南インド 10日目

2025年 2月14日 金曜日


二度の朝食

今日はバレンタインデーだ。インドでも浸透し始めていると聞いていたが、目に見える兆候は特になかった。朝食のシステムを理解したと確信した私は、レストランへ降りていき「朝食か?」と尋ねた。ウェイターの「オーケー」という返事で、この複雑な交渉は成立した。ほどなくして、ライス、カレー、ヨーグルト、そして数種類の焼き立てのパンをのせたトレイが運ばれてきた。それを食べ終えようとした時、ロイ・デイビッドから朝食を食べに来ないか、というメールが届いた!見事な行き違いのおかげで、二度目の朝食にあずかることとなったのだ。

シャミ

二度目の朝食(ホビット族なら私を称賛することだろう)をご馳走になりながら、シャミから詳しく話を聞いた。彼女は40年以上にわたり社会活動に携わっており、その長いキャリアを反映して、話はあちこちへ飛んだ。ロイが先住民の土地問題に焦点を当てているのに対し、彼女は先住民だけでなくすべての人に対する「教育」を重視していた。例えば、家庭環境が困難な子供たちの通学を支援してきたが、これは彼女自身の三人の子供を育てる傍ら行われた!また、女性たちを支援し、SHG(自助グループ)を組織して有機農業を推進し、各家庭に食料と副収入をもたらした。これらのグループは後に信用組合へと発展した。それは、人々が「自分たちのアイデンティティに気づき始めた段階」にあった1980年代のことだ。

2006年、彼女は150人の女性を連れてデリーのワールド・ソーシャル・フォーラムに参加した。その一行にはアディヴァシ、ダリット、性労働者、そして彼女が「最高のダンサー」と評したトランスジェンダーの人々も含まれていた。彼女は5年間、バンガロールの別のNGOで働いた経験もあり、そのネットワークはこの地域の志を同じくする組織を結びつけるのに役立った。シアトルでの3ヶ月の研修中には「ビレッジ・ボランティアーズ」という組織を知り、その後10年間にわたってCORDでボランティアを受け入れる体制を整えた。ボランティアたちは10日から15日間滞在し、学校で英語を教えたり、地域住民と植樹を行ったりした。現在は以前ほど自由に動けなくなったため、彼女は報告書の作成や文書化を通じて先住民を支えるサポート役に徹している。

共に生きるために

会話の中で、シャミはアジア学院のモットーである「共に生きるために(That We May Live Together)」という言葉を、自身の一番の学びとして何度も繰り返した。異なる文化や考え方を持つ人々が集まるアジア学院でそれを実践するのは非常に困難だったが、だからこそ強い衝撃を受けたという。帰国後、「人生はまさにこれに適応することの連続でした。」と彼女は語った。家族の中で、そしてコミュニティの中で、共に生きること。

そこへ、がっしりとした体格の若者が入ってきて挨拶をした。彼らの息子、ロシェン・デイビッドだ。彼は有機農業に情熱を持って取り組んでおり、家族の所有する土地でお米やコーヒー、胡椒、ウコンを栽培している。しかし、彼の最大の情熱はフィールドホッケーにあるようで、インドにおいてこれは重大な事柄だ。

アーシャ

その日の午前中、別の卒業生も訪ねてきた。2017年のアジア学院卒業生、アーシャだ。彼女はケララ州カサラゴッドの自宅から4時間近くかけてやってきた。アーシャは2011年から2021年まで、CORDで先住民グループの地域開発指導員として働いていた。土地の権利や教育の問題に取り組む中で、彼女は「自分の役割は人々の問題を解決することではなく、人々が『自分たち自身で問題を解決する』のを支援することだった」と強調した。その際、アジア学院の「サーバント・リーダーシップ」のアプローチが非常に役立ったという。元々は何でも素早くこなすタイプだった彼女だが、アジア学院で「すべてを急いでやる必要はない」ことを学んだ。「まずは相手の話を聞く必要があります。」その例として、彼女はカメルーン出身のルームメイト、ネリーシェラとのエピソードを語ってくれた。二人は仲が良かったが、ある日アーシャが不慣れな英語でぶっきらぼうに「シェラ、ここに来なさい。」と呼んだ。すると彼女は「アーシャ、それは正しい言い方じゃない。『お願い、ここに来て』と言うべきよ。」と返した。些細なことに聞こえるかもしれないが、この短いやり取りは今もアーシャの心に残っている。アジア学院で毎日起こるこうした小さな出来事が、我々を成長させるのだ。「アジア学院は、コミュニティのために働く人々を作り上げるのに最適な場所です。」とアーシャは締めくくった。現在、彼女は結婚し、最近生まれた子どもの世話に専念している。

ジャパン・リンガッパ

夕方になって、ケララ州から我々を連れてきてくれたワジードが「オート」でロイの家に現れた。我々はムトゥ・リンガッパ(2004年アジア学院卒業生)に会うため、ゴウダナ・カッデという小さな村へ向かった。彼がアジア学院から帰国した際には、村中の200人以上の人々が歌い踊り、花を持って彼を迎えに出たという。村の誰も遠出したことがなかったため、彼らはムトゥの日本行きに熱狂し、自分たちもその一部になったかのように感じたのだ。彼はアディヴァシであり、彼がアジア学院で学ぶ代表のリーダーに選ばれたことを、村の全員が大変名誉なことだと感じていた。村には「リンガッパ」という姓の者が二人いるため、帰国したその日から、彼は「ジャパン・リンガッパ」と呼ばれている。

村に近づくと、ロイ・デイビッドが「ここは、この地域で最も初期に土地争議が起きた場所の一つだ。」と説明してくれた。その闘いは、60世帯に対して600エーカーの共同体土地を認めるという形で幕を閉じた。それ以前には、政府が土地を民間企業に貸し出すために、アディヴァシたちは全員追い出されていた。3,800エーカーの土地で、輸出用の香水の原料となる香料草が栽培されていたのだ。リース期間が終了して企業が去った後、CORDが人々を組織して土地を取り戻した。それが1985年のことだ。CORDがいなければ、この人々は今ここにいなかっただろう。

ムトゥは、花と庭で採れたレモン、そして力強い抱擁で私を迎えてくれた。レモンで出迎えをするのには何か理由があったのかもしれないが、私には分からなかった。彼との再会は20年ぶりで、その間に彼はすっかりおじいさんになっていた。アジア学院にいた頃、彼は私よりずっと若かったが、今では彼の方がずっと年上に見える。

玄関先での集い

我々三人は、ムトゥの家の前のポーチに座り、友人や近所の人々も加わった。妻のスミトラも少し離れた場所に座り、話に加わった。ムトゥの限られた英語は当時と変わっていなかったが、コミュニケーションに支障はなかった。いくつかの名詞と動詞を並べるだけで、彼がどれほど多くのことを表現できるかには驚くべきものがある。もちろん、ロイが通訳として助けてくれた。ムトゥの学歴は小学6年生までにとどまり、アジア学院にとっては慎重に検討すべきケースだった。学生には通常、最低でも高校卒業資格を求めているからだ。しかし、彼のリーダーとしての役割、ロイ・デイビッドの推薦、そして村人全員の支持に基づき、我々は彼を真の農村リーダーと認め、研修に招いた。

だが、帰国後、彼は深刻な困難に直面した。パンチャヤット(村議会)の役職に就いたものの、政治的な操作に巻き込まれてしまったのだ。状況を完全に理解することはできなかったが、彼はその罠にはまり、自分自身を見失った。土地を放置し、賃金労働者として働き、酒に溺れる日々が続いた。幸いにも(不適切な表現かもしれないが)、彼を苦しめていた人物が5年後に亡くなり、ムトゥは自分を取り戻した。今、彼は働き者の農民だ。牛舎には四頭の乳牛、一頭の若い牡牛、11頭の子牛がおり、2エーカーの土地を借りてバナナとトウガラシを栽培している。家には妻が営む小さな売店が併設されており、彼はバイクと車を所有している。その車は、息子が「村のウーバー」のように人々を乗せて走らせている。ムトゥはほとんどの時間を農場の世話に費やしている。

コーヒー摘み労働者からコーヒー農家へ

彼は今もコミュニティのために働いているが、それはまさに村に住む隣人に対しての、より身近なレベルでの活動だ。「私は今、自分の人々のために働いています。」と彼は語った。かつては賃金労働や薪の販売で生計を立てていた彼らだが、今は土地を持つ農家となり、生活は大きく改善した。皆で共有する土地ではマンゴー、ココナッツ、ジャックフルーツ、アボカドを育てている。さらに、自分たちのコーヒー農園も始めた。かつてその多くが他人の農園で働かされていたことを考えれば、これは画期的なことだ。

この土地を全員の利益になるようにどう使うかを決めるには、たくさんの会議と話し合いが必要だ。辺りを見回しながら、ムトゥは人々が「家」に住んでいることを指摘した。かつては小屋暮らしだったが、彼は政府への補助金申請を手助けし、まともな家を建てられるようにしたのだ。ムトゥの夢は、人々が独立し、特に食料面で自給自足できるようになることだ。そのために、彼らは300エーカーの土地に届く灌漑システムの設置を政府に求めている。コミュニティで最も美しいものは何か、という私の問いに、ムトゥ氏は「分かち合い、助け合う文化だ。」と答えた。結婚式や葬儀といったあらゆる行事に、村中が集まるのだという。

我々が腰かけて、道を眺めていると、明日のパンチャヤットの会議を知らせるトラックが通り過ぎた。しばらくすると、チベット僧の小グループが通りかかり、その中の二人の少年が道端のイヌにエサをやるために足を止めた。地元の「スクールバス」から降りた子どもの一人は、側転をしながら家へと帰っていった。村長の母親も立ち寄り、私に挨拶をしてくれた。

幸運

訪問の終わりに、ムトゥは片隅から乾燥したヒョウタンを取り出し、それを振り始めた。古くからの信仰によれば、この「ブルデ」を病人の周りで鳴らすと、精霊が呼び出されて苦しみの原因を突き止め、治してくれるのだという。人々がどれほどこの信仰を信じているかはわからない。ムトゥは、これを幸運の象徴として私にやってくれたのだと感じた。

ワジードがオートで迎えに来たが、乗り込もうとする直前、ムトゥが家の裏に来た客人に会いに来るよう我々を呼んだ。それは幸せを運んでくる鳥、ニシインドコサイチョウだった。この鳥は毎日やってくるようで、皆がその姿を見て喜んでいた。ようやく出発する時に振り返ると、ムトゥは夕闇の中に消えるまで、道の真ん中に立って手を振り続けていた。ホテルに戻ると、私は再び料理人にショーマを注文した。彼は快く作ってくれ、今回はチャパティを一枚サービスしてくれた。

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