2025年 2月21日 金曜日
ヒマラヤの山々
「スティーブン、ヒマラヤが見えるぞ。見に行かないか?」部屋を出て、谷全体を朝日が照らす清々しい山の空気に触れた瞬間、スーレンダーが興奮気味に声をかけてきた。もちろんだ。あの雄大な峰々がその姿を現してくれるというなら、見逃す手はない。我々は、スーレンダーの知る最高の展望ポイントへ、ほとんど駆け足で向かった。雲がいつまで味方してくれるか、朝日がいつまで雪冠を完璧に照らしてくれるかは誰にもわからないからだ。「あれがバンダル・プンチ、別名『猿の尻尾』と呼ばれる頂だ。」と彼は指さした。世界中の誰もがエベレストの名を知っているが、この壮大な連峰には何千もの山がある。猿の尻尾という頂の標高は約6,300m。アメリカの読者のために言えば、20,000フィートを超える高さだ。
ライプールを巡るトレッキング
本日の予定も、当然ながらトレッキングだ。それが村々へ辿り着く唯一の方法であり、スーレンダーという人物を知るための最良の方法でもある。今日はリタ、マノジ、そしてもう一匹、四本足の友人も加わり、ライプールと呼ばれる地域を抜けて下っていくことにした。ここの犬たちは冒険の気配を察知するのが得意で、置いていかれるのを嫌がる。
我々は、数軒のゲストハウスを通り過ぎ、例のごとく悪名高き急坂を下り、カシやスギの木立の間を縫うように続く、人通りのある小道に出た。あちこちで、ウッタラーカンド州の州花であるシャクナゲが早くも花を咲かせ、道を彩っていた。間もなく、森は赤やピンクの輝きに包まれることだろう。若かりし頃のスーレンダーは、この地で狩りをして過ごした。時には一晩中野宿したり、深い雪の中を歩き回ったりしたという。野生のヤギやイノシシ、ミミジカ、野鶏、そして様々な種類のヤマウズラを追った。しかし、ずっと昔に彼は銃をカメラに持ち替えた。そうしたことで、今はもっと安らかな気持ちでいるという。
道中、最初の一軒家
ほどなくして小さな家にたどり着き、住人たちが迎えてくれた。母親は皿を洗い、息子のロハンは牛に飲ませる水を汲んでいた。彼はカプラニ学校の生徒だ。父親が足を止め、しばらく我々と話をした。彼とスーレンダーはいくつかのプロジェクトで共に働き、スーレンダーは、山中のあちこちの家と同様、この家にも何度も泊まったという。他に場所がなければ牛舎で眠ることもあった。昔は夜遅くまで、男たちと地元の酒を酌み交わし、地元のタバコを吸って絆を深めたものだ!
MGVSの最初のプロジェクトの一つは、1986年にこの家、そしてその先にある集落へ水道管を引くことだった。本来は政府の仕事だが、政府はこの地域には予算をかけるほどの人口がいないと言った。ロハンが牛に水を飲ませている光景は、このプロジェクトがいかに重要だったかを物語っている。水道管がなければ、人間や動物の飲み水だけでなく、料理や洗濯のための水も、はるか遠くから急な斜面を登って運んでこなければならなかった。それは気が遠くなるような重労働であり、その役割のほとんどを女性が担っていたのだ。
この家の飼い犬が吠え始めると、我々に同行していた犬は縄張り争いを避けるために逃げ出した。我々が進むと、森のどこからかまた現れたが、姿を見せたかと思うと、今度は尾の長いサルを追いかけて消えてしまった。そこで私は、彼に日本語の「あちこち」という名前を付けた。
登山道での会話
ハイキングのつねとして、道中の会話はとりとめもなく、自然なものだった。「あの枝を切り落とした木々は『電柱の木』と呼んでいる。村人はオークの葉を家畜のエサにするんだ。でも、あっちの木を見てごらん。一本も切られていないだろう。あれは神様のために残してあるんだ……」「あの大きな葉っぱは昔、皿として使った。竹はコップに……」「この辺りの村では、ウルドゥー語とヒンディー語が混ざった言葉を話すところもある……」「村にとって結婚式は最大のイベントだ。全員が参加するんだ……」「アジア学院から帰った時、上司に『学んできたことを村で見せてくれ』と言われた。だから菜園を作った。それまで彼らは野菜を育てていなかったんだ……」「政府のワクチン接種プログラムがここまでは届かなかった。だから各家族と相談して、子どもたちを一箇所に集めて接種を受けられるようにしたんだ……」「谷底に見えるテントはネパールからのシェルパたちだ。冬の間、水牛を連れてここへ来るんだ。」
登ってくる三人の女性に出会い、しばらく立ち話をした。言葉はわからなかったが、「どこから来たの?」「どこへ行くの?」「家族は元気?」といった会話だったのだろう。スーレンダーが彼女たちのことを知っていたのも、驚くにはあたらない。
パトラニ村
やがてパトラニ村の別の家に到着し、ここでもスーレンダーの友人が我々を迎え入れ、すぐに紅茶を淹れてくれた。庭では、これまで見た中で最高に可愛い「子どもたち」が遊んでいた。といっても、子ヤギたちのことだが。リタと私はカメラを持ってヤギたちを追いかけ回した。この村も灌漑プロジェクトの経路上にあり、村に届けるために3.5kmの水道管が敷設された。水が流れ始めた日の村人たちの喜びを、スーレンダーは今も覚えている。もう水を汲むために1kmも歩く必要はなくなったのだ。現在、その管は政府が設置した配管へとアップグレードされている。ここには1974年に建てられたMGVSの学校もある。通う子どもがいなくなったため2018年に閉校したが、現在はゲストハウスのような役割を果たしている。敷地を探索していると、入り口に二人の若い女性が立っていた。先ほどの男性の娘さんたちだ。二人ともカプラニ学校の卒業生で、今は大学生だという。少し照れくさそうにしながらも、一緒に自撮りをした!残念ながら「アチコチ」は、そこの飼い犬と喧嘩をして負け、どこかへ走り去ってしまった。それっきり、彼を見ることはなかった。
農村指導者たち(Rural Leaders)
スーレンダーは自分のことを「根っからの地元っ子(very local boy)」と呼ぶ。「私は山の村で生まれたんだ。」この数日間、彼の傍らを歩き、彼が人々と接する様子を観察し、あらゆる道や小道がどこへ通じ、誰が住んでいて、彼がどう助けてきたかを語るのを聞いているうちに、私は高見先生がアジア学院を創設した時に成し遂げたかったことが分かってきたような気がした。高見先生は、「彼らを助けよう」とか問題を解決してやろうという考えで、世界の貧しい地域へ行ったわけではない。全くその逆だ。そうした場所へ赴いた時、先生はそこに才能と献身、そして希望に満ち溢れた素晴らしい人々がいることを発見したのだ。先生はこの人々を「農村指導者たち(Rural Leaders)」と呼んだ。私の想像の中では、先生はこう言っている。「この人たちは私よりもずっとより良く、人々のために尽くすことができる。ならば、私はこの人たちのために何ができるだろうか。」―そうしてアジア学院が始まったのだ。もちろん、当時の高見先生の真意は量りかねるが、スーレンダーのような卒業生に一人一人会い、彼らの物語を聞くたびに、私はアジア学院のエッセンス、高見先生の夢の神髄に触れているような気がする。この感覚を表現するのは難しいが、これだけは言える。我々がアジア学院で行っていること―それは、確実に実を結んでいる。
デラドゥンへ戻る
行きが下りだったということは、帰りは登りだ。下っている間もずっと頭の片隅にあったこの事実は、帰路につく段階になって、決然と最前線に躍り出てきた。「あちこち」が先導してくれないのは寂しかったが、良き仲間に恵まれ、帰りの足取りは軽かった。マノジはキッチンへ直行し、すぐに素晴らしい昼食を作ってくれた。食後、私たちは再びマヒンドラに乗り込み、デラドゥンへの帰路に就いた。下る途中、道端に、上からも下からも押し潰された車が落ちているのを見かけた。つい最近崖から転落したかのようだった。この道がいかに危険か、そしてそこを横断するスーレンダーがいかに熟練しているかを、改めて思い知らされた。
カーブを曲がるたびに、デラドゥンの街全体が見渡せた。街はすでに谷を埋め尽くし、今や狭い渓谷に向かってその腕を伸ばしている。スーレンダーは再びアジア学院での日々に思いを馳せ、私にというよりは自分自身に言い聞かせるように、短い言葉で締めくくった。「あのプログラムは、本当に素晴らしいよ。」