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4日目 その1

2025年 2月8日 土曜日

南インド & ウッタラーカンド州 編


ストリングホッパーとカレーリーフ

今朝の朝食はイディヤッパム、またはストリングホッパーと呼ばれるものだった。これらは麺がかわいく束状になっており、一口か二口分の量があり、カレーと一緒に食べる。サリーは毎日、庭からカレーリーフを採ってくる。この葉の主な役割はカレーに風味をつけることであり、食べるものではない。そのため、この葉は「古いカレーリーフのように彼を追い出す」という表現に使われ、昔の恋人を指している。

アジア学院での思い出

今朝の朝食の会話は、宗教やインドの歴史などではなく、アジア学院についてであり、トーマス・マシューは当時の小話をたくさん持っていた。私はこういう話が大好きだ。なぜなら、それぞれの話が、私の持つ学院に対する視点とは違う見方を教えてくれるし、学院のコミュニティで人々が共同生活を送りながら何を学んでいるのか、知ることができるからだ。正直に言って、これほど多様な人々を一堂に集めれば、予期せぬ出来事が発生するのは当然であり、誰もが小話を持っている。ストリングホッパーを食べながら、私が聞いた話を、いくつか挙げよう。「アジア学院では、見知らぬ人たちと一緒に暮らします。」とトーマス・マシューは語り始めた。「そして、その見知らぬ人たちはやがて友人になります。一つの屋根の下で、持っているものを分かち合います。意見の相違があれば、仲直りしなければなりません。なぜなら、その日、その人と共に働き、食事をとり、生活しなければならないからです。違いがあっても、共に暮らさなければなりません。私たちもこのように生きる必要があります。」

マニラへの立ち寄り

その年の学生の中に、パキスタン人の男性がいた。トーマス・マシューは、時間にとらわれず、質問をするのが好きな人だと説明した。彼は、特に金曜午後のリフレクションと計画の時間に質問をするのが得意だった。全学生がこの話し合いに参加し、彼と同じくらい強い個性を持つ人々も多数いたため、「活発な」会話が生まれていた。特に彼は、フィリピン出身の強い意志を持つ二人の女性と衝突することが多かった。数ヶ月にわたり、彼らは一種の敵対関係にあり、それは彼らが旅立つ日まで続いていた。パキスタンへのフライトが少ないため、この男性は、他の皆、そして二人の女性が去ったずっと後になって旅立った。帰路の途中、乗り継ぎ便に問題が発生し、彼は立ち往生してしまった。行き先は…マニラだった。空港まで迎えに来て、ようやく次のフライトで彼が飛び立てるまでの数日間、世話をしてくれたのが誰だったか想像できるだろうか。そう、あの二人の女性だった。「たとえ違いがあったとしても、彼女らは彼をサポートするために駆けつけ、助けたのです。」とトーマス・マシューは振り返った。「アジア学院で学んでいることは、学院にいる間は実感できません。そこでは、自分と違う人たちと一緒に暮らすといったことは、日常生活の一部と化しているからです。しかし、外に出てから、それがどれほど貴重なことだったかを実感します。故郷に戻ってから気づくのです。」 

合意から生まれたリーダーシップ

トーマス・マシューは、自他ともに認めるおしゃべり好きである。アジア学院では、誰とでも話し、冗談を交わした。特に、ティールームに行き、10円玉を箱に入れ、ティーバックを買うのが好きだった。「一つのティーバッグで、自分のお茶を淹れ、さらに他の人にお茶を淹れてあげることができます。それを誰かにあげれば、その人と話すきっかけになります。お茶を飲みながら話すことで、より親しくなれるのが好きでした。」と彼は語った。西日本研修旅行の直前、学生が集まり、リーダーを決定する会議を開き、高見先生が議長を務めた時の話に移ろう。候補者は二人おり、一人はトーマス・マシューと同じインド出身、しかも同郷のマラヤリ人で、二人は親しかった。もう一人はトーマス・マシューのルームメイトで、韓国の牧師だった。彼らは毎晩、部屋で手を取り合って祈る仲だった。トーマス・マシューはどちらか一方に肩入れしたくなかったため、お茶を飲むために席を外した。二、三人他に来るかもしれないと思ったが、議論が真剣になっていたため、誰も来なかった。一人でお茶を飲み終わって会議に戻ると、「リーダーはインドのトーマス・マシューだ。」という言葉で迎えられた。それは満場一致の決定であり、責任を避けようとしていたトーマス・マシューにとっては大きな驚きだった。高見先生は投票ではなく学生間の合意を求めており、結果トーマス・マシューが選ばれた。「私はその場にいなかったのに、満場一致で選ばれた。人生で唯一の出来事でした。」とトーマス・マシューは語った。

大地と共に、核に反対して

西日本研修旅行は、西日本を巡る長旅であり、学生は産業公害やホームレス問題、マイノリティに対する差別など、美しく発展した日本には存在するはずがないと信じていた事柄について学んだ。旅程を決める上で、広島と平和記念資料館を訪れるか、あるいは世界的に有名な自然農家で『わら一本の革命』の著者である福岡正信氏のもとを訪れるかという決断をしなければならなかった。当然ながら意見が分かれたため、スタッフはグループを二手に分け、両方を訪れる手配をした。

帰ってきて、全員が集まり、旅の感想を共有した。広島についての話題になった時、トーマス・マシューはリベリアからの学生に発言を求めた。彼はアフリカ出身者の中で唯一広島グループに参加し、「広島に行くことによって大きく変えられた」人物だった。リベリア人学生は次のように語った。「あなた方は自然農法について話しているが、もし核戦争が起きたら、あなたの農場はどこにあるのか? 農場などない。大地も、人間もいない。我々は広島を訪れた。それは転機だった。この世にあるものが、一瞬で破壊され得るということを、広島から学んだ。日常生活のためには有機農業が必要だが、私たちは大地とに、そして核戦争に反対しながら取り組まなければならない。両方を組み合わせる必要がある。自然農法だけに固執してはいけない。同時に、平和な世界について語らなければならない。もう戦争はいらない、もう広島も長崎もいらないと話さなければならない。できることならば広島に行って、見てくるべきだ。」

トーマス・マシューは、「素晴らしい発表でした。当時の私は、彼のように発表することはできませんでした。」と締めくくった。

養蚕の仕事

トーマス・マシューの自宅があるエラントゥール村からわずか5分の場所に、マール・トマ教会が運営する「シャンティ・アシュラム」がある。シャンティは平和を意味し、アシュラムは一種の宗教的な共同体である。ここで、シスター・マリアマ・トマス(1978年アジア学院卒業生)に会った。その日は彼女の誕生日だったので、トーマス・マシューがケーキを持参した(私に渡すように頼んできた)。彼女の年齢は定かではないが、「定年なしシステム」がここでも適用されているようだった。

話を進める前にまず、一つの短いストーリーを紹介したい。これは、草の根のリーダーを育成することの美しい波及効果を私に改めて示した出来事だった。アジア学院にいた頃、シスター・マリアマは養蚕を学びたいと説明した。これは学院のカリキュラムにはなかったが、彼女にとって重要だったため、スタッフはその技術を知る女性の元で学べるよう手配した。インドに帰国後、彼女はアジア学院に彼女を派遣した、バンガロールのホスコット・アシュラムで養蚕プロジェクトを始めた。バンガロールは南インドの他の地域よりも涼しく、カイコが巣を作る特定の品種のクワの木がよく育つ。人々は彼女から養蚕を学ぶために遠方から集まり、多くがそれを生計の手段とした。彼女がこの活動を行ったのはわずか五年間だったが、絹の生産は今日までそのコミュニティの重要な産業として続けられており、インド政府によって推進されている。彼女は笑いながら、アジア学院に行くことにさえ興味がなかったが、司教に「行って、養蚕を学び、農民に教えなさい」と説得されたと話した。私は、シスター・マリアマが40年以上前の学院での日々に帰り、トーマス・マシュー、私、そして同席していた他の二人のシスターと記憶を共有するのを嬉しく思いながら、眺めていた。「自分の持っているものを用いよ」というアジア学院の信条は、今日でも強く残っており、彼女に大きな感銘を与えた。彼女は、台所に食材を供給していたアジア学院の大きな農場について話し、収穫した特定の野菜まで覚えていた。「ここアシュラムにも菜園があるので、市場から野菜を買う必要はありません。」と彼女は話した。ただし、最近ではイノシシが侵入し、費用のかかるフェンスが必要だという問題も抱えている。

野菜はあなたを強くする

シスター・マリアマは管理責任者であり、同席していた他の二人のシスターと一緒に働いている。一人は洋裁と刺繍を教え、もう一人はカウンセリングとアシュラムの広報活動を担当している。彼女たちは皆ベジタリアンであり、朝食に用意された豆のお粥を私と分かち合った。見た目よりも美味しかったと認めざるを得ない。本当に美味しかった。シスター・マリアマはアジア学院の同期の中で唯一のベジタリアンだったが、提供されるスープ、お米、パン、バターに満足していた。高見先生はかつて彼女に「あなたは野菜だけでも強い。野菜があなたを強くする!」と言った。ここアシュラムでは、ミサ用のワインとパンを自分たちで作っている。外部からは買えず、キリスト教徒によって作られなければならないからだと説明を受けた。

アシュラム周辺にて

アシュラム周辺を散策し、まず彼女たちの洋裁センターを訪れ、数人の女性がまっすぐな縫い目を練習しているのを見学した。刺繍の様子も見せてもらった。担当のシスターが、フリーハンドで見事に花の模様を作り出していた。

SEEDSインディアも洋裁を教えていることを思い出されたと思う。トーマス・マシューはこの教師たちと頻繁に協働している。次に、身体的・精神的に困難を抱える女性たちのための緩和ケアセンターを訪れた。六人の入居者は、伝統的な家族向け複合施設に住んでおり、四つの家が向かい合って建てられ、中央に四角い中庭を形成している。二人のスタッフが、安全のため外出の許可されていない入居者の世話をしており、中庭は、花が咲く木々が植えられ、美しく保たれていた。最後に、私たちは孤児院に移動した。ここは昨日会ったシスター・サミュエルがかつて担当していた場所である。現在、18歳未満の少女20人がここに住んでおり、廊下で会った時、彼女たちは私にグアバをくれた。私はお礼を言い、日本語の「ありがとう」の言い方を教えた。その日は祝日だったので、訪問者が教会からの寄付を持参するために立ち寄っており、少女たちの仕事は丁重に贈り物を受け取ることだったようだ。シスターたちの日常は瞑想、礼拝、そして祈りに満ちており、私たちは礼拝堂に招かれて一緒に祈った。一人ずつ順番に声に出して祈り、私もそうするよう求められた。シスター・マリアマは私とアジア学院の名前を挙げて祈ってくれた(ここはにっこりの絵文字をつけるところだ )。その後、彼女たちは私に聖餐用のワインを少し出してくれた。それは祝福されていなかったと思うので、御聖体ではなく、ただ味見のためだった。甘く、アルコールは感じられなかった。
アシュラムを去る時、シスター・マリアマはアジア学院には感謝しており、よろしく伝えてほしいと話した。

卒業生の集い

トーマス・マシューは、インド国内外の他の卒業生についてよく話していた。彼らと連絡を取り合うことに最善を尽くし、これまでに二度、大規模な集まりを企画している。最初はアジア学院を卒業した翌年の1989年で、高見先生や他のスタッフも参加した。その年には、グレッチェン・デブリーズ、パム・ハセガワ、そしてアジア学院のテーマソング『Take My Hand』を書いたクリストファー・グランディも彼の元を訪問した。2回目の集まりは2000年に開催され、これは本当に大規模だった。「ミレニアム・カンファレンス」と題され、インドだけでなく、スリランカ、バングラデシュ、ネパールからも卒業生が集まり、74人が出席した。中には、会場にたどり着くまでに片道5日もかけて移動した者もいた。信じられないほどの努力だ。トーマス・マシューは今、次の集まりを誰かが企画してくれるのを待っている。あれから25年も経ったからだ。

トーマス・マシューに関するその他のメモ書き

トーマス・マシューは、イスラム教徒の商人から魚を買っている。この商人は毎日、60km離れた海から新鮮な魚を運んでくる。宗教上の理由で彼から買わない人もいる。トーマス・マシューにとって、これはナンセンスでしかない。

近くには、森林作業や祭りのためにゾウを訓練する場所がある。昔、ゾウを所有することはベンツを持つようなものだった。

タピオカがキャッサバと同じであることをご存知だろうか。私はこの事実を全く知らなかった。多くのアフリカの卒業生は重要な主食としてキャッサバを栽培しているので、キャッサバについては知っており、アフリカ諸国への旅行中によく食べた。第二次世界大戦後、ケララ州ではお米が不足し、農家はキャッサバを植えたが、彼らはそれをタピオカと呼んだ。それは今日も栽培されている。人は毎日何かを学ぶものだ。

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