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7日目 その1

2025年 2月11日 火曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 バブ神父 今日も素晴らしい一日だ。本日最初の予定外の仕事は、バブ神父に会うことだった。彼はアジア学院の誰かがこの街に来ているという噂を聞きつけ、わざわざウーティから会いに来てくれたのだ。ウーティ(Ooty)。これもまた口にするのが楽しい名前だ。「おっと(Oops)」の「ウー(Oo)」の末尾に「ティー(ty)」をつける。どうやら人気の観光地らしい。 バブ神父は、父親の跡を継いで薬草医学を実践し、教えているカトリックの司祭だ。実際、彼は公認の自然療法士でもある。彼は、自然療法はアーユルヴェーダよりもさらに伝統的なものなので、混同しないようにと注意を促した。伝統的な農家の出身である彼のダイナミックな半生には、WSSSで農業に従事した経験や、マイソールの村人たちと小屋で暮らしながら活動した時期も含まれる。少し前にはローマで3年間、トラウマの癒やしと愛のカウンセリングを学んだという。現在はタミル・ナードゥ州の三つの教区を受け持っている。彼の穏やかな顔を見つめ、その物語を聞いていると、彼が生涯にわたって行っている、この世における平和と癒やしの探求、そしてその中での自身の役割に対する、深い信念が垣間見えた。 プットゥ バブ神父はシビ、ナラン、そして私と共に、カレーを添えたプットゥの朝食を囲んだ。これが何かと聞かれても、私は答えるのに最適な人間ではない。毎食、自分が何を食べているのか、いまだによく分かっていないからだ。だが、味は素晴らしい。ほんのり甘く、ココナッツの風味がするプットゥはケララ州の名物料理だ。皿に盛り、押しつぶし、上からソースをスプーンでかけて楽しむ。 手で食べる技術も、少しずつ上達してきた。品がなく見えないように食べるのは、皆さんが想像する以上に難しいことだ。そこにはマナーとエチケットがある。まず、当たり前だが、せっけんで手をきれいに洗う。汚れたスプーンで食べる者がどこにいようか。どのレストランにも家庭にも、ダイニングの近くには手洗い場がある。料理が出されたら、まずはその美しさを愛で、それから「食べる戦略」を立てる。指先だけを使い、できるだけ第一関節より下でカレーとお米、あるいは皿の上の他の料理を混ぜ合わせ、ちょうど良い味の組み合わせを作る。戦略が必要なのは、それぞれのカレーに味わうべき明確な個性があるからだ。私がやってしまったように、決してすべてを混ぜこぜにしてはいけない。一口大の塊を作り、口に放り込む。食べ物だけを入れ、唇より先に指を入れてはならない。また、使うのは片手だけだ。両手を汚してしまっては、どうやって飲み物を飲み、あるいは今の時代、電話に出るというのか。肉や魚がある場合は、骨から直接かじりつくのではなく、(片手を使って)一口サイズに引きちぎってカレーに混ぜるのが作法だ。食べ終わったら、全員が済むまで会話を楽しむ。その間、手は皿の上にかざし、まるで役に立たない付属物であるかのように何にも使わずにおく。技術が高ければ高いほど、この時点での手はきれいなままだ。最後に、再び手洗い場へ向かう。 スプーンを差し出されることも多かったが、どうもしっくりこなかった。インドで、インドの友人たちに囲まれてインド料理を食べているのだ。これは手で食べるべきだろう。 非公式教育 朝食後、我々は「ソリダリティ」へと戻った。昨日約束した話の続きをしよう。ソリダリティが設立されたのは1982年だが、ナランのアディヴァシとの働きはそれ以前に遡る。彼らは基礎教育から始めた。彼とその同僚たちは、読み書きを教えるために「森の住人」である人々の家を訪ねて回った。特定のカリキュラムを持つ学校ではなく、アディヴァシたち自身の生活環境の中で出会うこの実践は「非公式教育(ノンフォーマル・エデュケーション)」と呼ばれ、信頼関係の構築に役立った。当時、ワヤナード県の人口の28%がアディヴァシであった。 だが、ちょっと待ってほしい。少し遡って話をする必要がありそうだ。すでに何度か「アディヴァシ」の名を出しているが、この人々はいったい何者なのか。なぜ支援を必要としているのか。正式に答えようとすれば何ページも必要になるし、それらのページはすでに、私よりもはるかに詳しい人たちによって長い記事や書籍として書かれている。したがって、ここでは簡潔かつ不完全な説明にとどめる。 最初の定住者 アディヴァシは、インドの最初の定住者(先住民)であると言われている。その言葉自体、文字通り「根源の居住者」に近い意味を持つ。しかし、その物語は、世界中の先住民族がそうであるように、深く苦痛に満ちたものだ。アディヴァシの文化と伝統によれば、人々は土地と密接に暮らしているが、「土地を所有する」という概念を持たない。大地、川、空気、木々とその根、トラ、ゾウ、ハチ、そしてアディヴァシ。そのすべてがいのちの絡み合いなのだ。彼らは土地の中にあり、土地は彼らの中にある。それは非常に平和なものだった……異なる価値観を持つ人々が登場するまでは。 次に何が起こるかは想像がつくだろう。新参者たちは、自分たちのために土地を欲しがった。所有し、耕し、「生産的」にするためだ。そして彼らは、アディヴァシよりもはるかに強大だった。こうしてアディヴァシは追い出されるか、労働者にさせられた。イギリス人はお茶を植えるために彼らの森を切り開き、アディヴァシはそのお茶のプランテーションで働くことになった。後にコーヒーや胡椒がこの地に入ってくると、それらのプランテーションでも働くようになった。住み慣れた家から立ち退かされた時、彼らには何も残らず、行く当てもなかった。持っていたものはすべて森の中にあったからだ。とどまろうとする者は、何世代も住み続けてきた土地の「不法占拠者」と見なされた。だからこそ、お分かりのように、ナランたちの存在が切実に求められ、なすべき仕事が山積みだったというわけだ。 人々の声を見つける 彼らが識字教育から始めたのは、アディヴァシが「自分の声」を見つけられるようにするためだ。人々は、森の中で動物に呼びかける方法を知っていた。しかし都市では、政治家や地主とどう話せばいいのか分からなかった。彼らはまず、自分たちを抑圧している法律を読むために読み書きを学んだ。しかし、その法律の中に、彼らはある言葉を見つけた。人間として、アディヴァシにも人権というものがあることを説明する言葉だ。正義や尊厳、さらには土地の所有という概念が、他者と同様に自分たちにも当てはまることを彼らは知った。そして、それらの言葉を紙上から現実へと動かすために行動を開始した。時を経て、言語も文化も異なるが、土地との結びつきや抑圧という共通点を持つインド全土のアディヴァシたちが、出会い、組織化し、共に、新たに見つけた声を上げ始めた。ナランは、1992年にワヤナード県で開催された、異なる部族や部族団体による歴史的な「サンガム(集い)」について語ってくれた。同様の集まりは国中で起こり、年々規模と影響力を拡大していった。今日ではアディヴァシの全国大会が開かれ、彼らを取り巻く問題を議論し、政府に提示している。ナランが活動を始めた当初、これは想像すらできないことだった。 変わりゆく世界 1992年までには、アディヴァシが組織化され、権利や能力が高められたのを見て、ソリダリティは徐々に介入を弱めていった。識字活動に加え、組織は彼らの「開発」にも関心を寄せていた。それは、アディヴァシが独自の文化とアイデンティティを維持しながら、いかにして現代の世界に適応していくかという問いだ。ナランの著作の一節を引用する。「開発とは、人々の質的な変革であり、生活の便宜が量的に豊かになることではない。開発とは緩やかなプロセスであり、望ましい変化のために自分たちの潜在能力を、決然と、かつ批判的に用いることで、人々自身が獲得していくべきものである。」 ナランはその日の午前中、理事たちやアディヴァシのリーダーたちとの会合を調整してくれていたが、平日だったため、来られたのは三人だけだった。この施設、「ソリダリティ開発教育研修研究センター」は、1986年に一つの図書室から始まった。アディヴァシの運動に捧げられたその本棚には、ナラン自身が書いた本も並んでいる。後に事務所や優雅な円形の会議室、アートギャラリーが増設された。現在の展示は、ケララ州のアーティスト・キャンプによるものだ。「このセンターは、部族の人々が自分たちの権利を勝ち取るための場所だ」とナランは説明した。「組織を立ち上げた時、我々はとても若かった。できることは何でもやった。移動図書館まであった。今では、我々も建物も皆、すっかり年をとってしまったけれど。」 ソリダリティ その日会った三人の男性の一人目は、画家のジョセフだ。彼の作品はギャラリーには展示されていなかったが、携帯電話でいくつか見せてくれた。二人目はP.T.ジョン。興味深い事実をよく知る話し上手で、農民と共に活動する活動家だ。三人目は、ソリダリティの創設メンバーであるバラクリシュナンだ。彼はインドでは珍しく、物静かな男である。また、40年以上前に有機農業を始めた先駆者でもある。彼は三種類の黒胡椒と、一種類のターメリックの新しい品種を導入した。なぜ有機農業を始めたのかと尋ねると、彼は「近代農業は人間と自然に反しているからだ。」と答えた。肥料は環境を、つまり微生物や地元の魚、その他多くのものを破壊しているのだという。「化学農業によって何かが増えたとしても、別のどこかで失われている。それは間違った農法だ。」ケララ州政府は、絶滅の危機にあった127種の薬用植物を保護した彼の功績を称え、賞を授与している。気候変動に対する彼の答えは何か。 それは「木」だ。地球を木々で覆い、地面をその葉で満たし、微生物によって生きた土壌にしようじゃないか。 ここ数年、ナランの活動は健康上の理由で制限されている。彼は自分の仕事について、特に初期の苦闘や情熱についてもっと多くを伝えたいと感じているようだったが、私が本当には理解できないのではないかと危惧しているようにも見えた。今日生まれた人間は、かつての状態、つまり、一見不可能に見えるが極めて重要な大義のために働くエネルギーや犠牲を、完全には知り得ない。それはアジア学院も同じかもしれない。創立者たちは、学院が翌年まで存続できるかどうかも分からない中で、昼夜を問わず働いた。私はその物語を読み、耳にしてきたが、それだけではすべての本質を捉えることはできない。―不安、挫折、未来への不透明感。そして同時に、自分たちがしていることは切実に必要とされているのだという確信と、心の底からの信念について完全には知り得ない。

6日目 その2

2025年 2月10日 月曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 多忙なシビ 現在、シビはヴァナムーリカの職員ではないが、今でも要請があれば有機農業のさまざまな研修を行うなど、彼らをサポートし続けている。現在は、四年前に結成された新しい協同組合の有機認証取得を支援している最中だ。自身の12エーカーの農地でも、黒胡椒、ココナッツ、ナツメグ、クローブ、お米、コーヒー、そして野菜を育てている。また、南アジアや東南アジアで人々の舌や唇を赤く染める、「アレカナッツ」も栽培している。別名「ビートルナッツ」としても知られ、多くの人々がこれを噛むのを好むが…その理由は…その理由とは…正直なところよく分からない。きっとそれなりの理由があるはずだが。今度機会があれば聞いてみることにしよう。 ちなみに、シビから伝言がある。彼は「Trails of Nature」というYouTubeチャンネルを運営している。ワヤナードの景色は美しいが、農業のコツを掴みたいなら、マラヤーラム語をもう少し磨く必要があるだろう。https://www.youtube.com/@TrailsofNature 生きている土 丘を下る途中、彼らが作っている堆肥を見に立ち寄った。化学肥料を使わない彼らにとって、堆肥作りは極めて重要な仕事であり、完璧なものを作るべく多大な労力を注いでいる。それは、来年の健全な収穫への投資なのだ。我々が飲むのは、挽いた豆をフィルターして出てきた黒い液体だけだが、自然界に捨てるべきものは存在しない。すべてが生命を支えるために循環している。売り物にならない未熟な果実や果肉などの有機物は、牛フン、枯葉、もみ殻、そして「VAM」とともに3〜6ヶ月間かけて堆肥化され、再びコーヒーの木の下へと戻される。 「VAM」とは何か、ご存知ないと思うので説明する。これは「胞子嚢・樹状体形成菌根菌(Vesicular-Arbuscular Mycorrhiza)」の略で、根の成長と養分の吸収を促進する働きがある。健全な土壌とは生きている土壌であり、VAMはその生命の一部だ。彼らはトウモロコシ(メイズ)を植えることで、その根に自然発生するVAMを特別に培養している。そして、その草も根もVAMもすべて他のコーヒーの残渣と混ぜ合わせ、最強の堆肥を作るのだ。この、地域特有のやり方はシビがアジア学院で学んだ「ボカシ」とは異なるが、アジア学院は彼の堆肥作りと活用に関する全体的な理解を広げた。彼がそう言ってくれて、嬉しく思った。なぜなら、それこそがアジア学院の目指すこと――模倣ではなく適応させることだからだ。 アーユルヴェーダ 次に向かったのは、アーユルヴェーダの薬を加工する棟だ。この日は機械が止まっていたが、女性たちが700種類もの薬用植物を育てているのだから、ここが活気に溢れる時期もあることは、容易に想像できた。工程の多くはハーブの乾燥から始まり、そのための巨大な薪式オーブンが置かれていた。その後、効能を最大限に引き出すためにハーブの種類ごとに異なる技術で粉砕される。その中には、人力ではなく電力で回る大きな石臼もあった。次に瓶詰めや包装が行われる。何世代にもわたってアーユルヴェーダ薬の開発に一生を捧げてきた人々がいることを考えれば、私のこの日の学びは大海の一滴に過ぎない。いつかインターンシップに申し込むべきかもしれない。 おっと、面白いものを一つ忘れていた。彼らが子どもたちの学校での成績向上のために作っている「ブレイン・トニック」だ。「ブラーミ(乙女畔菜)」というハーブから作られており、ペースト状に練り上げられ、毎日小さじ半分ほど食べさせるという。子どもたちはきっと喜んで(?)食べていることだろう。通りかかった温室の一つは、このブラーミでいっぱいだった。 奥様、胡椒はいかがですか? さて、女性たちが胡椒のつるから実を忙しそうにもぎ取っている場所へやってきた。あなたは、色の異なる胡椒がすべて同じ植物からできていることをご存知だろうか。胡椒はまだ緑色のうちに収穫され、その後の加工方法によって最終的な色が決まる。収穫したてで、緑の皮がついたままのものが、グリーンペッパーで、乾燥させると黒くなり、ブラックペッパーとなる。ブラウンペッパーにするには、実を天日干しにする必要がある。皮がついたまま乾燥させたものがブラックペッパー。ホワイトペッパーにしたければ、皮を完全に剥ぎ取る必要があり、レッドペッパーにしたければ、実が完全に熟すまで待ってから収穫する。南インドを訪れて以来、私はかつてないほど胡椒に思いを馳せ、感謝するようになった。今では、料理中にペッパーミルを握ると、いつもより何度か余計に回してしまう。 人生のスパイス 「とっておきのものは最後に」という言葉通り、我々はオーガニックショップへとたどり着いた。カルダモンコーヒー、高品質な茶葉、乾燥ジャックフルーツやパパイヤ、黒米、ジャグリー (サトウキビやパームヤシから作られる未精製の自然糖)、モリンガパウダー、発酵胡椒……名前の付くあらゆるスパイスと、あらゆる症状に効くアーユルヴェーダ薬が並んでいた。どれも素晴らしく、すべて買い占めたいほどだった。これらは本物だ。この丘で育てられた、作りたてのものだ。我々はスーパーマーケットのスパイス売り場で小瓶の列の前に立ち、目当ての瓶を探してラベルに目を走らせる。しかし、その中身がどのような立派な木に実ったのか、風に乗ってどんな香りを放っていたのか、農家が日々どれほどの手入れをしてきたのか、保存可能な粉末にするためにどれほどの工程を経てきたのかを考えたことがあるだろうか。これらすべては、我々の人生に風味を加えるためのものなのだ。その原点を目撃できたのは、なんと非凡な体験だったことか。 ナイス・レストラン 午後、シビは私を「ソリダリティ(連帯)」という組織へ連れて行ってくれた。そこで我々はナライヤナン(2002年アジア学院卒業生)に出会った。アジア学院では「ナラン」と呼ばれていた彼は、人生の多くをアディヴァシ(先住民族)の擁護に捧げてきた。この活動のために彼と仲間たちは「ソリダリティ」を設立し、このセンターを築いたのだ。また新たな物語が始まる予感がするだろうが、今日は盛りだくさんの一日だった。明朝またここへ戻ってくる予定なので、話はその時にたっぷり聞ける。今は少しゆっくりして、町にある「ナイスな」レストランで夕食としよう。文字通り、名前が「ナイス・レストラン」なのだ。今日のメニューはバターチキンだ。 一つの「W」と三つの「S」 旅の途中、今にも目が閉じそうで一刻も早くベッドに入りたいのに、礼儀として、非常に親切で饒舌なホストと何時間も話し続けなければならない…という状況を経験したことはないだろうか。私はあるが、今回の旅でではない。私がここでわざわざ、饒舌なホストの役割を演じてあなたを引き止めているのは、もう一つ紹介したい組織があるからだ。それは今回、無償で宿泊場所を提供してくれた「ワヤナード社会奉仕協会(WSSS)」だ。彼らのウェブサイトは非常に充実しているので、長くは引き止めない。 WSSSは1974年にマナンサアヴェーディーのカトリック教区によって設立された。「カトリックだが、すべての人に奉仕する」と、代表のジノジ神父は説明する。その活動の規模と深さは圧巻で、40以上のプロジェクト(うち19が現在進行中)を抱え、200人以上のスタッフがいる。シビもナランも、キャリアの初期にここで経験を積んだ。 彼らがコミュニティに関わる入り口はSHG(自助グループ)だ。この言葉を覚えておいでだろうか。WSSSは、農家、女性、コミュニティ、そして部族の人々が組織化するのを助けている。SHGの利点は、人々が組織に依存するのではなく、互いに頼り合い、高め合えるようになることだ。 ジノジ神父は、WSSSを「教区で最高のプロジェクト」と称し、活動の項目を早口で読み上げたので、書き留めるのがやっとだった。特に目を引いたのは、コミュニティ・ラジオ局だ。ラジオ・マットリと呼ばれ、部族の言語による教育番組を放送している。私がアジア学院で学んだことの一つは、農村コミュニティにおいてラジオがいかに効果的かということだ。マラウイからフィリピンに至るまで、多くの卒業生が地元のラジオに携わっている。ラジオは農家にとって、天気予報や市場価格といった重要な情報を得るための唯一の手段であることが多いのだ。 農業に関しては、WSSSは1999年に有機農業へと転換し、現在は約20,000人の有機農家と連携している。このうち1万6千人が重要な認証を取得しており、つまりWSSSは加工や販売支援を提供できる状態にある。加工・販売は設立した子会社「バイオウィン」を通じて行われている。(前にざっくり触れたインドの法律に関する件を思い出していただきたい)。バイオウィンについては明日訪問するが、コーヒー、スパイス、果物、野菜を加工し、ヨーロッパ36カ国に輸出している。この会社は農家に公正な価格を保証しており、市場価格を上回ることもある。珍しいスパイスなら二倍の値を付けることさえあるのだ。 WSSSのウェブサイトは本当に美しい。神父が挙げた他の活動についても知りたければ、ぜひ見てほしい。 https://wsssindia.in/

6日目 その1

2025年 2月10日 月曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 スパイスの国 前回の夜行バスでのパニックを繰り返さないために、トーマス・マシューは次の目的地であるワヤナード県マナンダバディ行きのバス停へと早めに連れて行ってくれた。実際、1時間も早く着いたのだが、結局バスは1時間半も遅れてやってきた。これは「インド標準時刻」と呼ばれているが、90分の遅れはさすがにやりすぎだ。20分から30分程度なら許容範囲内なんだそうだが。 今回ベッドはなかったが、「セミ・スリーパー」と呼ばれるスーパーリクライニングシートだった。これなら背もたれをぐいっと倒してリラックスできる。唯一の難点は、前の座席が自分の膝のすぐ上まで迫ってくることだ。まあ、それでもすぐに眠りに落ちた。朝陽が昇るにつれ、我々もまた高地へと続く曲がりくねった道を登っていった。ここはワヤナード地区。涼しく爽快な空気と、パノラマのような風景が広がる場所だ。乗客全員がその景色を楽しんでいるようだったが、おそらく運転手もそうだったのだろう、突然「ドスン」という衝撃音がして、バスは路肩に止まった。軽い接触事故だった。私の計算では解決までに1時間から8時間はかかると踏んでいたが、幸いにも計算は大きく外れ、30分後には出発できた。到着予定時刻の午前5時になり、マナンダバディに近づく……ことなく、遠い場所にいた。あと4時間はかかりそうだったが、心配はない。私は自分の「ガマン時計」を最大にセットしていたからだ。バスがようやく終点に着き、シビ(2011年度アジア学院卒業生)が笑顔で迎えてくれた。彼は5時から待っていたというのに、不思議なほど忍耐を切らさずにいてくれた。 初めて読む方のために説明すると、「ガマン時計」とは、最悪のシナリオ(超大幅なバスの遅延など)を想定し、さらにそれを二倍にして見積もることで、苛立たしい旅の状況に備える私なりの方法だ。こうすれば、事態が予想より良くなったときに「やった!」と喜べる。これはその逆(期待して裏切られる)よりもずっと愉快なアプローチだ。「ガマン」とは、日本語の「我慢」に由来している。 県名であるワヤナードとは直訳すれば「水田の地」という意味だが、ここでの私の体験は、もっぱらコーヒー、紅茶、そしてスパイスに彩られていた。あなたが食卓に置いているその黒胡椒も、もしかしたらこの丘陵地帯で育ったものかもしれない。シビが「出発前にお茶を一杯どうですか」と勧めてくれたので、断る理由はなかった。お茶の後、森林保護区を抜ける短いドライブを楽しんだが、シビは「最近、ゾウやトラによる襲撃が増えているんだ」と付け加えた。…ほう。 ヴァナムーリカ その日の目的地は「ヴァナムーリカ」だった。私はこの名前が気に入っている。口に出してみてほしい。ヴァナムーリカ。実になめらかだ。ヴァナムーリカは場所の名前ではなく、約350人の女性メンバーからなる協同組合だ。20年以上前、アーユルヴェーダの薬を作るための薬草を保護する目的で、自助グループ(SHG)としてスタートした。現在、彼女たちは700種類以上のハーブや薬用植物を、すべて有機栽培で育てている。 オーガニックであることは彼女たちの活動の素晴らしい側面だが、オーガニック市場に参入するためには「有機認証」が必要だ。これには、ほとんどの農家が持ち合わせていない技術―つまり書類作成や厳格な規制への対応が必要になる。そこで、この問題に対処するために「オーガニック・ワヤナード」という別の協同組合が設立された。これは有機農業の推進と、農家の有機認証取得を支援することに特化した非営利団体だ。彼らはヴァナムーリカだけでなく、コーヒーやスパイスを栽培する1,500人の地元農家のネットワークとも連携している。 さて、オーガニックの製品と認証はそろった。では、どうやって利益を生むか。農家は当然、自分たちの土地での重労働によって生計を立てたいと考えている。しかしそのためには、加工とマーケティングを管理する「非営利ではない、本物の会社」が必要になる。なぜか? その説明にはインドの法律がどうとか色々な理由が含まれていたが、正直なところ、ほとんど聞き取れなかった。要するに、そのニーズを満たすために「ヴァナムーリカ・ハーバル&リサーチ株式会社」が設立されたというわけだ。 混乱しただろうか? もし混乱していないなら、あなたは私より賢い。一つの建物の中に、関連し合う三つの異なる組織があるのだ。私はシビに何度も確認しなければならなかった。 整理するとこうなる。• ワヤナード・ヴァナムーリカ・スワスリヤ・サンガム:350人の女性による元の協同組合。薬用植物の保護と有機栽培を担う。 • オーガニック・ワヤナード:地域の有機農業を推進し、認証取得を支援する非営利団体。 • ヴァナムーリカ・ハーバル&リサーチ株式会社:加工とマーケティングを管理する民間企業。大規模な加工センターを運営し、ヨーロッパへの安定した輸出ルートを確立している。利益分配制度を通じて、農家には作物の対価が公正に支払われる。同じ農家がこの施設に働きに来ることもあり、追加の収入を得ることで、お金が地域内で循環し続ける仕組みになっている。 こんなに時間をかけて説明する必要はなかったかもしれない。結局のところ、これらはすべて「地域コミュニティのため」に連携しているのだ。三つの組織は互いに依存し合い、全員が恩恵を受け、全員がまともな生活を送っている。それが機能しているのを見て、実に勇気づけられる。詳しく知りたい方は、彼らのウェブサイト(http://vanamoolika.org)を見てほしい。 コーヒーの裏話 中を見て回る準備はいいだろうか? よろしい、朝食をいただいたらすぐに出発しよう。今朝のメニューは、ココナッツチャツネを添えた、イドゥリだ。スポンジのようなイドゥリは南インドの典型的な料理で、美味しいカレーを染み込ませて食べるのに最適だ。 さて、巨大な木々の下で育つコーヒーの青々とした緑の中、丘を登っていこう。コーヒーは日陰を好む植物だ。胡椒のつるもたくさんある。プロジェクトマネージャーのジョージが同行し、必要な説明をしてくれた。コーヒーの収穫はほぼ終わっており、摘み取りや加工の大部分は完了していたが、幸運なことに、彼らはまだ「スペシャリティ・コーヒー」を取り扱っていた。おかげで、加工機械が稼働している様子をすべて見ることができた。コーヒー豆が上がり、転がり落ち、パイプから飛び出し、大きなかごに入れられて運ばれていく。あなたのお気に入りのマグカップに注がれるまでに、コーヒーがこれほどまでの工程を経るなどとは想像もつかないだろう。せっかくなので、加工について少しお教えしよう。この段階に達するまでに、栽培と収穫(完熟したコーヒーチェリーだけを選ぶための手摘み)という長い作業はすでに終わっている。あとは…葉っぱなどのゴミを取り除く「予備洗浄」、未熟な緑の実を取り除く「色彩選別」、傷んだ実を除く「一次洗浄」、種から果肉を剥ぎ取る「果肉除去(パルピング)」―コーヒーの場合、果実は捨てて「種」だけを残すのだ―、残った果肉を落とす「二次洗浄」、「天日干し」、豆の周りの殻を剥ぐ「脱殻」、混じっている石を取り除く「石抜き」、そして主にサイズや割れに基づいて9段階に分ける「グレーディング(等級分け)」。最高級はAAAだ。そして最後に、輸出用のパッキングが行われる。 …ここに「焙煎」は含まれていない。焙煎はそれ自体が一つの芸術だ。ほとんどのコーヒー輸入会社は、品質と鮮度を保ち、自分たちの好みの度合い(浅煎り、深煎り、あるいはその中間)に仕上げるために、自社で行うことを好む。この長い労働の連鎖の最後のステップだが、不適切な焙煎はコーヒーを完全に台無しにしてしまう。それはまさに、もったいないの極みだ。 通のために この日、彼らはバイヤーの要望で「発酵コーヒー」を作っていた。これは二次洗浄を省き、自家製の天然酵母と一緒に容器に入れ、5日間嫌気性発酵させるものだ。その結果、酸味が抑えられ、消化に良いコーヒーになる。他にも、豆の皮を剥がない「パーチメント・コーヒー」や、二次洗浄をせずに果肉を少し残したまま乾燥させる「ハニー・コーヒー」も作っている。これらはすべてコーヒーの「風味の特徴」に影響を与える。ハニー・コーヒーにはフルーティーなエッセンスがあると言われている。 こうしたスペシャリティ・コーヒーに必要な追加の加工は、価格を引き上げる。これが「付加価値」だ。また、バイヤー、加工業者、農家の関係を安定させるのにも役立つ。「これができるなら、もっと買うよ!」とバイヤーは言う。農家と対話し、バイヤーが望む正確な種類のコーヒーを、農家が納得する価格で生産できるように訓練するには、時間と労力がかかる。その結果、より良い価格を求めて他所へ浮気するようなことのない、簡単には壊れない長期的な関係が築かれるのだ。すべての当事者が、健全な形で互いに投資し合っている。 モンキー・コーヒー スペシャリティ・コーヒー市場を拡大しようと、ヴァナムーリカは「モンキー・コーヒー」や「バット(コウモリ)・コーヒー」の製造にも挑戦した。そう、私も、カフェにサルの一群が座ってエスプレッソをすすり、天井では逆さまのコウモリたちが小さなマグカップで器用にコーヒーを飲む姿を想像した。実際には、これらの動物に完熟したコーヒーチェリーだけを選んで食べさせ、吐き出された(おっと失礼)豆を利用するというアイデアだった。インドネシアの、高価で、かつ議論を呼んでいる「コピ・ルアク」を模倣しようとしたのだ。良い試みだったが、うまくいかなかった。バイヤーたちは、味に明確な違いは見られないと言ったそうだ。 ところで、「カッピング」という言葉を聞いたことがあるだろうか? ワインのテイスティングのような、コーヒー版の評価方法だ。ヨーロッパのバイヤーはカッピングのエキスパートであり、毎年ここを訪れて、協同組合のメンバーにカッピング、加工、焙煎、さらには収穫(どのコーヒーチェリーを摘むべきかを見分ける方法)まで指導している。ここはコーヒー愛好家にとって天国のような場所に違いない。インターンシップでここに来れば、有機農業、加工、マーケティング、そしてアーユルヴェーダ薬の調製に至るまで、あらゆることに携わることができる。 アジア学院の役割 個人的に、私が卒業生たちから学んだコーヒーの知識は、これまで知っていた知識をはるかに超えるものだった。ここだけでなく、インドネシア、タイ、カメルーン、そして近いうちにベトナムでも。彼らの多くは有機栽培を行っており、ほとんどが協同組合の中で活動し、コミュニティ全体の参加と利益を確保している。アジア学院はコーヒーの栽培については何も教えていないが、「リーダーシップ」については教えている。そしてそれこそが、卒業生たちが持ち帰るものだ。彼らはコーヒー栽培のやり方は、すでに知っている。しかし、人々を組織して共に働くこと―そこがアジア学院の出番だ。だからこそ、我々は地域に根差したリーダーを育てているのだ。 シビはヴァナムーリカでフィールド・オフィサーとして11年間働き、農家が自助グループ(SHG)や信用組合を設立するのを助けてきた。その時期に彼はアジア学院に行った。大学で農業を専攻していたため、ある程度の農業の知識はあったが、それでもアジア学院は彼の視野を広げ、彼は新しい学びを故郷で共有することに熱心だった。具体的には、虫や病気の管理のために「天恵緑汁」や「竹酢液」を導入したことを挙げてくれた。また、歯磨き粉の原料となる「もみ殻くん炭」の作り方も教えたという。人々は今でもそれを作り続けている。

5日目 その2

2025年 2月9日 日曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 スネークボート トーマス・マシューが、スネークボートの話を始めたとき、私は彼が一体何のことを言っているのか全く理解できなかった。その後、彼は実物を見せに連れて行ってくれた。なめらかで黒く、静かな威圧感を放ち、船尾が空高く突き出しているその姿には、これ以上ぴったりの名前はないだろう。アランムラ寺院周辺の50の村々は、それぞれ独自のスネークボートを所有しており、独自の様式で建造し、手入れし、装飾を施す。つまり、50隻ものボートがあるのだ。年に一度、彼らはこの舟を川へ出し、過酷なレースを繰り広げる。かつてこれらは軍用カヌーとして使われており、漕ぎ手たちは今もなお命がかかっているかのようにパドルを漕ぐ。これはYouTubeの動画を見て知ったことだ!私が見たボートは乾ドックにあり、裸足の作業員たちがドリアンの木でできた船体の補修をし、新しい黒いピッチ樹脂を塗る準備をしていた。聖なる場所では靴を履くことは許されない。 スネークボートは、モンスーンの時期にケララ州で開催されるヒンドゥー教の祭りの重要な一部を占めている。境界線を越えるのが性分のトーマス・マシューは、自分の村のボートの会長職を務めており、この祭りでその地位にある唯一のキリスト教徒だ。私が見たボートは彼のものではなかったが、すぐ近くにあったため、これほど間近で見られたのは幸運だった。一隻のボートには80人が乗ることができ、レースがない時には祭りの来場者を乗せてくれる。船の小屋にはヒンドゥー教の神々が描かれていた。トーマス・マシューは、青い肌のクリシュナ、四本の腕を持つシヴァ、そして象の頭を持つガネーシャという、ヒンドゥー教を学ぶための初歩的な三柱の主要な神々について説明してくれた。 境界線を越えて 境界線を越えるといえば、トーマス・マシューとIARF(国際自由宗教連盟)との関わりについて話すのに良いタイミングだろう。公式のウェブサイトがあるので、詳しくは触れないが、IARFは1900年にボストンで設立された、宗教間の対話を促進する世界で最も古い国際組織である。 トーマス・マシューがIARFを紹介されたのは、1999年にハーグで開催された、「平和への訴え」国際会議に出席していた折で、アジア学院のオランダ出身の友人、アイマートを通じてだった。彼がこの会議に出席していた理由は、後述する別の壮大な物語にあったが、IARFに関して言えば、その哲学が彼に強く響き、2008年には会長に就任するほど深く関わることになった。組織での活動、そしておそらく彼の人生におけるハイライトは、ダライ・ラマとの会見だろう。彼のFacebookプロフィールの「平和活動家」という言葉のすぐ上に、二人が語り合っている写真を見ることができる。 偉大な人々の中でも、トーマス・マシューは決して大柄な男ではない。彼は、自身が仕える草の根の人々と同じ目線の高さにいる。しかし、だからといって彼が「小さな」人間であるわけでもない。あらゆる人々、いわゆる「要人」たちまでもが、彼の二つの名前(トーマス・マシュー)を知っているようだ。かつて高見先生が「草の根レベルこそが最高レベルである」と言ったと聞いたことがある。トーマス・マシューがあらゆる種類の人々、特に社会から抑圧されている人々とどのように接しているか、彼らとの間にいかに距離がないか、そして人々が彼を仲間として、同時に深い尊敬を持って扱っているかを見るにつけ、これこそが高見先生が語っていたことなのだと思う。ここに一人の草の根のリーダーがいる。 アジア最大のキリスト教徒の集い 私のケララ訪問の週末は、偶然にも「マラモン・コンベンション」と呼ばれる大規模なイベントと重なった。これはマール・トマ教会が主催するアジア最大のキリスト教徒の集会だ。音楽家、説教者、講演者、そしてインド全土から集まった何万人ものマール・トマ教徒やその他のキリスト教徒が、パンパ川のほとりにあるココナッツの葉の屋根の下に集う。興味深いことに、30年以上前、我らが高見先生もこの参加者の一人であった。 トーマス・マシューは、司教や大物たちの隣にVIP席を用意してくれていたが、気温が40度近くに達していたことと、私が軽い人混み恐怖症であることから、我々は行かないことにした。何か重要なものを見逃しているような気もしたが、暑さと人混みはかなり心配だったので、次善の策をとった。家でYouTubeのライブ配信を視聴したのだ!今年、プログラムの一部には手話通訳がついていたが、これはコンベンションの常連であるトーマス・マシューが、(ヒンドゥー教徒の)友人の依頼を受けて手配したものだ。 このイベントで私にとって驚きだったのは、ケララ州を訪れるまでほとんど何も知らなかった教会に属する、何千ものキリスト教徒が集まり礼拝している光景そのものだった。私がマール・トマ教会のことを初めて聞いたのは、アジア学院でのことだった。この世界には、そして自分の宗教についてさえ、私の知らないことがこれほどまでにたくさんある。だからこそ、私は自分の心と思考、そして意見に通じる扉を大きく開いておきたい。招き入れるべき新しい発見は、あまりにも多いのだ。 コンベンションが終わった後、我々はその会場に立ち寄った。夕方になり、空気はずいぶん涼しくなっていた。人波はほとんど引いていたが、そこで大規模な何かが行われていたことは明らかだった。 核なき世界へ さて、トーマス・マシューに関する最後の物語となるが、これも他の話に劣らず驚くべきものだ。一言で言えば、核兵器に対する彼個人の運動の物語である。 以前、広島平和記念資料館への訪問が、トーマス・マシューの、リベリア出身のクラスメートに大きな衝撃を与えたという話をしたが、実はその訪問は、別の人物の心をも深く揺さぶっていた。あまりにも深く揺さぶられたため、彼はその後10年間にわたり、核戦争の恐怖と現実の危険についてインドの人々を精力的に教育することに費やした。その人物とは、もちろん、トーマス・マシューである。 1990年、アジア学院から帰国した翌年、彼は黒川万千代さんをインドに招き、その体験を語ってもらった。黒川さんは被爆者、つまり原爆の生存者だ。当時、日本には多くの被爆者がおり、困難を伴いながらも、あの運命の日と、原爆の惨禍に巻き込まれた、その後の日々について語っていた。彼らは資料館への来館者や訪れる要人、学校など、招かれればどこででも話をしていた。二度とあのようなことが誰にも、どこにも起こってほしくないからだ。私はアジア学院の学生に同行して広島へ行った際、被爆者の話を聞く機会が二度あった。聞くのが辛い内容だったが、聞く必要があった。我々全員が聞く必要があるのだ。今日、その物語を語れる被爆者はほとんど残っていない。我々には、彼らの声と姿が記録された録音やYouTube動画しか残されていない。それが十分であることを願うばかりだ。 トーマス・マシューが黒川さんのために企画した「平和への旅」は、1990年8月5日、コルカタでのマザー・テレサとの面会から始まった。その後、彼女はインド全土を巡り、学校や政府高官、要人たちに向けてメッセージを伝えた。コーチでは、彼女のためにレッドカーペットが敷かれた。その後の10年間で、トーマス・マシューは計18人の被爆者をインドに招き、原爆体験を語ってもらう機会を作った。原水協(日本原水爆被害者団体協議会)と日本被団協は、学校で展示するためのパネルセットを500セット提供した。各セットには25枚の大きな写真が含まれていた。日本被団協は、核兵器の世界的廃絶を訴え続けてきた被爆者の団体であり、2024年にノーベル平和賞を受賞した。私の控えめな意見を言えば、あまりにも遅すぎた受賞である。 トーマス・マシューはまた、「平和首長会議」の活動と、彼らの「CAN’T」というメッセージも広めている。CAN’Tとは「Cities Are Not Targets(都市を攻撃目標にするな)」の強力な頭字語であり、いかなる戦争、特に核戦争において都市が標的とされるべきではないという事実を強調している。平和首長会議は、世界の都市の市長に核兵器反対の呼びかけへの参加を求めることで、すべての核兵器の廃絶を目指している。現在、世界中で8,000以上の加盟都市があり、トーマス・マシューはインドにおいて、多くの署名を実現させた立役者である。 しかし、1990年代、トーマス・マシューの反核運動を歓迎していたインド政府の態度は、1998年5月10日に一変した。その日、インドはポカラン市郊外の砂漠で(1974年に続き二度目となる)核実験を行った。彼らが核兵器の開発を続けていたことすら知らなかったトーマス・マシューにとって、それは大きなショックだった。抗議のため、彼はケララ州トリヴァンドラム市にある「殉教者の碑」へ行き、丸一日間のハンガーストライキを行った。この碑は、インドの独立のために命を捧げたすべての人々を記念したものだ。核実験はインドと日本でテレビ放送されていたため、彼は可能な限り多くの報道機関に電話をして個人的な抗議活動を伝え、いくつかの新聞がそれを記事として取り上げた。「危険なことだった」とトーマス・マシューは言った。「しかし、何が真実か、 私は語らなければならない。」 トーマス・マシューが広島や長崎について語っていたとき、インド政府は彼に寛容だった。しかし、彼がインドの核実験に対して声を上げたとき、彼らは怒り、情報機関の捜査官を彼に差し向けた。その日以降、彼はこれ以上被爆者をインドに呼ぶなと警告された。原爆は、敵対するパキスタンや中国に対する、インドの「誇り」だったのだ。 しかし、国際社会は依然として耳を傾けていた。彼らはトーマス・マシューの物語を求めていたので、彼は準備を進めた。1999年、トーマス・マシューはカメラとカムコーダ(あなたもご存じだと良いのだが)を抱え、一人でポカランへ向かった。実験場から10㎞離れたケトライという砂漠の村で写真を撮るためだ。その後、地元の病院を訪れると、多くのガン患者がいるのを見つけた。病院にはガンに対処する設備が全くなく、患者にはただ鎮痛剤が与えられているだけだった。 トーマス・マシューは、二つのグループの人々が核実験によって直接的な影響を受けていることを突き止めた。一つはビシュノイ教徒のコミュニティだ。彼らは敬虔なヒンドゥー教の一派で、その地域でラクダや牛を飼育している。自然と生命に対する強い畏敬の念を持っており、木を切らず、肉も食べない。彼らの栄養源のほとんどは家畜から得られるミルクとバターだ。動物たちが食べる草が放射能に汚染されていたため、ミルクも汚染され、人々は甲状腺ガンを発症していた。チェルノブイリの周辺で起きたことと同じである。 もう一つのグループは、砂漠を放浪して金属の破片や死んだ牛を回収しているダリットの人々だ。牛が乳を出さなくなると、この聖なる獣は死ぬまで放浪させられる。多くのダリットは他人が捨てたもので生き延びており、牛の皮や、飼料にするための骨、さらには腐っていなければ肉までも回収する。当然、これらはすべて放射能を帯びていたが、人々はそれを知らなかった。核実験が行われたことすら知らなかったのだ。 実験は地下で行われたが、どうやら完全な地下ではなく、地表の広い範囲が汚染されていた。人間の苦しみに対する政府の回答は、「いかなる成功にも、いくらかの痛みは伴う」というものだった。後にボンベイのタタ・グループが、1,000キロ離れたボンベイにガン治療の施設を建設し、これらの人々に無料で治療を提供したが、トーマス・マシューによれば、それを利用した人はほとんどいなかった。死ぬのは運命だ、と人々は言った。 三度の砂漠訪問の後、トーマス・マシューはドキュメンタリーをまとめ、オランダのハーグで開かれた前述の国際会議「平和への訴え」に送った。彼は出席して発表をするよう招かれたが、資金がなかった。そこでIARFの話にも出てきたアイマートが、彼を助けるために手を差し伸べた。 トーマス・マシューのセッションは、クエーカー教徒の組織である「アメリカ・フレンズ奉仕団」がスポンサーとなり、三人のノーベル平和賞受賞者(当時の国連事務総長コフィー・アナン、デズモンド・ツツ司教、地雷禁止活動家のジョディ・ウィリアムズ)を含む600人が出席した。彼は10分間の映画を上映し、その後30分間にわたって質問に答えた。終了後、ツツ司教は彼を抱きしめ、インドの地下核実験は安全なものだと思っていたと告げた。会議が始まる直前、トーマス・マシューは会場のドアの外に1,000部のパンフレットを置いておいた。喜ばしいことに、それらはすべてなくなっていた! 物事は順調に進んでいた―ムンバイで飛行機を降りるまでは。そこで彼は、RAW(インド対外情報局)の捜査官たちに待ち伏せされていた。その名前は一見無害に聞こえるが、アメリカのCIAに相当する組織だ。彼は部屋に連行され、一晩中尋問を受けた。「喋るな」というのが彼らの命令であり、保釈なしの一年間の投獄という脅しが伴っていた。家族も苦しむことになるぞ、と彼らは念を押した。ようやく解放された彼は、疲れ果てて家に帰った。しかし、わずか数時間の睡眠の後、ドアを叩く音がした。再びRAWの捜査官が現れ、家宅捜索を始めたのだ。彼らはトーマス・マシューのフィルムやビデオ、さらにはビデオカメラまでも押収した。そして会議に置いた1,000部のパンフレットはどうなったか。それらもまた、RAWの捜査官によって没収されていた。彼らはハーグにもいた。トーマス・マシューの発言を止めることはできなかったが、そこにいたのだ。 私はドキュメンタリーのコピーがハーグに残っていないか気になったが、彼は一度も探し出すことができなかったと言った。おそらくどこかのマイクロフィルムに収められ、劣化し続けているのだろう。

5日目 その1

2025年 2月9日 日曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 裏庭のスーパーマーケット 朝食後、トーマス・マシューは私を農場へと案内してくれた。彼の家の周りを歩くだけで、そこへたどり着く。そこはほとんどが果実やスパイスが実る木々で構成されており、インドネシアの別のアジア学院卒業生の場所で見た「フードフォレスト(食べられる森)」を思い出した。もっとも、彼は「フードフォレスト」という言葉自体は聞いたことがなかったようだが。彼が日々の手入れをあまり必要としない樹木を好むのは、多忙なスケジュールと頻繁な出張のためである。 警告しておくが、私は今から彼が指し示した順番通りに、すべての木の名前を挙げようとしている。これは世の「フードフォレスター」たちのための記録だ。もし目が疲れ、意識が遠のき始めたら、遠慮なく先へ読み飛ばしてほしい。 よし、では始めよう。玄関を出て右側にあるのはオールスパイスの木だ。そう、オールスパイスとは一つのスパイスの名前である。かつての私が思っていたように、あらゆるスパイスを混ぜ合わせたものではない。その隣にはナツメグの木がある。小さな瓶に入ったものを買うのではなく、自分の手でスパイスを摘み取れるというのは、さぞかし楽しいことだろう。数歩進むと、堂々たるウードの木(沈香)が立っている。SEEDSインドにあったものと同じだ。別名アガーウッドと呼ばれ、香水や線香、生薬の原料になることを覚えておいでだろう。家の側面に回ると、ちょうど開花時期を迎えたマンゴーの木がある。熱帯諸国を旅する時、私はいつもマンゴーのシーズンを逃してばかりだ。 次に現れるのはコショウのつるだ。これについては、数日後には嫌というほど詳しく知ることになる。それからジャックフルーツの木。巨大だが芳醇で美味しい果実を実らせる。その黄色みを帯びた材木は建築資材としても極めて優秀だ。その後にコーヒー、チクー(これについてはググってみてほしい)、そしてバニラの木が続く。彼が育てているドリアンは、ドリアンとジャックフルーツを掛け合わせたような品種だ。あの悪名高きドリアンの臭いがするのか気になるところだ。 家の裏手に回ると、サリーが毎朝摘んでいるカレーリーフがある。続いて、若いアボカドとマコタ・デワの木。この葉は糖尿病に効くため、トーマス・マシューの健康にも良いということだ。 忘れないでほしいのは、ここは「森」だということだ。私の説明だと、まるで果樹園のように木々が整然と並んでいるように聞こえるかもしれないが、そうではない。あちこちに点在しており、通常は同じ種類が数本ずつ植わっている。シナモンの木もあり、その皮を剥ぐことで、おなじみのシナモンパウダーが作られる。カカオの木は、リスと「契約」を結んでいる。リスが熟した実を食べ、木が望む通り、種を地面に落としてくれるのだ。野生のタロイモは、アディヴァージの友人たちの森から譲り受けたものだという。次はマンゴスチンと毛むくじゃらのランブータンだ。その味はライチ(これも近くで育っている)に似ているが、私に言わせれば、ライチよりずっと旨い。 さて、お次は免疫力を高めるモリンガ、そして南インド料理の多くに使われるココナッツだ。おっと、ここにはマホガニーとチークもある。彼の祖父や曾祖父が植えた、いわば「森の投資信託」だ。あちらにはまた別の香木、サンダルウッド(白檀)があり、その隣には星の形をしたリンゴのような食感のスターフルーツの木が立っている。ようやくレモン、グズベリー、グアバ、プラム、パパイヤ、パッションフルーツにたどり着いた。驚いたことに、日本で驚くほど高値で取引されている、宮崎マンゴー(日本で栽培されているマンゴーの品種)まである! バナナも多種多様で、土壌の鉄分を吸収して赤くなる品種もある。それらは朝食に食べたプランテーン(料理用バナナ)の間に点在している。 ところで、ドラゴンフルーツの枝ぶりを見上げている間に、アリの巣を踏んでしまわないように注意が必要だ。彼らに噛まれるのはごめんだ。リストの最後は、葉の表が緑で裏が赤いミルクフルーツ、そして、次に食べるものも甘く感じさせるほどの甘みを舌に残すミラクルベリーだ。そして……ちょっと待て…おそらく、これで全部だと思う。いくつか見落としがあるかもしれないが、ようやく終わりまでたどり着いて、あなたもホッとしていることだろう。季節ごとに独自の恵みが与えられるなんて、なんと豊かな食卓をトーマス・マシュー一家は楽しんでいることか。 聴覚障がい者たちの交わり 日曜の朝だったので、トーマス・マシューは私を教会へ連れて行った。彼が普段通っているマー・トマ教会を通り過ぎ、車を走らせて、彼が月に一度訪れる別の教会へ向かった。そこは聴覚障がい者たちのコミュニティのための教会だ。彼は30年以上前にこの教会を建て、近隣の聴覚障がい者たちに声をかけて回った。交通費まで負担することもあったという。今日では、完全に独立して運営されている教会だ。「彼らがすべて自分たちで管理している。彼らの教会なのだから。」とトーマス・マシューは説明する。 中に入ると、その「騒がしさ」に驚かされた。音ではなく、腕や手の激しい動きが生み出す、騒がしさだ。彼らは賛美歌を歌っていた。トーマス・マシューと私は前方の席に座り、礼拝は中断されることなく進んだ。牧師は教壇から会衆に手話で語りかけていたが、正面中央に掲げられた大きな黒板も活用していた。実際、この黒板は説教をする上で不可欠な役割を果たしていた。今日のテーマは、マタイによる福音書にある、「二人の息子」の話だった。黒板に書かれていたので、私にもそれが分かった。問いは「どちらの息子が父親に従ったか」であり、牧師は説教をしながら、重要な言葉や要点を書き記していった。その後、彼は私が驚くような行動に出た。私の後ろに座っていた会衆の一人を前に呼び寄せ、これまでの説教の内容をどのように理解したのか説明させたのだ。実のところ、その説教は「会話」に近いものだった。会衆の一人が牧師の言葉に疑問を抱いたり、質問があったりすれば、席から手話で伝えた。牧師はそれに耳を傾け(見つめ)、応じた。それは議論や論争ではない。静寂の中での、のんびりとした平和な語り合いであった。 そして次の節へと移り、テーマは「誰が一番偉いのか」になった。黒板に書かれていたので、その後の「会話」の続きも私には理解できた。主の祈りが唱えられているとき、トーマス・マシューは、祈りも賛美歌もすべてマラヤーラム手話で行われているのだと教えてくれた。その時は意味がよく分からなかったが、後に、手話の世界も話し言葉と同じくらい複雑で、公式な手話もあれば、多くの地域特有の手話があることを知った。ここで詳細に立ち入ることはしないが、彼らは礼拝中に英語とマラヤーラム語を混ぜて使い、必要に応じて黒板で補足説明を行っていた。 礼拝の最後に、トーマス・マシューが前に立ち、手話で皆に語りかけた。このコミュニティが彼に手話を教えたのだ。彼が何を言っているのかは分からなかったが、私を紹介していることは分かった。私も前に出て一言話すよう促されたからだ。手ではなく声を使って、私は自分自身のことやアジア学院について話し、そして何より、この場所で最も美しいと感じたことを伝えた。それは、聴覚障がい者のコミュニティとともに礼拝を守るという、初めての経験そのものではなかった(もちろん、それも深く心に響いたのだが)。そうではなく、牧師が会衆を説教に招き入れ、質問をさせ、自分に挑ませたという事実だ。彼は自らを聖書の唯一無二の権威として押し出すのではなく、その意味を探求する過程に人々を招き入れていた。そのことに、私は何よりも感動した。もちろん私の言葉はすべて英語だったが、トーマス・マシューがマラヤーラム語に変え、さらに教会でボランティアをしている健常者の女性が手話に変えて、伝えてくれた。 礼拝後、数人のメンバーと「お喋り」をする機会があった。彼らは私に「日本」と「アメリカ」を表す手話を教えてくれた。集合写真を撮る際、彼らは「3、2、1」と言う代わりに、指を使ってカウントダウンをしていた。それは私にとって全く新しい世界であり、その中に引き込まれていくような感覚を覚えた。もっと学びたいと感じた。 ここはケララ州で最初の、そしておそらくインド全土でも最初となる、実際の教会堂を持つ聴覚障がい者の教会だ。2021年にはSEEDSインドによって全面的な改修も行われている。他の会衆は学校などの会場を借りて集まっており、ケララ州にはそのようなグループが54ある。トーマス・マシューが活動を始めた当初、主流派の教会は、時間の無駄だと言った。「彼らは理解できないだろう。普通の教会に行かせ、聖餐を受けさせれば天国へ行けるじゃないか。」と話したのだ。トーマス・マシューはこれを「サイドライニング(疎外)」と呼んでいる。 教会の正式名称は「Ebeneezer Fellowship of the Deaf 」であり、教派には属していない。彼らは「Fellowship(親睦・連帯)」という言葉が気に入っている。その言葉が包括的な意味を持っているからだ。毎週通ってくるヒンドゥー教徒の男性さえいる。礼拝が終わると、人々は弁当を広げて午後のひとときをお喋りに費やす。コミュニティの男性の多くは塗装工として働いている。彼らはチームで仕事をしており、その質の高さと誠実な仕事ぶりは高い評価を得ている。女性たちは裁縫や手芸、そして忘れてはならない、木の葉に絵を描く「リーフ・ペインティング」に従事している。 なんて素晴らしい朝だったのだろう。この記憶は、私の生涯にわたって残るだろう。 不可触民に触れる その日の午後、トーマス・マシューは私を鏡の店へ連れて行った。「風変わりだ」と思われたなら、その通りだ。ガイドブックには載っていないような、地元の文化的な至宝の一つだった。この店の鏡はすべて合金から手作りされており、その秘伝の技術は何世代にもわたって受け継がれてきたものだろう。「アランムラ・ミラー」として知られるこの鏡は、このアランムラという小さな町以外、インドのどこを探しても見つからない。当然、私も買わずにはいられなかった。インド菩提樹の葉の形をした真鍮の枠に収められた、小さな鏡だ。なんと特別な品だろうか。 しかし、私が本当に話したいのは鏡の物語ではない。2018年にここで起きたことについてだ。この店は当時、水没していた。通り全体が、文字通り、湖と化していたのだ。その年のモンスーンは河川やダムの許容量を遥かに超える豪雨をもたらし、ケララ州はここ100年で最悪の洪水を経験した。地元の漁師たちは、屋根の上に取り残された人々を救出するために「道々」を舟で回った。水没した木々や電線に衝突するような危険を冒し、自分の舟を傷つける者もいたが、それでも彼らはそれをやってのけた。さて、濡れて滑りやすい屋根から、ゆらゆらと揺れる舟へと飛び移るのは、普通の人間にとって容易なことではない。当然、漁師たちは手を差し伸べた。ほとんどの人はその手を喜んで掴んだが、全員ではなかった。実は、漁師は低位カーストと見なされており、臭い労働者として見下されているのだ(彼らがいなければ、美味しいフィッシュ・カレーも食べられないというのに!)。そのため、一部の上位カーストの人々は彼らに触れることを拒んだ。これに対し、漁師たちはこう言い返した。「俺が不可触民だと思っているのか? お前たちこそが不可触民だ。あんたたちを救っている俺こそがバラモン(最高位カースト)なんだぞ!」そして、物事はそんな風にして、進んでいったのだった。

4日目 その2

2025年 2月8日 土曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 35の家族 毎月第二土曜日は国民の休日であり、すべての家族がSEEDSインディアに集まる日だ。「一体、どんな家族?」と問われれば、もちろん教育支援を受けている子どもたちの家族のことだ。その数は全部で35。つねに35家族と決まっている。一人の子供が18歳になって卒業すると、別の子供がグループに招き入れられるのだ。SEEDSはこの活動を25年間続けてきた。 彼らは単に子どもの学費を払って終わり、とはしない。家族全員と長期的な関係を築き、本や制服、さらには子供たちが家で勉強するための机まで提供する。必要であれば、住宅やトイレの設置まで支援する。病気や事故などの困難が生じた際も、SEEDSは人々を支える。卒業後も連絡を取り続け、元気にやっているかを確認する。それはよそよそしい支援ではなく、深い関わりを、長期にわたって行う、愛情たっぷりのケアなのだ。 我々が到着したとき、会場にはお茶とお菓子が用意され、お喋りと笑い声の活気に満ちていた。集会の最後には、各家族が新鮮な野菜や穀物、その他の必需品が詰め込まれた大きな食料袋を持ち帰る。それは一週間から二週間はもつ、かなりの量だ。トーマス・マシューは、すべての家族、そしてその家族を構成するすべての人を熟知している。彼はその名前と一人一人の近況を、あなたに話してくれるだろう。例えば、ある男性には障がいを持つ息子がおり、その日は来られなかったが、普段は出席しているという。美しいオレンジ色のドレスを着たある女性は、ここの孤児院で育った。彼女は結婚して三人の子供がいるが、夫が去ったために今は苦労している。彼女は英語が堪能で、日本語も少し話せるため、とても熱心に私と話をしてくれた。これらの家族のほとんどは、トーマス・マシューが言うところの「良い地位」に上り詰める。人々は自立し、独立する。皆、社会の最下層に位置するダリット(不可触民)やアディヴァージ(先住民族。この人たちについては、後で詳しく説明する)の出身だが、このような環境では、そのことを意識することはない。全員が尊厳をもって扱われ、受け入れられている。 トーマス・マシューはマラヤーラム語で話をした。後で彼が教えてくれたその要旨は、「私よりも優れた人間になりなさい。」という励ましであった。トーマス・マシューはこれらの人々のためにしているすべてのことを通じて、大いに尊敬されているが、本人は賞賛を望まない。感謝を表したいのなら、他の人たちにも同じことをしてあげるのが一番だと彼は言う。「私より上手くやってくれ!」その後、彼は私に挨拶をするように言った。予想していたことではある。何を話すべきか迷ったが、昔このような状況のために学んだ策を講じた。人々の中に美しいものを見つけ、それがどれほど美しいかを伝えるのだ。この時は、彼女たちの色鮮やかなサリーだった。質問の時間になると、前列にいた三人の生意気盛りの女の子たちが、私に歌を歌ってほしいと言い出した。弱った。パニックになり頭が真っ白になった。彼女たちに歌を教えてほしいと頼んで回避しようとしたが、彼女たちは聞き入れなかった。その時、突然、魔法のように日本のメロディーが浮かんできた。「秋の夕日に……」。やまのしたさんに知っているか尋ねると、彼は知っていた。そこで我々は一緒にその歌を歌った。素晴らしい瞬間だった。すると、オレンジ色のドレスの女性が小学校で習ったという日本の歌を歌い、続いてやまのしたさんがソロで歌を披露した。 集会は恒例の集合写真と、たくさんの笑い声と笑顔、そして子供たちとの拳を合わせるフィストバンプで幕を閉じた。その後、トーマス・マシューは個人的に、来ることのできなかった盲目の女性の家へ、食料の詰め合わせを届けた。いつもは家族の誰かが取りに来るのだが、この日は都合がつかなかったのだ。 さらなるSEEDSの活動 移動式鶏舎アジア学院では、各学生が一つの技術やプロジェクトに集中して取り組むプロジェクト期間を夏に設けている。トーマス・マシューの場合、それは養鶏であった。後にこれが、鶏を飼うことで人々の収入を助けるというアイデアにつながった。ダリットの人々にとってスペースの確保は課題だ。つまり、広い土地がない。そこで彼は「移動式鶏舎」を提供することに決めた。SEEDSインディアは、鶏の世話に関する指導とともに、この鶏舎を無償で提供する。人々は、この車輪付きの小屋の屋根瓦と、鶏を購入すれば良いというわけだ。 アディヴァシ(先住民族)支援ここから80kmほど離れた場所に、アディヴァシのコミュニティがある。彼らは「森の住人」とも呼ばれるが、「アディヴァシ」という言葉は本来「最初の居住者」、つまりその土地の先住民を意味する。太古より存在する人々だ。我々にはそこへ行く時間はなかったが、心配はいらない。数日後、人生のすべてをアディヴァシの権利のために捧げてきた別の卒業生に会う予定であり、そこで嫌というほど詳しく学ぶことになる。ここでは、その前触れとして少しだけ触れておく。 月に一度、トーマス・マシューはこのコミュニティに野菜、ジャガイモ、雑穀、ミルク、ヨーグルト、そしてお茶やお菓子が詰まった食料セットを届けている。また、痛み止めや解熱剤、下痢止めなどの医薬品も運ぶ。彼は、携帯電話とソーラー充電器を持っているコミュニティのリーダーと連絡を取り合い、訪問を調整している。アディヴァシの人々は内気で静かだ。彼らはマラヤーラム語とタミル語が混ざったような独自の言語を持っている。本来、この人々は森の果実や蜂蜜を食べて生活していたが、今日では森から得られる収穫は減っている。強欲な人々が森を切り倒し、商業的な単一栽培地に変えてしまったからだ。もっと書き続けたい衝動に駆られるが、忍耐強く、適切な時が来たらこの物語を話すことにする。 アランムラ寺院 最後の家族を見送り、盲目の女性に食料を届けた後、我々はパンパ川のほとりにある1500年の歴史を持つアランムラ寺院を訪れ、クリシュナ神を参拝した。それぞれの寺院は特定のヒンドゥー教の神に捧げられており、ここは慈愛、保護、愛の神であるクリシュナの崇拝者のための場所であった。 寺院の外壁の土台に沿って、オイルランプが列をなして灯されていた。夕暮れ時に揺れる小さな炎が落とす影は、この世のものとは思えない雰囲気を放っていた。近くで見ると、壁の至るところにランプを置くためのくぼみがあり、祭りの際にはこの全てに、何百、何千という灯りが灯されるのだとトーマス・マシューが教えてくれた。想像するだけで圧倒される。寺院の内部に入れるのはヒンドゥー教徒のみで、男性はシャツを脱がなければならない。我々は全員、靴を脱いだ。 寺院の入り口には、オレンジ色の服を着て完全にリラックスした状態で横たわっている男がいた。後で知ったことだが、彼は「サドゥー」と呼ばれる、寺院での精神的な生活のために世俗の生活を捨てた修行者であった。彼は家族も物質的な所有物もすべて捨て、参拝者から与えられる食べ物だけで生きている。 寺院が広い川のそばにあるため、私はカトマンズのパシュパティナート寺院で見たような儀式が行われているのかと考えた。あそこでは、死者が火葬され、その遺灰が川に流されていた。しかし、ケララ州では遺灰は家に持ち帰るのだという。一年のうち一日だけ、指定された場所で川に流すことが許されているが、それも希望する場合に限られる。愛する人を近くに置いておきたいと願う家族もいるのだ。 忘れ去られた人々 我々がパンニヴェリチラと呼ばれる場所に到着したときには、すでに日が暮れてからずいぶんと時間が経っていた。ここを訪れる人はほとんどいない。なぜなら、そこはダリットが暮らす場所だからだ。我々が訪ねたコミュニティは、三棟の長屋で構成された区画の中にあった。家とは言っても、実際にはコンクリート製の四角い部屋だ。数軒には電気が通っているが、ほとんどの家はオイルランプの薄暗い明かりを頼りにしている。中央の広場に沿って炊事場があり、薪で料理をするための五徳が備え付けられている。突き当たりには井戸がある。雨水を貯めるために巧みに配置されたバケツも見かけた。全員で共用する二つのトイレが奥の角にあり、その少し裏手には、水浴びをする者のプライバシーがある程度守られるようになっている洗面所がある。 我々が夜に訪れたのは、その時間帯でなければこの人々は家にいないからだ。彼らは夜明け前に出かけ、路上でリサイクル可能なゴミを回収する。金属、瓶、缶、紙、何でもだ。時には家のドアを叩き、捨てるものがないか尋ねることもある。一日に20㎞歩くのは普通で、時には30㎞、40㎞と歩く。いくらかの金になるものを見つけるまで、人々は立ち止まるわけにはいかない。一般的な手法としては、まず女性たちがバスで遠方まで行き、そこから歩いて戻りながらゴミを回収し、道端に積み上げていく。その後、夫たちが同じルートをたどってそれらを回収し、店に売りに行く。夫たちが帰宅するのは妻よりもずっと遅くなるため、その間に女性たちは料理をすることができる。一日にいくら稼げるのかは分からないが、かろうじて生計を立てられる程度であるようだ。 周囲に子どもの姿はなかったが、彼らにも確かに子どもはいる。ただ、この環境では子どもを適切に育てる術がないのだ。そのため、子どもたちは故郷で親戚と暮らすか、あるいは孤児院に入り、学校に通っている。教育は不可欠だ。親たちは子どもにはもっと良い生活を送ってほしいと願い、そのためなら1ルピーでも多く送金しようとする。SEEDSインディアもまた、教育や健康に関する啓発プログラムを通じて関わっている。6月か7月の休暇に、年に1ヶ月ほど、彼らは子どもたちと一緒に過ごす。 トーマス・マシューは彼らと長い付き合いであり、人々は我々を家族のように歓迎してくれた。彼らは皆、タミル・ナードゥ州との境あたりの別の場所からやってきた人々だ。約半分は森を追われたアディヴァシであり、残りの半分は土地を持たないダリットである。我々が歩き回る間、トーマス・マシューは人々の生活について私に説明しつつ、同時に彼らとも言葉を交わしていた。数人の人々が集まってきて、私に自分の部屋を見るよう手招きした。質素に暮らし、持ち物がほとんどないことに、人々は何の恥じらいも持っていなかった。ほとんどの場合、人々の持ち物は、壁の棚にある鍋や釜、スパイス、衣服、物を回収するための袋、そして寝床用のマットだ。そう、コンクリートの床と体の間にあるのは、薄い藁のマット一枚だけである。ある部屋の中を覗き込むと、他の人々も自分の部屋を見るようにと我々を引っ張っていった。ある女性は石鹸と水で床をごしごしと磨いており、トーマス・マシューが「濡れた床の上で寝るのか」と尋ねた。彼女は、今夜は友人の部屋で過ごすと答えた。別の女性は、痛む腰に当てる温湿布を作るために湯を沸かしていたが、その笑顔で痛みを隠していた。歩いていると、一人の男性が暗闇で我々が根っこや障害物につまずかないよう、明るいライトで道を照らしてくれた。私がメモを取るたびに、彼は私のノートに光を向けてくれた。 トーマス・マシューはケーキの詰め合わせを持ってきており、一人の女性が集まった全員にそれを配った。彼女は最初の一切れをトーマス・マシューに差し出したが、彼は糖尿病であることを理由に断り、二切れ目が私に回ってきた。私はそれを受け取ると、残りが配られた。この些細な振る舞いが心に深く響き、私はすぐに高見先生の「乏しさを分かち合う」話を思い出した。若かりし頃、高見先生は猛烈なサイクロンから復興しようとする人々を助けるためにバングラデシュへ行った。人々は彼を家に招き入れ、どんなに食べ物が少なくとも、それを彼と分かち合った。高見先生はそれを「乏しさの分かち合い」と呼んだ。 この訪問を咀嚼するには時間がかかるだろう。彼らは見知らぬ私を、そして友であるトーマス・マシューを歓迎してくれた。ほんの短い間、彼らはその人生を私にさらけ出してくれた。「彼らは貧しいが、幸せだ」というような馬鹿げた言葉で、この場所を美化するつもりはない。いや、彼らは貧しく、人生は過酷で残酷だ。しかし、ここでは、彼らは髪をほどき、靴を(もし持っていればの話だが)脱ぎ捨てることができる。なぜなら、ここは安全な場所だからだ。家族のように、誰もが他者の痛みを知り、理解している。同じ痛みを抱えているからだ。そして、その理解されているという安らぎのうちに、彼らはありのままでいられる。笑いたければ笑い、泣く必要があれば泣く。しかし、おそらくは、明日もまた過酷な一日が来ると知りながら、ただひたすらに過酷な今日という日を過ごしたその身体を休ませるのだ。

4日目 その1

2025年 2月8日 土曜日 南インド & ウッタラーカンド州 編 ストリングホッパーとカレーリーフ 今朝の朝食はイディヤッパム、またはストリングホッパーと呼ばれるものだった。これらは麺がかわいく束状になっており、一口か二口分の量があり、カレーと一緒に食べる。サリーは毎日、庭からカレーリーフを採ってくる。この葉の主な役割はカレーに風味をつけることであり、食べるものではない。そのため、この葉は「古いカレーリーフのように彼を追い出す」という表現に使われ、昔の恋人を指している。 アジア学院での思い出 今朝の朝食の会話は、宗教やインドの歴史などではなく、アジア学院についてであり、トーマス・マシューは当時の小話をたくさん持っていた。私はこういう話が大好きだ。なぜなら、それぞれの話が、私の持つ学院に対する視点とは違う見方を教えてくれるし、学院のコミュニティで人々が共同生活を送りながら何を学んでいるのか、知ることができるからだ。正直に言って、これほど多様な人々を一堂に集めれば、予期せぬ出来事が発生するのは当然であり、誰もが小話を持っている。ストリングホッパーを食べながら、私が聞いた話を、いくつか挙げよう。「アジア学院では、見知らぬ人たちと一緒に暮らします。」とトーマス・マシューは語り始めた。「そして、その見知らぬ人たちはやがて友人になります。一つの屋根の下で、持っているものを分かち合います。意見の相違があれば、仲直りしなければなりません。なぜなら、その日、その人と共に働き、食事をとり、生活しなければならないからです。違いがあっても、共に暮らさなければなりません。私たちもこのように生きる必要があります。」 マニラへの立ち寄り その年の学生の中に、パキスタン人の男性がいた。トーマス・マシューは、時間にとらわれず、質問をするのが好きな人だと説明した。彼は、特に金曜午後のリフレクションと計画の時間に質問をするのが得意だった。全学生がこの話し合いに参加し、彼と同じくらい強い個性を持つ人々も多数いたため、「活発な」会話が生まれていた。特に彼は、フィリピン出身の強い意志を持つ二人の女性と衝突することが多かった。数ヶ月にわたり、彼らは一種の敵対関係にあり、それは彼らが旅立つ日まで続いていた。パキスタンへのフライトが少ないため、この男性は、他の皆、そして二人の女性が去ったずっと後になって旅立った。帰路の途中、乗り継ぎ便に問題が発生し、彼は立ち往生してしまった。行き先は…マニラだった。空港まで迎えに来て、ようやく次のフライトで彼が飛び立てるまでの数日間、世話をしてくれたのが誰だったか想像できるだろうか。そう、あの二人の女性だった。「たとえ違いがあったとしても、彼女らは彼をサポートするために駆けつけ、助けたのです。」とトーマス・マシューは振り返った。「アジア学院で学んでいることは、学院にいる間は実感できません。そこでは、自分と違う人たちと一緒に暮らすといったことは、日常生活の一部と化しているからです。しかし、外に出てから、それがどれほど貴重なことだったかを実感します。故郷に戻ってから気づくのです。」  合意から生まれたリーダーシップ トーマス・マシューは、自他ともに認めるおしゃべり好きである。アジア学院では、誰とでも話し、冗談を交わした。特に、ティールームに行き、10円玉を箱に入れ、ティーバックを買うのが好きだった。「一つのティーバッグで、自分のお茶を淹れ、さらに他の人にお茶を淹れてあげることができます。それを誰かにあげれば、その人と話すきっかけになります。お茶を飲みながら話すことで、より親しくなれるのが好きでした。」と彼は語った。西日本研修旅行の直前、学生が集まり、リーダーを決定する会議を開き、高見先生が議長を務めた時の話に移ろう。候補者は二人おり、一人はトーマス・マシューと同じインド出身、しかも同郷のマラヤリ人で、二人は親しかった。もう一人はトーマス・マシューのルームメイトで、韓国の牧師だった。彼らは毎晩、部屋で手を取り合って祈る仲だった。トーマス・マシューはどちらか一方に肩入れしたくなかったため、お茶を飲むために席を外した。二、三人他に来るかもしれないと思ったが、議論が真剣になっていたため、誰も来なかった。一人でお茶を飲み終わって会議に戻ると、「リーダーはインドのトーマス・マシューだ。」という言葉で迎えられた。それは満場一致の決定であり、責任を避けようとしていたトーマス・マシューにとっては大きな驚きだった。高見先生は投票ではなく学生間の合意を求めており、結果トーマス・マシューが選ばれた。「私はその場にいなかったのに、満場一致で選ばれた。人生で唯一の出来事でした。」とトーマス・マシューは語った。 大地と共に、核に反対して 西日本研修旅行は、西日本を巡る長旅であり、学生は産業公害やホームレス問題、マイノリティに対する差別など、美しく発展した日本には存在するはずがないと信じていた事柄について学んだ。旅程を決める上で、広島と平和記念資料館を訪れるか、あるいは世界的に有名な自然農家で『わら一本の革命』の著者である福岡正信氏のもとを訪れるかという決断をしなければならなかった。当然ながら意見が分かれたため、スタッフはグループを二手に分け、両方を訪れる手配をした。 帰ってきて、全員が集まり、旅の感想を共有した。広島についての話題になった時、トーマス・マシューはリベリアからの学生に発言を求めた。彼はアフリカ出身者の中で唯一広島グループに参加し、「広島に行くことによって大きく変えられた」人物だった。リベリア人学生は次のように語った。「あなた方は自然農法について話しているが、もし核戦争が起きたら、あなたの農場はどこにあるのか? 農場などない。大地も、人間もいない。我々は広島を訪れた。それは転機だった。この世にあるものが、一瞬で破壊され得るということを、広島から学んだ。日常生活のためには有機農業が必要だが、私たちは大地と共に、そして核戦争に反対しながら取り組まなければならない。両方を組み合わせる必要がある。自然農法だけに固執してはいけない。同時に、平和な世界について語らなければならない。もう戦争はいらない、もう広島も長崎もいらないと話さなければならない。できることならば広島に行って、見てくるべきだ。」 トーマス・マシューは、「素晴らしい発表でした。当時の私は、彼のように発表することはできませんでした。」と締めくくった。 養蚕の仕事 トーマス・マシューの自宅があるエラントゥール村からわずか5分の場所に、マール・トマ教会が運営する「シャンティ・アシュラム」がある。シャンティは平和を意味し、アシュラムは一種の宗教的な共同体である。ここで、シスター・マリアマ・トマス(1978年アジア学院卒業生)に会った。その日は彼女の誕生日だったので、トーマス・マシューがケーキを持参した(私に渡すように頼んできた)。彼女の年齢は定かではないが、「定年なしシステム」がここでも適用されているようだった。 話を進める前にまず、一つの短いストーリーを紹介したい。これは、草の根のリーダーを育成することの美しい波及効果を私に改めて示した出来事だった。アジア学院にいた頃、シスター・マリアマは養蚕を学びたいと説明した。これは学院のカリキュラムにはなかったが、彼女にとって重要だったため、スタッフはその技術を知る女性の元で学べるよう手配した。インドに帰国後、彼女はアジア学院に彼女を派遣した、バンガロールのホスコット・アシュラムで養蚕プロジェクトを始めた。バンガロールは南インドの他の地域よりも涼しく、カイコが巣を作る特定の品種のクワの木がよく育つ。人々は彼女から養蚕を学ぶために遠方から集まり、多くがそれを生計の手段とした。彼女がこの活動を行ったのはわずか五年間だったが、絹の生産は今日までそのコミュニティの重要な産業として続けられており、インド政府によって推進されている。彼女は笑いながら、アジア学院に行くことにさえ興味がなかったが、司教に「行って、養蚕を学び、農民に教えなさい」と説得されたと話した。私は、シスター・マリアマが40年以上前の学院での日々に帰り、トーマス・マシュー、私、そして同席していた他の二人のシスターと記憶を共有するのを嬉しく思いながら、眺めていた。「自分の持っているものを用いよ」というアジア学院の信条は、今日でも強く残っており、彼女に大きな感銘を与えた。彼女は、台所に食材を供給していたアジア学院の大きな農場について話し、収穫した特定の野菜まで覚えていた。「ここアシュラムにも菜園があるので、市場から野菜を買う必要はありません。」と彼女は話した。ただし、最近ではイノシシが侵入し、費用のかかるフェンスが必要だという問題も抱えている。 野菜はあなたを強くする シスター・マリアマは管理責任者であり、同席していた他の二人のシスターと一緒に働いている。一人は洋裁と刺繍を教え、もう一人はカウンセリングとアシュラムの広報活動を担当している。彼女たちは皆ベジタリアンであり、朝食に用意された豆のお粥を私と分かち合った。見た目よりも美味しかったと認めざるを得ない。本当に美味しかった。シスター・マリアマはアジア学院の同期の中で唯一のベジタリアンだったが、提供されるスープ、お米、パン、バターに満足していた。高見先生はかつて彼女に「あなたは野菜だけでも強い。野菜があなたを強くする!」と言った。ここアシュラムでは、ミサ用のワインとパンを自分たちで作っている。外部からは買えず、キリスト教徒によって作られなければならないからだと説明を受けた。 アシュラム周辺にて アシュラム周辺を散策し、まず彼女たちの洋裁センターを訪れ、数人の女性がまっすぐな縫い目を練習しているのを見学した。刺繍の様子も見せてもらった。担当のシスターが、フリーハンドで見事に花の模様を作り出していた。 SEEDSインディアも洋裁を教えていることを思い出されたと思う。トーマス・マシューはこの教師たちと頻繁に協働している。次に、身体的・精神的に困難を抱える女性たちのための緩和ケアセンターを訪れた。六人の入居者は、伝統的な家族向け複合施設に住んでおり、四つの家が向かい合って建てられ、中央に四角い中庭を形成している。二人のスタッフが、安全のため外出の許可されていない入居者の世話をしており、中庭は、花が咲く木々が植えられ、美しく保たれていた。最後に、私たちは孤児院に移動した。ここは昨日会ったシスター・サミュエルがかつて担当していた場所である。現在、18歳未満の少女20人がここに住んでおり、廊下で会った時、彼女たちは私にグアバをくれた。私はお礼を言い、日本語の「ありがとう」の言い方を教えた。その日は祝日だったので、訪問者が教会からの寄付を持参するために立ち寄っており、少女たちの仕事は丁重に贈り物を受け取ることだったようだ。シスターたちの日常は瞑想、礼拝、そして祈りに満ちており、私たちは礼拝堂に招かれて一緒に祈った。一人ずつ順番に声に出して祈り、私もそうするよう求められた。シスター・マリアマは私とアジア学院の名前を挙げて祈ってくれた(ここはにっこりの絵文字をつけるところだ )。その後、彼女たちは私に聖餐用のワインを少し出してくれた。それは祝福されていなかったと思うので、御聖体ではなく、ただ味見のためだった。甘く、アルコールは感じられなかった。アシュラムを去る時、シスター・マリアマはアジア学院には感謝しており、よろしく伝えてほしいと話した。 卒業生の集い トーマス・マシューは、インド国内外の他の卒業生についてよく話していた。彼らと連絡を取り合うことに最善を尽くし、これまでに二度、大規模な集まりを企画している。最初はアジア学院を卒業した翌年の1989年で、高見先生や他のスタッフも参加した。その年には、グレッチェン・デブリーズ、パム・ハセガワ、そしてアジア学院のテーマソング『Take My Hand』を書いたクリストファー・グランディも彼の元を訪問した。2回目の集まりは2000年に開催され、これは本当に大規模だった。「ミレニアム・カンファレンス」と題され、インドだけでなく、スリランカ、バングラデシュ、ネパールからも卒業生が集まり、74人が出席した。中には、会場にたどり着くまでに片道5日もかけて移動した者もいた。信じられないほどの努力だ。トーマス・マシューは今、次の集まりを誰かが企画してくれるのを待っている。あれから25年も経ったからだ。 トーマス・マシューに関するその他のメモ書き トーマス・マシューは、イスラム教徒の商人から魚を買っている。この商人は毎日、60km離れた海から新鮮な魚を運んでくる。宗教上の理由で彼から買わない人もいる。トーマス・マシューにとって、これはナンセンスでしかない。 近くには、森林作業や祭りのためにゾウを訓練する場所がある。昔、ゾウを所有することはベンツを持つようなものだった。 タピオカがキャッサバと同じであることをご存知だろうか。私はこの事実を全く知らなかった。多くのアフリカの卒業生は重要な主食としてキャッサバを栽培しているので、キャッサバについては知っており、アフリカ諸国への旅行中によく食べた。第二次世界大戦後、ケララ州ではお米が不足し、農家はキャッサバを植えたが、彼らはそれをタピオカと呼んだ。それは今日も栽培されている。人は毎日何かを学ぶものだ。

South India – Day 2

Thursday, February 6, 2025 Where are the people? Despite attempts to cling to sleep, jetlag had me up in just a few short hours, so I took a warm bucket bath and ventured out into the lush garden of the compound.  There was not a soul to be found.  Oddly, I had come to a country of one billion people, and couldn’t find even one of them.  As I meandered across the garden, soft singing approached my ears; an early morning mass.   At once, I followed it to its source, … Read more

South India – Day 3, part 3

Friday, February 7, 2025 ‘This medicine to be taken with food’ Next, we went to check out what Yamanoshita san was doing.  Yamanoshita san is a longtime volunteer from Japan, coming to SEEDS since around 2000.  COVID and the occasional visa problems sometimes keep him away, but for a good part of 20 years, this place has been where he calls home.  A slow and meticulous fellow, he prepares each food bag with bread and a banana – the bread is high quality, from a local bakery, which SEEDS pays … Read more

クリスマス・ウィンターキャンペーン 2025
Christmas and Winter Donation Campaign