは彼らと長い付き合いであり、人々は我々を家族のように歓迎してくれた。彼らは皆、タミル・ナードゥ州との境あたりの別の場所からやってきた人々だ。約半分は森を追われたアディヴァシであり、残りの半分は土地を持たないダリットである。我々が歩き回る間、トーマス・マシューは人々の生活について私に説明しつつ、同時に彼らとも言葉を交わしていた。数人の人々が集まってきて、私に自分の部屋を見るよう手招きした。質素に暮らし、持ち物がほとんどないことに、人々は何の恥じらいも持っていなかった。ほとんどの場合、人々の持ち物は、壁の棚にある鍋や釜、スパイス、衣服、物を回収するための袋、そして寝床用のマットだ。そう、コンクリートの床と体の間にあるのは、薄い藁のマット一枚だけである。ある部屋の中を覗き込むと、他の人々も自分の部屋を見るようにと我々を引っ張っていった。ある女性は石鹸と水で床をごしごしと磨いており、トーマス・マシューが「濡れた床の上で寝るのか」と尋ねた。彼女は、今夜は友人の部屋で過ごすと答えた。別の女性は、痛む腰に当てる温湿布を作るために湯を沸かしていたが、その笑顔で痛みを隠していた。歩いていると、一人の男性が暗闇で我々が根っこや障害物につまずかないよう、明るいライトで道を照らしてくれた。私がメモを取るたびに、彼は私のノートに光を向けてくれた。

トーマス・マシューはケーキの詰め合わせを持ってきており、一人の女性が集まった全員にそれを配った。彼女は最初の一切れをトーマス・マシューに差し出したが、彼は糖尿病であることを理由に断り、二切れ目が私に回ってきた。私はそれを受け取ると、残りが配られた。この些細な振る舞いが心に深く響き、私はすぐに高見先生の「乏しさを分かち合う」話を思い出した。若かりし頃、高見先生は猛烈なサイクロンから復興しようとする人々を助けるためにバングラデシュへ行った。人々は彼を家に招き入れ、どんなに食べ物が少なくとも、それを彼と分かち合った。高見先生はそれを「乏しさの分かち合い」と呼んだ。

この訪問を咀嚼するには時間がかかるだろう。彼らは見知らぬ私を、そして友であるトーマス・マシューを歓迎してくれた。ほんの短い間、彼らはその人生を私にさらけ出してくれた。「彼らは貧しいが、幸せだ」というような馬鹿げた言葉で、この場所を美化するつもりはない。いや、彼らは貧しく、人生は過酷で残酷だ。しかし、ここでは、彼らは髪をほどき、靴を(もし持っていればの話だが)脱ぎ捨てることができる。なぜなら、ここは安全な場所だからだ。家族のように、誰もが他者の痛みを知り、理解している。同じ痛みを抱えているからだ。そして、その理解されているという安らぎのうちに、彼らはありのままでいられる。笑いたければ笑い、泣く必要があれば泣く。しかし、おそらくは、明日もまた過酷な一日が来ると知りながら、ただひたすらに過酷な今日という日を過ごしたその身体を休ませるのだ。

クリスマス・ウィンターキャンペーン 2025
Christmas and Winter Donation Campaign